【全文】「ジェラる神」ゼカリア書8章1節~8節

 

万軍の主はこう言われる。わたしはシオンに激しい熱情を注ぐ。激しい憤りをもって熱情を注ぐ。

ゼカリア8章2節

 

みなさん、おはようございます。またあけましておめでとうございます。今日もこうしてみなさんと共に礼拝できること感謝です。今年も1年、毎週の日曜日、共に礼拝をおささげしましょう。私たちは今年もこどもを大切にする教会です。今年1年も子どもたちの声を聞きながら共に礼拝をしましょう。

今日はやきもちを焼くということについてお話をします。お正月と言えばおもちですが、やきもちを焼くという言葉があります。誰かに嫉妬するという意味です。やきもちを焼くという感情は案外、誰にでもあるものでしょう。

みなさんは最近やきもちを焼いたのはいつでしょうか?やきもちを焼く、ジェラシーです。若者ことばで、ジェラシーを感じるということを、ジェラると言うそうです。ジェラシーを感じる、嫉妬するというのはこどもだけではありません。むしろ大人こそ嫉妬し、ジェラシーを感じる、ジェラってしまうものです。

あの人はいつも、私にだけに冷たい。あの人はいつもあの人にだけ甘い。あの人ばっかりちやほやされている。もっと私も・・・。そのような嫉妬・ジェラシーの感情は小さくても私たちの心の中を見れば、実はよくあるものです。めんどうくさいものです。

嫉妬は特に恋愛の中では起こりやすいものです。自分の好きな人が、他の人のことをかっこいいとか、きれいとか言っているのを聞くと嫉妬・ジェラシーが起こります。自分の好きな人が誰かと仲良くしているのを見ると、嫉妬、ジェラシーが起こります。恋愛では嫉妬から、私だけを見て欲しい、他の人は近寄らないで欲しい、他の人としゃべらないで欲しい、世界に二人だけになったらいいのにと思うのです。

やきもちというは、扱いづらくも、どこかかわいげのある感情でしょう。好きな相手がいるからこそ抱く感情なのです。やきもちを焼いている時、自分の感情を正直に認めることも大事でしょうか。

好きな人からのやきもちを焼かれる側はどうでしょうか。めんどうくさくもありますが、愛されている感じがしてちょっと照れくさく、嬉しいものでもあります。もし嫉妬・ジェラシーをされてしまった時は、自分の気持ちがしっかりその相手に向いていると伝えることが大事です。相手にしっかりと見ていることを伝えれば、安心し、ジェラシーは収まることも多いものです。嫉妬・ジェラシーとは、相手の気持ちが自分に向いていないと感じた時に起こる感情だからです。自分の優先順位が低くされていると感じた時に起こる感情だからです。

時にはそれがもつれて、憎しみや、恨みになってしまうこともあります。冷静でいられなくなってしまうのです。独占したいという気持ちになってきてしまうのです。もっと強くなってゆくと自分も相手も苦しくなってしまいます。相手はどんどん引いていってしまいます。嫉妬するという感情は無理に気持ちを押さえつける必要はありませんが、相手との適度な距離感というのも大事なのではないでしょうか。

そして今日お話しするのは、神様も激しくやきもちを焼くお方だということです。神様は激しくジェラるお方なのです。私たちの中にあるあの感情を神様もお持ちなのです。今日はそのことを聖書から読んでゆきましょう。

 

今月の宣教のテーマは旧約聖書を読むということにしています。旧約聖書の神様はどうも怖い、怒っている。そんな印象をもつ私たちです。さらにゼカリア書はあまり宣教で取り扱わない箇所でもありますけれども、一緒に読んでゆきましょう。

今日の聖書箇所を見ましょう。2節には「激しい熱情」とあります。口語訳や新しい協会共同訳では「激しく妬む」と訳されています。熱情とは妬むことです。やきもちを焼くことです。嫉妬することです。ジェラシーを感じることです。ジェラることです。神様は激しくやきもちを焼くお方です。神様は激しく嫉妬し、ジェラシーを感じる、激しくジェラるお方だということです。

人間からみてあまり好ましいと思わない感情を、神様が激しく持っているというのです。しかしよく考えると、このジェラシーは私たちに神様のことをよく理解させてくださるかもしれません。

私たちは誰かに、自分だけ見ていて欲しい、自分だけに特別に接してほしいと思うものです。表に出さなくても自分の中に確かにあるものです。その激しい感情を私たちは自分自身がよく知っています。今日の箇所はその激しい感情は、神様も同じなのだということを語っているのです。

神様は激しい嫉妬、激しいジェラシーの感情をもっているお方です。でも神様は他の人間と一切しゃべらず、社会と一切関わらないで欲しい、私だけのことを考えていて欲しい、世界で二人だけになって欲しいと言っているのではありません。

神様が嫉妬するのは、他の人との関係も大事だけれども、私を一番にして欲しいということです。他の神や物・人を見ている人に向けて、私が一番ではないとダメと嫉妬をしているのです。それが神様のジェラシーです。

神様は私たちにジェラシーを燃やしています。神様は私たちに、神様を大切にしていること、神様への愛をしっかりと示してほしい、一番だと示して欲しいと願っているのです。私たちに、あなただけを私の神様とします、大切しますということを、知らせて欲しいと強く願っているのです。それが神様の激しい熱情です。

ですから神様は怒っているのとは違います。罰を下そうとしているのではありません。神様は私たちを愛していて、そしてちょっと愛が強すぎて、冷静でいられないのです。神様は私たちが少し怖いと思うくらい、私たちを激しく愛しているということです。

私たちは、神様にやきもちを焼かれています。私たちはその激しい熱情を怖いと思うのではなく、ちょっと嬉しいかもと感じてみてはどうでしょうか。やきもちはなんだか照れくさいけれど嬉しい、そう感じてみてはどうでしょうか。

神様が私たちを愛していて、もっと私だけを見て欲しいと激しくジェラっているのです。それを知って、ちょっとうれしさを感じるのです。神様はそのように私たちにジェラっているのです。

神は私たちが神以外のものに目を向けることから、自分に目を向けるように強く、冷静さを欠くほど願っています。私たちは神様を中心としてゆきましょう。他の宗教に惑わされてはいけませんというのではなく、それ以上にこの神様を私たち一人一人の中心としましょうということです。

私たちはすぐに優先順位を変えてしまいがちです。神様が一番でなければいけません。お金のこと、将来の事、人間関係のこと、介護のこと、病気の事、たくさんの心配があり、私たちの生活でそれが中心になってしまうことがあります。それに神様はジェラっています。

だからこそ神様は語ります。本日の箇所3節です。「私がエルサレムの真ん中に住まう」とあります。エルサレムとは私たちのことです。神様は私の、私たちの、私たちの教会の真ん中におられるということです。これが神様の願いです。神様は私を一番にしてほしい、真ん中にして欲しいと、強い愛情を持ってやってくるのです。私はあなたの真ん中にいるというのです。神様は私たちに心のすみっこではなく、真ん中に神様を迎えるようにと言っているのです。

そのために3節から繰り返されている言葉があります。「主はこう言われる」とあります。神様を真ん中にするために、私たちには神様の言葉が、繰り返しやって来るのです。私たちが神様を真ん中にすることができるように、神様の言葉が繰り返し、私たちにやってくるのです。

4節からは「エルサレムの広場」という言葉があります。聖書にはエルサレムの広場で杖をついたお年寄りが、こどもたちが笑うのを見ている様子が記されています。これは私たちの教会が大事にしている姿でもあるでしょう。教会に子供たちの笑い声が広がる様子と重なります。その声を聞いて、お年寄りが楽しそうに見ている姿です。神様を真ん中にして礼拝するということは、まさにこういう事をいうのだとつくづく思うのです。

神様が実現なさろうとしていることはこの姿なのです。神様は嫉妬から、争いと戦いを起こすお方ではありません。激しい罰を振りかざす方に見えても、本当は平和を実現しようとされる方なのです。

当時、戦争が始まれば真っ先に置き去りにされてしまったのはこどもと高齢者です。しかしここでは、こどもや高齢者が平和に暮らし、そして笑うのです。この平和を実現させ下さるのは神様です。神様はその平和の神を私たちの中心にしてほしいと、強く願って、嫉妬しているのです。

7節を見ましょう。神様は東の果てから、西の果てまで、いろいろな場所から人を集めるお方です。私を中心にしなさいと人々を集めるお方です。私をもっと中心にしなさいと語るお方です。そして神様は神様のもとで、あるいは神様の建てた教会のもとで、心休まる場所で、過ごすようにさせて下さるのです。そのように神様は私たちの神となってくださるのです。8節「彼らは私の民となり…私は彼らの神となる」とあるとおりです。

さて、新年を迎えています。神様は私を中心とせよ、そう激しい熱情を持って私たちに繰り返し語り掛けています。それができない私たちに嫉妬し、ジェラっています。

私たちの1年はきっとまた神様の言葉が繰り返し注がれる1年となるでしょう。そして私たちはそのような神様を中心とする、そんな1年にしてゆきたいと願います。この私たちを激しい熱情で愛してくださる神様を、そしてこどもと高齢者が笑い合う平和を実現させてくださる神様を今年もまた中心にしてゆきましょう。そんな教会にしてゆきましょう。

私たち一人一人の心の中心に神様を迎える、そんな1年にしてゆきましょう。お祈りいたします。