イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。
マタイによる福音書11章4節
みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝に集められたこと、主に感謝します。私たちはこどもの声がする教会、こどもと一緒に礼拝する教会です。今日もこどもたちと共に礼拝をしましょう。もうすぐクリスマスです。クリスマスは、キリスト教や教会が最も注目を集める季節です。クリスマスという機会を通じてたくさんの人にキリスト教・クリスチャンに触れ、神様のことを知って欲しいと思っています。
先日ある方と「多くの人の持っているクリスチャンのイメージ」という話をしました。日本にクリスチャンは1%未満と言われますから、多くの人にとってクリスチャンと出会う機会は少ないものです。クリスチャンへのイメージもテレビで見るものに影響されるのでしょう。マザーテレサ、清廉、熱心、人格者というイメージがあるかもしれません。といったイメージがあるでしょうか。クリスチャンに対してそのようなイメージと期待を頂けることは嬉しい事ですが、同時にそのようなイメージにそぐわない自分に葛藤をします。深い話ができる時間と関係があればこの葛藤を説明できるでしょう。「隣人愛を大切にしたいと思っているのだけれど、本当はあなたと同じ迷いの多い、罪深い人間だ」と伝えることができます。でもそのような関係になるまでには長い時間がかかります。
キリスト教のことはインターネットで検索してもわかりづらいものです。キリスト教を知るには日常生活の中でクリスチャンと出会うことがもっとも重要です。日常でクリスチャンと出会えば、本当のクリスチャンのことが分かるでしょう。自分と変わらない生活をし、変わらないことで悩み、変わらないことで失敗をしていることが分かるはずです。そしてちょっと違う部分にも気づくでしょうか。私たちは、愛し合おうとする姿勢において、少しだけ異なります。他者を愛そうという姿を見て、これがクリスチャンなのかと思ってもらえるでしょうか?
キリスト教やクリスマス、クリスチャンのことを知らない人にとって、本物のクリスチャンである皆さんとの出会いはとても貴重な体験です。隠れて生きるのではなく、私たちはイメージを演じるのではなく、その方たちに、私たちがほとんど変わらない、でも少しだけ違うということを知って欲しいです。
私たちは他の人と少しだけだけど、大きく違うことがあります。それは愛し合おうとするということです。お互いを大切にしあおうとするということです。その違いを言葉で説明することは難しく、多くの時間がかかるでしょう。私たちはまず自分の背中で、自分の日頃の行動を通じて、愛し合うことを伝えてゆく必要があります。私たちが他者を愛するという姿勢が、私たちの背中から伝わり、キリスト教が、福音が伝わっていったら嬉しいと思っています。クリスマスの機会、特にクリスチャンに注目が集まっています。私たちは今週も、愛し合う姿を証しする、そのような1週間を過ごしましょう。今日はイエス様に従った人々から、どのように人々に福音が広がってゆくのかを見てゆきます。そして私たちはどのように生きてゆくべきなのかを考えたいと思います。聖書を読みましょう。
マタイによる福音書11章2~19節までをお読みいただきました。イエス様と同じ時代、バプテスマのヨハネという人がいました。バプテスマのヨハネは逮捕され監獄に入れられていました。そして彼は信仰において確かめたいことがありました。それは「イエスは救い主なのかどうか」ということです。それを聞くためにイエス様に直接、弟子を派遣しました。
イエス様の周りには様々な人がいたと記録されています。聖書の文字通りに、病気が治った人がいるのかどうかはわかりません。本当に病気が治ったかどうかわわかりません。でも確かなのは、イエス様がそのような傷つき、痛み、悩みを持つ人と一緒にいたということです。イエス様に従った人々とは、宗教的な勉強をたくさんして、信仰熱心で、人格者たちばかりだったわけではありませんでした。イエス様に従った人々は、傷つき、弱さを抱えた人々でした。イエス様はその人々と共に過ごすことで、励ましと希望を与えていたのです。
そこにヨハネの弟子たちが来て聞きます。「来るべき方は、あなたですか?」弟子たちイエス様が人々が待ち望んだ救い主、キリスト、すべての人を救う神であるかを確認しようとしたのです。それに対してイエス様はこう返事をしています「見聞きしていることを伝えなさい」。この回答はおもしろい回答です。〇か×かはっきりさせず、見たままが答えだと回答しました。投げやりな回答にも見えますが、そうではありません。自分が救い主であるかどうか、口では何とでも言えるものだったからです。実際にイエス様の時代には、私はキリストだと自称する人がたくさんいました。イエス様は言葉であれこれ説明をしようとしませんでした。「あなたの見たままが答えですよ」と言ったのです。それは自分でその人と出会って確かめるようにという意味です。直接答えるのではなく、イエス様と出会った人を見て、判断するようにと言ったのです。
果たしてイエス様は弟子たちの何を見せようとしたのでしょうか。そしてヨハネの弟子たちは何を見て帰ったのでしょうか?病気が治ったこと、耳の聞こえない人が聞こえるようになったことでしょうか。イエス様はそのような奇跡を見て信じなさいと言ったのでしょうか?私はそうではないと思います。きっとイエス様は癒された人々のその後の姿、生き方、背中を見るようにと言ったのだと思います。イエス様のそばにいた人々は病気や障がい、経済力によって社会から追いやられ、見放され、イエス様のもとに来た人でした。その人々はイエス様に愛され、受け入れられてゆきました。やがて癒された人々は今度はイエス様の様に他者を愛し、受け入れ合おうとしたはずです。イエス様の群れは仲間を愛し合う共同体となってゆきました。イエス様はヨハネの弟子たちに、それを「見よ」言ったのではないでしょうか。神様に愛された人が、今度はお互いを愛し合う姿を見よと言ったのではないでしょうか。そこにはお互いの病をいたわり合い、分かち合い、助け合う姿がありました。イエス様はヨハネの弟子たちに対して、自分が救い主かどうかは、このように人々が互いに愛し合っている様子を見ればわかると言ったのです。これは面白い答えです。人々が愛し合っている姿を見れば、私が神の子・キリストであることがわかるという答えです。
今の私たちに重ねたらどうなるでしょうか?私たちは神様に癒され、支えらえる者として、この人々と同じ様にイエス様のそばに生きています。そしてイエス様のもとに誰かが来て、あなたは本物かと問うとします。そうするとイエス様はまた言うでしょう。「この人たちを見ればわかる」。神が本物であるかは、クリスチャンを見ればわかるということです。教会を見ればわかるということ、私たちを見ればわかるということです。私たちと出会えばわかるということです。私たちはそのような立派な信仰者ではないかもしれませんが、でもイエス様は私たちと出会えばきっと神のことがわかると言っているのです。キリストが本物かは、出会った人の生き様で示されます。私たちはキリストに変えられた者、キリストに従う者です。その私たちは神様から、人々と出会う者とされています。私たちはイエス様に癒され、励まされて終わりではないのです。イエス・キリストの証人として、人々と出会う役割が与えられています。人々と出会い、愛し合う姿を見せる、共に生きる姿を見せる、それがイエス様を本物だと証しすることになるのです。行動で示し、背中で語る、それが福音を伝える方法です。
私にはそんなことできないと思うでしょう。もちろんそれは、身の丈にあった範囲で良いはずです。私たちは相手のイメージを演じる必要はありません。多くの人と同じ悩みを背負って生きています。その中で自分がイエス様に出会ってどう生きているのか、どのように他者を愛し生きているのか、その実践が福音を伝えてゆくこと、そのものなのです。
17節からは「笛を吹いたのに踊ってくれない」「葬式なのに悲しんでくれない」とあります。おそらくこれは、自分のイメージに合った行動をして欲しいというたとえです。自分が楽しい曲を吹いたら踊って欲しい、葬式の歌を歌ったら、悲しんで欲しいという期待です。人々は相手に対してそのように勝手に様々な期待、イメージを持っています。キリストに対してもそうでした。きっとお酒は飲まないだろう、ご飯はたくさん食べないだろう。徴税人や罪人とは関係しないだろう。そのような期待とイメージがありました。でもイエス様はそのイメージに応えたのではなく、打ち破っていきました。人々の勝手なイメージに囚われず、愛を実践したのです。期待に応えるのが私たちの役割ではありません。私たちの役割は私が神に愛され、大切にされているように、他者を愛し大切にする、その姿を背中で見せてゆくことです。それによってキリストが本物であると伝えられるのです。
私たちはどう生きるかを考えます。私たちは神様を信じない人と同じ様に苦しみを生きています。でも私たちは、互いを愛し合うこと、大切にしあうことにおいて他の人と少しだけ違う生き方をします。神様はそのように私たちが葛藤する姿、愛し合う姿を通じて、福音を広げるお方です。そして私たちは出会いの中に生かされています。信仰を飾らない生き方が、信仰者として愛し合うあなたの姿が、イエス様を本当の神だと証しするのです。
クリスマスは多くの人がキリスト教への関心、クリスチャンへの関心を向ける時期です。私たちはただ愛し合うという姿によって、キリストが救い主であることをそれぞれの場所で証ししてゆきましょう。お祈りします。