「わたしたちの神」マタイによる福音書6章9~13節

 

天にまします我らの父よ(マタイによる福音書6章9節)

 

7月と8月は主の祈りをテーマに宣教します。主の祈りはイエス様が私たちに直接教えて下さった祈りとして、教会の中で特に大切に祈られています。この祈りは、ただ覚えればよい、唱えればよいのではありません。呪文としないで「主の祈り」を「私の祈り」とすることができているでしょうか。

今日は主の祈りの「天にまします我らの父よ」について考えます。まず「まします」は「ある」や「居る」の尊敬語です。ですからこれは「天にいらっしゃるわたしたちの父よ」という意味です。父はイエス様の話したアラム語では「アッバ」という言葉です。アッバはこどもが父親のことを『おとうちゃん』と呼ぶ表現だと紹介されます。しかし後の調査で「アッバ」はそのような使われ方をしないことが判明しました。紹介した学者も今は発言を撤回しています。しかし一度浸透した情報・信仰の訂正・更新は難しいものです。

わかっていることは、当時、神様に向けて「父よ」という呼びかけをしたこと自体は特殊なことであったということです。先日こどもに「パパ、神様って男なの?」と聞かれました。多くの人はいつのまにか、神は男性であるというイメージもっているでしょう。神様は男性でも女性でもありません。主の祈りは「我らの母よ」「我らの親よ」「我らの神よ」でもいいはずです。また神様が男であると強調することは、支配者は男であるべきという発想につながる課題があります。神様は男でも女でもありません。神様は神様です。私たちは私たちの持っている、男女二分法に注意しながら「父よ」と祈る必要があります。

なぜイエス様は「父よ」と祈ったのでしょうか。そのように祈った理由のひとつに、ローマ皇帝に対する抵抗が含まれていたという説があります。ローマ皇帝は自分のことを「神の子」「地上の国民の『父』」「救世主」と言いました。そして自分を神と等しいものとして拝むように、人々に強制をしました。イエス様はそのような中で神様に向けて「父よ」と祈るように教えました。

神様にむけて「父よ」と呼びかけることは、私たち一人一人は皇帝の奴隷ではないこと、一人一人に人権があり、自由があり、尊ばれるべき命があることを意味しています。「我らの父よ」と呼びかけるのは、私の命は誰にも侵害されない命だ、私たち一人一人の命が大事にされるべき存在だということを表明する祈りなのです。私たちはお互いが、そしてすべての命が神の子であり、尊い存在であるというイメージを持って、「天にまします我らの父よ」を祈りましょう。

私たち人間は全員が神の子です。だからもう誰にも性別や年齢や職業やルーツによって抑えつけられる必要はありません。そのことを祈りましょう。そして私たちは地上の支配者にも注意を向けます。私たちを本当に導くのは平和の神です。戦争へと導くリーダーは「我らの父」「我らの神」ではありません。私たちは私たちの神に向けて祈りましょう。最後に主の祈りをともに祈りましょう。