「収穫感謝礼拝」ルカ12章13~21節

どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。 ルカ12章15節

 

今日は収穫感謝礼拝です。1621年イギリスのピューリタン(清教徒)が、メイフラワー号に乗ってアメリカに渡りました。彼らは新天地での厳しい冬を、先住民からの援助と、教えてもらった知恵で生き抜きました。そして翌年の秋、その収穫を神様に感謝しつつ、先住民と一緒に喜び、分かち合ったことが収穫感謝の起源です。

しかしその後、入植者たちはより広い土地を必要とします。彼らは先住民の土地を奪い、殺し、奴隷としました。私たちは400年前のクリスチャンが、助けてくれた先住民から土地を奪い、命を奪った歴史も忘れないでいたいのです。

私たちはすべての恵みは神様から来たと感謝します。そしてそれを分かち合います。そしてどんなことがあっても命は人間が好き勝手にしてはいけません。神様に感謝すること、互いの命を感謝し大切にすること、分かち合うこと、それを収穫感謝礼拝の時に覚えたいのです。今日の聖書の個所もそのことを言っていると思います。

今日の聖書の箇所でイエス様は、もともと金持ちだった人の畑が、さらに豊作だったというたとえ話をしています。ひとくちに豊作といっても、いろいろな人が協力して、初めて豊作となります。サプライチェーンです。しかしこの金持ちは協力者のことを一切考えていません。17節からは『私の』作物、『私の』蔵、『私の』穀物、『私の』財産、『私の』魂とあります。自分、自分、自分の発想です。この金持ちは豊作の恵みをすべての『私の』ものだとして独占しました。

そこでイエス様は、今日あなたは死ぬ、そうしたらそれは誰のものになるのかと問います。イエス様は、それは元々誰のものだったのかと問うているのです。イエス様は一緒に手伝ってくれた人、支えてくれた人、励ましてくれた人に感謝してる?分かち合ってる?あなたの蔵にしまったもの、本当はそれ、みんなのものなんじゃないの?あなたが死んだらどうなるの?きっとみんなそれを分け合うんじゃない?そう問いかけています。自分のために富を積んでもしょうがないよ。神様の前に一緒に豊かになろうと言っています。それが21節、神様の前に豊かということ、それが収穫に感謝するということだよと言っているのです。

22節以降は思い悩むなと続きます。この個所も自分の事ばかりに思い悩んでいないか?自分、自分、自分になっていないかが問われているのです。神への感謝、仲間への感謝があるかどうかが問われているのです。

今日は収穫感謝礼拝です。私たちはこの手にあるものが、すべて神様からいただいた恵みであることに感謝しましょう。そしてこの手にあるものは多くの人の支えによってあることに感謝しましょう。だからこそ、それを神様に献げ、仲間と世界とそれを分かち合ってゆきましょう。神様の前で世界が共に豊かになってゆきましょう。それが神様に収穫を感謝するということではないでしょうか。それが収穫感謝礼拝ではないでしょうか。お祈りいたします。