【全文】「イエス様は本当に優しい王様」ヨハネによる福音書 18章37節、19章19節~22節及び、マタイによる福音書26章74節~75節

私は、東京バプテスト神学校から参りました小平公憲と申します。所属教会は横浜ニューライフバプテスト教会です。今日このように宣教の機会を与えてくださった、平塚バプテスト教会の皆様と平野先生に深く感謝いたします。また、普段から東京バプテスト神学校のためお祈りとご支援をたまわりありがとうございます。

神学生ということで、若い青年が来るのかと思われた方もいらしたかもしれませんが。残念ながら、私はもう還暦を迎えたおじいちゃんかもしれません。私には何もできませんが、残りの人生を神様のために捧げられたらという思いで、献身を決意し4年目を迎えました。

ここで、東京バプテスト神学校について紹介させていただきます。東京バプテスト神学校は、誰でも学べる学校です。大学のような試験はありません。面接があるだけです。もちろん通学することもできますが、インターネットによるライブ授業、録画によるデジタル教材など、時間と空間を超えて、コロナ禍においても安心して授業を受けることができます。私の受講している授業でも、北海道から九州まで同時にライブ授業を行っています。働きながらでも、子育てや介護を行いながらでも学ぶことができます。神学校で学びたい方、お知り合いの方などに、ぜひ、ご紹介していただければと思います。

宣教のメッセージに入る前に、私のことを知っていただくため、簡単に証しをさせてください。私は小学校4年生の時にある大学生の青年に家庭教師に来てもらい、勉強を教わることになりました。その方は20歳の青年で、クリスチャンではありませんでした。求道中の彼は、やがてクリスチャンとなり、聖霊の働きとしか言いようのない不思議なことがたくさん起こりました。私は、彼からイエス・キリストを教わり、受け入れたのです。彼は自分の志を180度変え、西南学院大学神学部へ進み、牧師を目指すことになったのです。その後私は高校大学へと進学し、教会から離れてしまい、暗澹たる生活を送っていたのです。

私は真剣に「神様私を救ってください。神様私をどのように救ってくださるのですか。」と、祈り続けました。

私は大学卒業後、中学校の先生になったのですが、躓いてしまい、にっちもさっちもいかなくなり、あるバプテスト教会に救いを求め、飛び込みました。その教会では、80過ぎの牧師先生が杖を突きながら講壇に上がっていました。やっと通い始めた教会でしたが、牧師は高齢のため1か月ほどで引退し、無牧師になってしまいました。しかし、その6か月後に赴任した新牧師は、私の家庭教師であったあの大学生の青年だったのです。

私はイエス・キリストを教えていただいた、自分の家庭教師からバプテスマを授かることになったのです。このようなことが起こる確率は、宝くじの一等に当たる確率より低いことを知っています。宝くじに当たった方がよかったですか?私は宝くじに当たるより救われたほうが、はるかに幸せで、良かったと思っています。

次に「イエス様は本当に優しい王様」という題でメッセージを致します。話は飛びますが、最近読んだ本でユヴァノ・ノア・ハラリの21Lessonsという本があります。4~5年前になるかもしれませんが、彼は。サピエンス全史という本を著し、大変話題になりました。その本は全世界で600万部以上売れたそうです。私は結構ハラリの本にハマっています。ハラリはユダヤ人の歴史学者であり、哲学者なので、聖書やユダヤ教のことにもとても詳しいです。

ハラリは、人類の歴史を動かしてきたものは3つあるといっています。『帝国主義』、『貨幣』つまりお金です。そして、『宗教』です。この3つは、何千年もの間、人類を支えてきた仕組みであると言っています。いま、ウクライナ戦争が起こっていますが、これも極めて帝国主義的な様相を示しています。

イエス様の時代も、イスラエルはローマ帝国という帝国に支配・占領されていました。当時のユダヤ人は、この帝国主義から解放してくださる真の救世主を待望していました。この救世主は、ダビデ王やソロモン王のように強いリーダーシップで、ユダヤ人をローマ帝国から解放してくれると期待していました。しかし、目の前に現れた救世主のイエス様はそのような力強さを持った方ではありませんでした。ユダヤ人は自分たちの待ち望む救世主のイメージからかけ離れていることを理由に、「十字架につけろ」「十字架につけろ」と言って、イエス様を十字架につけてしまったのではないでしょうか。

総督ピラトは大した人ではなかったと言われていますが、でも、彼はイエス様の本質を見抜いていました。「わたしはあの男に何の罪も見いだせない。」、ユダヤ人の祭司長たちがピラトに、「『ユダヤ人の王』と書かず、『この男は「ユダヤ人の王」と自称した』と書いてください」と言った。 しかし、ピラトは、「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ」と答えた。つまり、ピラトは、イエス様を本気でユダヤ人の王と考えていたのです。そのことは、300年後に証明されます。有名なことですが、ローマ帝国はキリスト教を受け入れ、キリスト教国になるのです。当時の言葉でパックス・ローマ―ナという言葉がありますが、それはローマ帝国の繁栄を表す言葉です。つまり、当時の世界を覇権していたローマ帝国。当時の世界一の国です。

その国が、従属国の大工の子であるイエス様を受け入れたのです。そんなことが世界史の中で他に例があるでしょうか?歴史学者のハラリも「不思議なこと」という言葉を使って、このことを表現しています。この説明は「本気でイエス様に聞き従った人々」と「神の計画」によってなったとしか言いようがないのです。当時のユダヤ人たちは、イエス様を救世主である王とは認めませんでした。でも、ピラトが言った通り、イエス様の説いた教えは、ある意味ローマを征服したのです。これはすごいことです。一つの宗教が覇権帝国主義を凌駕したのです。彼こそ真の王ではないでしょうか。その方法は、武力や力ではありませんでした。彼の武器は、愛と恵みでした。

最近、キリスト教会が、元気がないという話をよく耳にします。日本だけではなく、諸外国でも、教会の衰退が話題になります。ウクライナ戦争を見ても、ウクライナとロシアというキリスト教国同士が戦争をしています。私は、キリスト教や教会が衰退する原因は、ずばり「人がイエス様に聞き従わない。」からだと思います。別な言い方をすると聞き従うようなふりをして「イエス様に背いている。」からだと思います。私も4年前に、仕事を早期退職して、東京バプテスト神学校へ入学し、実家で両親の在宅介護を始めました。最初は信仰に燃え、仕えるものとして、イエス様に聞き従って、「私はできる。」と自信満々でした。しかし、両親の衰えが進むと、介護が大変になり、身体が悲鳴を上げ、自分を優先するようになりました。両親に不平を言ったり、怒鳴ったりしました。とどのつまりが、両親の介護度も上がり、自分では面倒を見切れない状態になってしまい、施設に預ける決断をしました。あのペテロのように、私には自信があったのです。しかし私は、イエス様に聞き従うことができない自分を、認めざるを得ませんでした。私は、あのペトロのように激しく泣きました。「私はあなた様の靴の紐を説く値打ちもないものです。」、と。

しかしイエス様は、そんなダメ人間が大好きです。「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」、「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。」本当に彼は優しい方です。このヨハネの福音書の続きにも、あの挫折したペトロに、復活したイエス様は、もう一度「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。私たちは、イエス様に近づこうとしても、なかなか近づけないダメ人間です。また、世の中でもたくさん失敗や挫折を味わいます。でも、イエス様はそんな私たちに再び声をかけてくださり。私を愛しているか?と優しく聞いてくださり、私の羊を飼いなさいと言ってくださるのです。イエス様には、どうしてこのようなことができるのでしょうか。それは、イエス様が私たちの代わりに死んでくださったからです。確かにその方の十字架の上には、「ユダヤ人の王」と書いてあったのです。つまり、私たちは、この王様によって「赦された罪人」なのです。真の王であるイエス様が、今日も私たちを優しく取り扱ってくださるのです。帝国主義を凌駕するイエス様の方法は、この愛と恵みです。私たちも、この愛と恵みという方法で、再びイエス様の羊を探し出そうではありませんか。お祈りいたします。

 

天の神様、あなたの聖名を讃美いたします。

あなたがイエス様を遣わしてくださったことを感謝します。

私たちは、自己中心的な存在です。でも、イエス様の人格に触れる時、私たちは生まれ変わることができます。どうか、私たちの中心に居座る自分自身をイエス様に明け渡すことができますように、あなたが導いてください。

私たちがイエス様という王様に「赦された罪人」として、イエス様に聞き従うことができますように。

復活したイエス様は今も生きて共にいてくださることを感謝いたします。

あなたの守りがとこしえにありますように。

この祈りをイエスの聖名によりお祈りいたします。

アーメン