【全文】「もう十字架を背負わせるな」マルコ8章27~38節

 

わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。

マルコ8:34

 みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日も共に礼拝をしてゆきましょう。受難節の時を共に過ごしましょう。ウクライナの戦争のことを、なかなか言葉にできずにいます。21世紀にこのような戦争が始まったことをどのように受け止めたらよいのか戸惑っています。どう祈ったらよいのかわからない気持ちでいます。

多くの人と同じように、ウクライナに武器をたくさん送って、ロシアをやっつけて欲しい、プーチンを倒して欲しい、そのように応援したい気持ちもあります。しかしそのような思いを持ちつつも、やはり私は非暴力の観点から、平和の観点から、私の信じているイエス・キリストの観点から、ロシアとウクライナの軍事作戦のどちらも支持することができません。「この状況で非暴力による解決が役に立つのか」という質問は厳しい質問です。自分たちの国土を守ると必死になっている人に、攻撃をするなと声をかけることは難しいことです。しかしウクライナ・ゼレンスキー大統領の、国のために全員が武器を取って戦おうという呼びかけは、私がもっとも反対してきた言葉です。全世界から武器を集めて戦おうとする姿勢は勇敢なヒーローに見えます。しかし、どのように平和を作るかはもはや議論されていません。お互いを一人でも多く殺すことにしか目標は置かれていないのです。

確かなことは、一度戦争が始まってしまうと、それを止めることは難しいということです。一度戦争を始めると、日本がそうであったように終わらせることはとても難しいのです。遅かれ早かれ私たちが考えなければいけないことは、この状況になる前にできることはなかったのかということです。こうなる前にまだたくさんのことが非暴力によってできたはずです。ロシアの言い分からすればロシアは歴史的にいつも西側諸国からの脅威を受けてきました。フランスのナポレオンに侵略され、ナチス・ドイツに侵略されてきました。もちろん、だからといって自分たちが侵略することは許されません。こうなる前に互いが脅威と感じる点について平和的な対話がもっと行われる必要があったのではないかと思います。

しかしロシアやウクライナは、あるいは国際社会は、戦争の勝敗で物事を決めるということを選択しました。殺し合って、負けた側が勝った側の言うことを聞くという方法を選び取りました。お互いにとって都合の悪い人間は殺し、よりたくさん殺された方が、たくさん殺した方の言うことを聞くという決着を選びました。

多くの人の命が戦争、殺し合いにささげられています。どのような状況でも、戦争を支持すること、暴力を支持すること、それに協力すること、これは明白な間違えです。たとえ戦争の勝敗がついて、どちらかが勝利をしたとしても、平和は訪れません。家族が殺されたことは何世代にもわたって大きな憎しみを残します。戦争が終わっても、平和・シャロームは戻ってきません。貧しさ、憎しみ、復讐、テロが残されるでしょう。

この状況で何を祈るべきか戸惑います。しかし私がまずこの状況で祈りたいと思っているのは、ウクライナの戦火のもとで犠牲となっている人々の事です。多くのこどもたちの命が傷つけられて犠牲になっています。私がまず祈りたいのは、戦争にウクライナが勝つというような勝敗がつくことではありません。私が祈りたいのは銃弾の飛び交う中で生きなければならない、逃げなければならない、こども、女性、高齢者、障がいを持った人、攻撃された原発の近くに住む人、その犠牲にされる人々の痛みを覚え、そのために祈りたいと思います。

新しい憎しみを生み出す戦争が一日も早く終わるように祈ります。そして避難する人々、命を脅かされている人に、食べるもの、着るもの、安全な場所、薬などの必要が満たされるよう祈ります。そして魂の平安が与えられるように祈ります。希望をもって生きることができるように祈ります。そして特にウクライナのこどもが大切にされるように祈ります。世界が非暴力による抵抗によって、この問題に向き合うことができる様に祈ります。

都合の悪い者を殺し合うという暴力に反対し、犠牲とされる人々の痛みを覚えて、自分たちが何をすべきか祈りたいと思います。私たちは防弾ベストを送るのではなく、互いが平和に生きることについて支援ができなかを探し、祈りたいと思っています。私たちは受難節を迎えています。イエス・キリストの十字架の痛み、そして世界の隣人の痛みを覚え、今日の聖書を読んでゆきましょう。

 

今日の個所にはイエス様の質問から始まった、弟子との激しい会話が記されています。そうです私たちとイエス様との関係は激しい葛藤の関係です。私たちとイエス様の対話は、暴力と戦争に満ちた社会の中で、どのように生きるべきなのかという激しい対話、葛藤なのです。そのような中でイエス様は27節で周りの人々はどのように言っているのかを聞きます。そして、あなた自身はどう思うかを聞きます。

戦争の事をニュースでどういっているか?各国はどんな立場を表明しているでしょうか。そしてあなた自身はどう思うでしょうか?そのように質問されることは葛藤を生むでしょう。私たちはその質問から、戦争から、自分の信じているものが何なのかを問われています。一人一人が葛藤の中でその答えを探したいのです。イエス様とペテロの対話はそのような葛藤の対話です。

31節からは受難予告と言われる箇所です。イエス様が十字架にかかることが予告されます。しかしイエス・キリストはなぜ十字架にかけられるのでしょうか。私たちの罪を贖い救うためでしょうか。この個所ではイエス様は人間の罪を贖って清め、救うために十字架にかかるのだ、それによって愛を示すのだという事は書いてありません。ここに書いてあるのはイエス様が十字架にかかるのは、長老、祭司長、律法学者から排斥されて、殺される出来事なのだということです。しかもそれをはっきりお話になったと書いてあります。イエス様の十字架は長老、祭司長、律法学者という権力者たちによって、起こされた殺人だったというのです。

34節でイエス様は「自分の十字架を背負いなさい」と言っています。しかしイエス様ご自身に十字架を背負わせたのは誰でしょうか。それは長老、祭司長、律法学者という権力者たちです。権力者たちは、平和を求め、貧しい人たちに希望を与え、勇気付け、権力を批判したイエス様が邪魔でしょうがありませんでした。権力者たちにとってイエス様は非常に都合の悪い人物でした。だから権力者はイエス様に十字架を背負わせよう、殺そうと決めたのです。戦争と同じです。自分の都合の悪い者は、理由をつけて殺してしまえという発想です。それが誰かに十字架を背負わせるということです。十字架を背負わせるとは権力者にとって都合の悪い事を消し去るという出来事でした。そのようにしてイエス様は十字架を背負わされたのです。

私たちはこのように、誰かに十字架を背負わせてはいけません。自分に都合の悪いからと言って、その人を犠牲にして自分たちを守ってはいけません。都合が悪いからといって十字架を背負わせ、殺してはいけません。戦争とはまさしく誰かに自分の十字架を背負わせることです。戦争は犠牲を押し付け合い、殺すことです。戦争は自分で十字架を背負うのではなく、誰かに十字架を押し付けることです。戦争とは他者に十字架を背負わせることです。

十字架を背負わせられる運命にあるイエス様はペテロに「自分の十字架を背負いなさい」と言います。イエス様がペテロに言う「自分の十字架を背負う」とはどんなことでしょうか。

それは誰かに犠牲を押し付けるのはなく、自分の十字架は自分で背負うということでしょう。あなたが誰かの犠牲になれということではありません。あなたは自分の十字架を自分で背負いなさい、誰かに背負わせてはならないということです。そして背負った十字架の痛みをよく知りなさいということです。他者の犠牲となってゆく者の痛みをよく感じなさいということです。ペテロがもし自分の十字架を背負わず、それを誰かに背負わせるのだとしたら、彼は他者の痛みに目を向けない、他者の痛みを無視する人間となるでしょう。それが十字架を背負わないということです。自分の命だけを救いたいと思い、他者の命をないがしろにする人は、自分の十字架を他者に押し付け、背負わせるのです。イエス様は自分の十字架を背負えと言います。

プーチン大統領は暴力と犠牲によって世界を支配することができるのかもしれません。しかし多くの人は彼の人間性を疑っています。彼には人間性が欠けているのではないかと考えています。自分の命を失うことになるとは、そのようなことです。世界を手に入れたとしても人間性が失われるのです。たとえ世界を手に入れても、他者から奪い、殺し、押し付けて手に入れるなら、あなたの人間性は失われます。自分の十字架を他者に押し付けて、十字架を負わす者、誰かの痛みと犠牲の上に、自分の都合のよい世界を造る者は、自分の魂を失うのです。「自分の十字架を背負う」とは自分にとって都合が悪いと思う現実も受け止め、対話してゆくということでしょう。それを誰かに押し付けないということです。そしていま押し付けられている人に目を向けてゆくということ、連帯をしてゆくことが大事です。

命が傷つけられようとしている人、他人の十字架を負わされて痛む人が誰なのかを知ること、それが自分の十字架を背負うということではないでしょうか。イエス様はこのような暴力の時代に、暴力しか解決方法がないと言われる時代に、私の平和のことばを恥じるなと言います。今の私たちも残念ながら同じ時代に生きています。暴力でしか解決ができないと思われる時代です。そのような時代、イエス・キリストの平和をあきらめず、恥じず、祈りたいと思います。

ロシアとウクライナで起きている戦争が一日も早く終わることを祈ります。戦火の中で多くのものを失ったこどもたちを覚えて祈りましょう。私たちはそれぞれ自分の十字架を背負いましょう。お祈りします。