【全文】「食事に招いてくださる神」マタイによる福音書9章9節~13節

イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。 マタイによる福音書9章10節

 

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝をできること、心から感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。こどもも一緒に、すべての人が共に礼拝をしています。声が聞こえることもありますが、それも礼拝の一部として、ともに礼拝をしてゆきましょう。

私たちは今月「地域と福音」というテーマで地域活動の中から聞こえてきた福音を考えています。特にこの3回はホームレス支援から聞こえてきた福音を見てきました。ホームレスのパトロールから、神様は訪ねてくださるお方だということ。シェルターから神様は家になってくださるお方だということ。そして今日は炊き出しから、神様は食事に招いてくださるお方だということを見てゆきたいと思います。

私たちの教会の庭で、毎月第二金曜日に市民団体と協力して「炊き出し」を行っています。現在はコロナで会食ができないこともあって、食料配布という形ですが、普段は庭であつあつの豚汁とおにぎりをみんなで一緒に食べています。

参加は誰でもOKです。ホームレスの方だけではなく、普通の家に住んでいる方も集まっています。参加者は食料を求めてやってくるという面ももちろんありますが、どちらかと言うと、誰かとの交流を求めてやってくる方が多いように感じます。誰かと話したい、寂しい、そんな思いでこの教会を訪ねてくるのです。月に一度ですが、仲間たちと声をかけ合って、それぞれの近況・健康・生存を確認しあう場所になっています。

食事は準備するボランティアと参加者が一緒に、同じテーブルで食べます。これは他の多くの炊き出しと違って珍しいことかもしれません。食べ始めれば誰が渡す側で、誰がもらう側かの区別はなくなります。みんなが一緒に食事をするスタイルです。

一緒に食事をすることはとても大切な時間です。こちらが訪ねるパトロールではゆっくりは話できないのですが、食事の準備ができるのを待つ、一緒に食べる、片付けるといった時間を共有することで、自然にお互いの事を語り合うようになります。

パトロールではほとんど会話をしてくれない方でも、一緒にテーブルの準備をし、一緒に膝を合わせて食事をしていると、いつの間にか打ち解け合うことができます。ボランティアと参加者の垣根が取り払われる、ボーダーレスな時間です。ワイワイと楽しく食事をしながら、お互いの今までの経験や自慢話、家族の事、健康の事さまざまなことを話し合っています。

忘れられないのは、ある夏の暑い日の炊き出しのことです。暑い中、汗びっしょりになりながら、福島県出身のSさんと同じテーブルでアツアツの豚汁を食べました。ワイワイと食事をしているうちにお互いに自分の出身地の話になりました。

Sさんの実家は震災で津波に流されてしまったそうです。自分の家族も津波で亡くされたのだという話を教えてくれました。Sさんと一緒に大粒の汗を流しながら熱い豚汁を食べていたのですが、その目には涙が浮かんでいるように見えました。汗だか涙だかわからなくなりながら、とにかく一緒に食事をし、お互いのことを話しながら食べたのです。食事を通じてできた交流の深さ、大事さを教わったような気がします。

参加者の方はよく、教会の事を心配してくださいます。食べ終わった後、植木の手入れをしてくれたり、自転車を修理して下さったりします。このように食事をすることがきっかけになって、様々な相互関係、信頼関係が生まれています。

そういった信頼関係は、私たちだけではなく参加者の方たちにとってもかけがえのないものかもしれません。社会から白い目で見られることも少なくないでしょう。自分の名前を呼ばれることも少ないでしょう。その方たちもこの場所では同じ命、同じ人間として対等で、尊重しあい、信頼しあえるのです。私はこの炊き出しの場所がそれぞれの命の大切さを知る場所になっていると感じます。

今日も聖書を見ますけれども、イエス様との食事もそのような、偏見や垣根のない食事会でした。この食事会は招かれた人が同じ命、同じ人間として、対応に尊重しあえる食事会でした。イエス様はそのような集いへと、すべての人を招いてくださるお方です。神様は私たち全員が同じ命、対等な人間なのだということを教えてくださるお方です。

 

今日の聖書箇所を見ましょう。イエス様が人々と一緒に食事をしたと記されています。この食事会の場所はどこだったのでしょうか。マルコを読むと、それは徴税人の家だったと書いてあります。ルカもおそらくそう考えているでしょう。イエス様が招かれて食事をしています。

しかし今日のマタイ福音書を見ると、実は食事会の場所は明確に示されていません。あいまいなのです。10節には「その家」とありますが、いったい誰の「その家」なのかは書いてありません。むしろ9節の「従いなさい」という文脈からすると、イエス様の家だったという読み方も十分にできます。この場面はイエス様が人々を自分の家に招いたと想像できる箇所です。イエス様はご自分の家の食事会に人々を招いたのです。イエス様が自宅に招いたのは罪人と呼ばれた人でした。この罪人とは誰のことでしょうか。どんな人でしょうか。何かの犯罪を犯した人、人を傷つけた人、もちろんそれも罪人です。しかし聖書の時代の罪人とは、もっと広い意味を持っていました。

これは差別を含む言葉でした。たとえば羊飼いは罪人でした。移動しながらの生活は律法を守ることができなかったからです。他にも異邦人・外国人もみんな罪人でした。このように職業、住所、出身、宗教、国籍などによっても罪人とされたのです。この罪人という言葉には、多くの差別が含まれています。宗教的や社会的に見て「ふさわしくない人」と判断された人はみな、罪人と呼ばれたのです。

よく罪とは「的外れ」を意味するといいますが、罪人もそうです。「的を外れた人」という意味です。この丸の中にいない人、ふさわしいと思われる、丸の中にいない人を罪人と呼んだのです。

当時の社会では、特に食事の場面で厳しく「ふさわしくないとされた人」「罪人」との関わりが禁じられていました。食事会に誘われると、行く前に必ず、誰が参加者かを聞き、その中に罪人がいないかを確認するという習慣があったそうです。そして罪人、ふさわしくないと思われる人がいた場合、一緒に食事すると自分も穢れてしまうという理由で、その食事会をきっぱり断ったそうです。

そのような背景の中で読むとき、イエス様が罪人と呼ばれる人、差別された人を、自分の家に招き、一緒に食事会までしたというのは大変な驚きだったということがわかります。当時の常識から考えれば、ヤバイ食事会です。あんな人とは関わってはいけない、まして食事など絶対に一緒に食べてはいけないといわれる人が、差別された人が、たくさんイエス様の家に招かれたのです。

でもその食事会、きっと本当に楽しかったのではないかと思います。ふだんなかなか食事会に誘ってもらえない人が招かれた食事会です。それは社会からのけ者にされ、希望を持てずにいた人たちが招かれた食事会でした。メニューは何だったのでしょうか?(ユダヤの人々は豚肉を食べないので、豚汁は出なかったはずです)。それは本当に垣根のない食事会でした。

いまの私たちなら一緒に食事ができないという寂しさをよく知っています。一緒に食事をしてはいけないと言われる気持ちがよくわかります。食事ができないと交わりが十分にできないものです。早く一緒に食事したいねという言葉もよく聞きます。でもここで罪人と呼ばれている人は何十年もずっとそれを感じていた人です。ずっとみんなと食事をすることが許されなかった人です。

しかし彼らは今日、食事に招かれました。何十年も寂しさ、苦しみを感じ、お前とは食事をしないと言われ続けてきた、その人が招かれた喜びはどれほどのものだったでしょうか。人生の記憶に残る食事会になったでしょう。

そして、招いたイエス様のことをどう感じたでしょうか。この人はどんな人も、どんな命も対等に扱う人だ。私のことを招いて、そのまま受け止める人だ。そう感じたのではないでしょうか。

まさにイエス様とはそのようなお方です。イエス様はどのような人でも、分け隔てなく神様のもとに招くお方です。私なんか、ふさわしくないと思うでしょうか。今日の箇所によれば、その人こそ招くお方です。

ふさわしくなくても招いてくださる神様なのではありません。ふさわしくない者こそ招いているのがこの食事会です。神様はこのように人を招くお方です。食事に招くお方です。私たちはふさわしい者でしょうか。ふさわしくない者でしょうか。私は自分こそ神に呼ばれてふさわしい者だとは思いません。私はふさわしくない者です。しかし神様は、ふさわしくない私を、神様のもとに招いてくださるお方です。

そして招かれた場所は、大きな喜びが待っている場所です。仲間が待っている場所です。神様は素晴らしいと、招かれたことを一緒に喜ぶ集まりです。私は私たちの教会もそのような教会でありたいと思います。ふさわしい者の集まりではなく、ふさわしくない者が招かれたことを喜び合う場所、そんな教会でありたいと思うのです。それがイエス様の家、教会だと思うのです。

13節には『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とあります。神様は宗教儀式を繰り返すことを望んでおられるのではありません。憐みを求めておられます。憐みとは「かわいそうだ」と思うことではありません。相手の気持ちをわかる、相手の気持ちに触れるということです。

毎月第二金曜日に炊き出しが行われています。イエス様が招いたように教会が、誰とも分け隔てせず一緒に食事をする、そのような場所を目指しています。そして日曜日の礼拝もそのような場所にしてゆきたいと願います。ふさわしくない者同士が招かれたことを喜び合う、愛し合う場所としてゆきたいと願います。私はこの福音を炊き出しから聞きました。お祈りいたします。