【全文】「地域の必要に応える教会」マルコ6章30節~44節

イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。マルコ6章41節

 

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝ができることに感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちの声を聞き、感じながら礼拝をしましょう。2か月間、こひつじ食堂と福音というテーマで聖書を読んできました。新しく気づいた神様の姿があったと感じています。2月にまた地域との関わりについて取り上げてゆく予定ですが、今日がとりあえず最後です。

こひつじ食堂は、この教会は誰のためにあるのかということを教えてくれます。こひつじ食堂にたくさんの人が来るのを見て、この教会は私たちのためだけにあるのではないとうことを教わりました。この教会は地域の人のためにあるのです。私たちのためだけの場所ではないのです。私たちのためだけではなく、地域のためにこの教会は立っています。もしかすると教会はこれまで自分のことばかり考えていたかもしれないとも思います。

人をたくさん集め、教会を拡大しようとする教会があります。それは一体誰のためにしているのでしょうか。他者のためだ、神様のためだといって、本当は自分たちのためだったのではないでしょうか?自分の教会が成長し、大きくなることが第一の目的で、他者や地域をその手段・道具としてきたのではないでしょうか?教会を維持するためには伝道しかない。伝道しないと、この教会はなくなってしまう。献金が減っているから伝道する。会堂を建て替えるためには伝道しかない。神様のためだと言いながら、本当は自分たちのために一生懸命だったのではないでしょうか。こひつじ食堂は、自分たちにメリットはなくても、他者のために働くことの大切さ、他者と共に生きる大切さを、教えてくれました。神様はこひつじ食堂を通じて、自分たちの必要ではなく、地域の必要に応えてゆく大切さを教えて下さったのではないでしょうか。

今、私はこれまでとは違い、教会が必要とされている実感があります。教会が地域の必要に応えてゆく、地域が何を必要としているのかに目を向けることの大切さを思います。地域の必要に応えてゆくこと、きっとそれ自体が福音です。この働き、福音を続けてゆきたいのです。

教会が地域の必要に応えてゆくことは大切なことです。地域と困りごとを共有してゆくことが大事です。教会が地域の困りごとに一緒に向き合う時、人々は励まされ、生きる力を受け取ってゆきます。多くの人が他者のために生きることを知るようになるでしょう。

一方、人々の必要に応えない教会は、やがて役割を終えてゆくでしょう。なぜなら地域から必要とされない教会だからです。そこに建っていても、地域から孤立してゆくからです。必要とされない教会を何とか残そうと努力するのはむなしい努力です。必要とされないのに、ただ残そうとすることは空しいことです。しかしもし地域に必要とされるなら、地域が求める役割があるなら、様々な場所から残すための知恵と力が与えられるでしょう。地域から必要とされる教会はきっと残ります。神様がまだ使命・ミッションを下さっている教会は必ず残ります。しかし、神様から与えられた役割が終わった教会は必ず閉鎖します。

私たちの教会には希望も不安もあります。その時私たちは、地域の必要に耳を傾け、応え続けてゆきましょう。私たちにとって、何の得にもならなくても、疲れるばかりでも、そこからだれも礼拝につながらなくても、私たちは地域の必要に応えてゆきましょう。それが私たちの生き方です。もし神様がこれを私たちの地上での役割・使命・ミッションとしてくださるなら、私たちの教会はきっと残るはずです。

今日、このテーマで最後に見たいことは、神様は他者の必要に応えるように、私たちを導いているということです。神様は私たちに「他者のために生きよ」と語っている、そのことを見たいと思います。

 

 

今日の聖書は5000人の食事の場面です。他の福音書にも似た箇所がありますが、今日はマルコ福音書からこの物語を読みます。他の福音書でも似た記録がありますが、マルコ福音書が強調していることがあります。それは34節、イエス様が「深く憐れんだ」という事です。

聖書ではここの言葉(ギリシャ語では)は、イエス様はスプラグニゾマイしたと書いてあります。スプラグニゾマイは内臓を指す言葉です。内臓から来る強い気持ちを表します。日本語には「はらわたがちぎれる」という言葉があります。その言葉が最も近いでしょう。イエス様まさにここで、はらわたがちぎれる思いを持ったのです。イエス様には人々が飼い主のいない羊に見えました。イエス様は人々が孤独で、寂しい思いをしていることを深く知ったのです。そして人々のお腹が空いていることを、よく知ったのです。それはつまり、人々が今、何を必要としているのかを知り、自分の事の様に深く共感したということです。

一方、弟子たちも人々の必要は知っていました。お腹が空いていることは、よくよく知っていたのです。だから解散しようと言いました。それぞれの必要はそれぞれで解決するようにと考えたのです。この人々の必要を満たすのは私たちの役割ではないと考えたのです。弟子たちは深く憐れまず、スプラグニゾマイせず、共感せず、同じ痛みを感じようとしませんでした。

イエス様は37節で「あなたがたの手で食べ物をあげなさい。」と言います。イエス様は弟子たちに向けて「あなた方の手で人々の必要を満たせ」と言ったのです。弟子たちに、人々の必要を知り、それに深く共感し、同じ痛みを感じ、人々の必要に応えるように伝えたのです。

しかし弟子たちはやはり、自分の必要にしか目がいきません。私たちには200デナリもない、もっていてもそれに他人に全部使うわけにはいかない。私には自分の分しかない。他者の必要を満たすことに関心と意欲がなかったのです。弟子たちを攻めるのもかわいそうかもしれません。みんな自分のことで精一杯だからです。他人よりまず自分です。自分がまずしっかりしなくてはいけません。自分を守ることに精一杯で、他人の事まで手も心も回らないのです。そのことは私たちがよくわかっていることです。だって私たちには5つのパンと、2匹の魚しかないのだから。これっぽっちじゃ何もできないのです。

でもイエス様の奇跡はそこに起きるのです。自分の必要にしか目がいかない弟子に、他者の必要には応えられないと思う弟子に、イエス様の奇跡が起こるのです。そこで不思議とパンと魚は増えて、全員が満たされていったのです。

パンが増えてゆく時の弟子たちに目を向けます。41節でイエス様は「弟子たちに渡しては配らせ」ました。弟子たちは配る係をしたのです。ここで弟子たちには大きな変化が起きています。

自分の必要にしか目がいかない弟子、他者の必要には応えられないと思う弟子たちは、他者の必要に応える者に変えられたのです。自分に何もできることはないという姿から、パンを配る者に変えられたのです。それはイエス様によって起こった変化です。イエス様は弟子たちを、必要に応える者に変えたのです。

この物語は、人々は食べて満腹した、5000人もいたと終わります。物語は人々の必要が満たされて終わります。必要を満たされた人がどう行動したのかは書いていません。これによってバプテスマ者が増えたとか、群れが拡大したとか、献金が増えたとは書いていないのです。最後まで弟子たちにメリットはありませんでした。でもそれが大事なことです。これはただ弟子たちが、他者の必要に応える者に変えられたということを伝えています。他者の必要の応える働きこそ、神様の働きなのだと伝えています。それができることが奇跡なのだと語っているのです。他者の必要に応えればメリットがあるという話ではありません。他者の必要に応えること、それ自体が与えられた役割だったのです。

私たちもこの弟子になりたいのです。他者の必要から目をそらすのではなく、他者の必要に応える者となりたいのです。自分の分さえ足りない私たちだけれど、でも他者の必要に応えてゆきたいのです。私たちには必ず奇跡が起きて、それができるはずです。

これから私たちは主の晩餐を持ちます。今日の41節は主の晩餐にも重なる箇所です。天を仰いで、賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、渡すのは主の晩餐と同じ言葉遣いです。私たちもこの食事にあずかる者です。そして配餐、弟子がパンを配る奉仕に目を向けます。私たちの教会では主の晩餐の時、誰か直接、一人一人に配ったり、皆さんが一人ずつ前に出てきてパンをもらう形式をとりません。信徒の方2名がお皿を受け取って、みなさんに配るという形式を持ちます。これは受け取ったものを配るという奉仕が大切であることを表しています。弟子が皆に配ることが大事なのです。配餐の奉仕はただ配る係ではなく、他者の必要に応えるように変えられた弟子たちの象徴なのです。

私たちはこれから、パンと杯をいただきます。これは他者の必要を満たすことの大切さを覚えるために持つものです。私たちには自分の分しかないけれど、でも他者の必要に応えることができる、奇跡が起きる、そのことに信頼し、このパンと杯をいただきましょう。神様はきっと他者の必要を満たすということを私たちの教会の使命、一人一人の使命としてくださるはずです。私たちは地域の必要に耳を澄まし、必要に応える教会でありたいと願います。他者の必要を聞き、それに応える一人一人でありたいと思います。その時、神様の奇跡が私たちに起こるはずです。きっとできないと思っていたことが、私たちに起こる、できるはずです。それがこひつじ食堂ですでに始まっていることではないでしょうか?そこに希望を持ちましょう。お祈りをいたします。