「食堂でつながる教会」 マルコによる福音書3章31~35節

周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。マルコによる福音書3章34節

 

こひつじ食堂と福音について考えています。先日読んだある記事に、独身のおじいちゃんがこども食堂でたくさんの人と食べることが、楽しい、最高だと感じていると書いてありました。やはり一人で食べるのは寂しいのです。私たちのこひつじ食堂も、こどもだけが対象ではありません。どんな年齢の人でも歓迎する食堂です。一緒に食事をし、楽しい、一人じゃないと思える場所になりたいと思っています。

しかし振り返ると、ずっと昔から礼拝こそ「一人ではない」と思える場所です。教会は70年間、毎週礼拝を繰り返してきました。私たちは寂しいと思っている人を教会に誘ってきました。今、食堂もそのような場所になってきています。きっと教会は誰かの居場所になるのが得意なのです。礼拝の輪が広がってきたように、今食堂の輪が広がってきています。食堂が人と人とをつなぎ合わせています。それは神様がつなぎ合わせてくれていると言えるでしょう。それは今までも、礼拝で起きていたことです。今日は食堂や礼拝は、神様のもとで集い、家族のようになってゆくことなのだということを見てゆきたいと思います。一緒に聖書をお読みしましょう。

イエス様の活動は家族に、まったく理解されませんでした。家族と理解し合えないことに、イエス様も寂しさを感じたはずです。従った人々の干ばつや貧しさから、自分の土地を売り払い、家族と離れ離れになり、寂しい思いをしてきた人々です。そのような人々は、イエス様を中心に、家族のような、不思議な集まりとなりました。

34節はイエス様も集った人々を家族のように感じたということです。私たちも今、このイエス様の集まりの中にいます。毎週イエス様に招かれ、イエス様を中心に集まり、お互いを家族のように大切にしあっています。周りに座っている人々を見回すと、教会のおじいちゃん、おばあちゃんは、私のおじいいちゃん、おばあちゃんです。教会のこどもは、私のこども、私の孫なのです。2000年前の集いも、今日の集いも同じです。教会が得意なのは、家族のようになれること、いろいろな人の居場所になることなのです。

このような教会の「あなたは一人ではない」「一緒にいよう」という雰囲気はこひつじ食堂にもにじみ出ていると思います。教会は食堂をするのに最高の場所です。ここは毎週「あなたは一人ではない」「神が共にいる」「仲間が共にいる」と語られている場所です。高齢の方々にも、若者にもぜひ食堂に、礼拝に加わって欲しいのです。私たちはこひつじ食堂を続けることによって地域の人々とつながっています。そしてそれを御心として行う時、私たちは神様とつながっています。

私はこの食堂のような、たくさんの人とつながることができる礼拝がしたいと思います。そして私はこの礼拝のような、つながりを持つことができる食堂にしたいと願っています。神様とのつながり、仲間とのつながりを感じれるような、家族と思える関係になってゆける食堂・礼拝にしたいと願っています。お祈りいたします。