「地域の必要に応える教会」マルコ6章30節~44節

イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。マルコ6章41節

 

こひつじ食堂を通じて、この教会は私たちのためだけではなく、地域の人のためにあると知りました。教会が地域の困りごとに一緒に向き合う時、人々は励まされ、生きる力を受け取ってゆくのです。

人々の必要に応えない教会は、やがて役割を終えてゆくでしょう。なぜなら地域から必要とされない教会だからです。地域から必要とされる教会はきっと残ります。神様がまだ使命を下さっている教会は必ず残ります。私たちの教会には希望も不安もあります。その時私たちは、地域の必要に耳を傾け、応え続けてゆきましょう。誰も礼拝につながらなくても、それが私たちの生き方だからです。今日、神様は他者の必要に応えるように、私たちを導いているということを見ます。神様は私たちに「他者のために生きよ」と語っていることを見たいと思います。

今日は5000人の食事の場面です。マルコ福音書はイエス様が「深く憐れんだ」という事を強調しています。イエス様は人々が孤独で、お腹が空いていることを知ったのです。それはつまり、人々が今、何を必要としているのかを知り、自分の事の様に深く共感したということです。一方、弟子たちも人々の必要は知っていました。しかしこの人々の必要を満たすのは私たちの役割ではないと考えたのです。

イエス様は弟子たちに向けて「あなた方の手で人々の必要を満たせ」と言います。しかし弟子たちはやはり、自分の必要にしか目がいきません。弟子たちを攻めるのもかわいそうかもしれません。みんな自分のことで精一杯だからです。だって私たちには5つのパンと、2匹の魚しかないのですから。

でもイエス様の奇跡はそこに起きるのです。自分の必要にしか目がいかない弟子に、他者の必要には応えられないと思う弟子に、奇跡が起こるのです。41節で弟子たちはパンを配る係をします。つまりそれは他者の必要に応える者に変えられたということです。イエス様は弟子たちを、必要に応える者に変えたのです。他者の必要の応える働きこそ、神様の働きなのです。それができることが奇跡なのです。

私たちもこの弟子になりたいのです。他者の必要から目をそらすのではなく、必要に応える者となりたいのです。自分の分さえ足りないけれど、でも他者の必要に応えてゆきたいのです。私たちには奇跡が起きて、必ずそれができるはずです。

これから私たちは主の晩餐を持ちます。弟子がパンを配る奉仕に目を向けます。配餐の奉仕はただ配る係ではなく、他者の必要に応えるように変えられた弟子たちの象徴です。この主の晩餐は他者の必要を満たすことの大切さを覚えるために持つものです。神様はきっと他者の必要を満たすということを私たちの教会の使命、一人一人の使命としてくださるはずです。私たちは地域の必要に耳を澄まし、必要に応える教会でありたいと願います。それがこひつじ食堂ですでに始まっていることではないでしょうか?お祈りします。