「神の光が私の中で輝く」ルカ11章33~44節

だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい。ルカ11章35節

 

今日、ひとつの命が神様に従うという決心に導かれ、バプテスマを受けました。神様はつらい時も離れていなかったという信仰告白もいただきました。まいても芽が出ないと感じていても、長い時間を経て芽が出るのです。私たちはそこに大きな励ましをもらいました。これからもたくさんの種をまいてゆきましょう。

私たちが大切にしたいことは、あれは清い、これは汚れていると別ける事ではなく、愛を持って行動することです。清さや汚れを超えて、他者に愛を示してゆくことを大切にしたいのです。人が神の愛に触れる時、絶望は希望や感謝に代わってゆきます。イエス様もそのように人と関わられたお方だったのではないでしょうか。今日は聖書からそのことを見てゆきたいと思います。

イエス様は清い、汚れているという分け隔ての無いお方です。祭司とも罪人とも食事をします。しかし汚れを取り払う習慣は拒否します。なぜなら一般庶民が祭司から、できないこと、わからないこと、細かなことで、汚れていると言われていたからです。イエス様はあえて、清いと自負する人々の食事会で清めを拒んだのです。

イエス様はこの祭司たちを、知らない間に踏んづけた墓みたいな人ですねと譬えています。本人が気づかない、あるいはどうすることもできないことで、人を汚れていると言って、ひどいですねと言ったのです。イエス様は何が清いとか、何が汚れている、そのようなことを問題にしないお方です。むしろその中に向かってゆき、汚れてなどいない、あなたは清い、そう宣言される方でした。そしてご自分の力を分かち合ったお方でした。

33節にはイエス様はともし火をみんなから見えるように置きなさいと言っています。これはあなたの内側にもっている光を大切にするようにということです。あなたの中にはすでに光があるのです。それは神様が命を創造した時にすべての人に与えて下さった光です。今はただ少し隠れているだけです。あなたは汚れてなんかいません。すべての人がすでに清い、美しい光を持っているのです。そしてその光を他者が見えるように、輝かせなさいと言います。私たちは器の中身、私たちの中にある光、私たちが自分という器の中に持っている光を分かち合うことが大事です。

汚れている、ダメな人間だ、そう周りから、そう言われることがあるかもしれません。でもそんなことありません。あなたの中には光があります。あなたの光を他者を照らすために使ってください。明るい暗い、清い汚れているといった差別を生み出すための光ではありません。清さと汚れを超えて、私たちには光があります。そのように共に輝く。それが今日私たちに与えられたメッセージではないでしょうか。

私たちの世界には差別と暴力があります。自分はダメな人間だと思っている人がいます。私たちがいただいている神様の光でそれを照らしてゆきましょう。私たちの内側にある光を、共に輝かせてゆきましょう。お祈りします。