【全文】「愛の種を惜しみなく」マタイ13章1~8節

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること、主に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。今日もこどもたちの声と足音から命を感じながら一緒に礼拝をしましょう。

今月は私たちが地域に向けて行っている活動と聖書について考えたいと思っています。私たちの教会では毎月2回こひつじ食堂というこども食堂を開催しています。こひつじ食堂はこどもだけではなく、誰かと一緒に食事をしたいと思っている人のためにも開催されています。200円で、おいしい食事を、温かい関係の中で食べることが出来ます。たくさんの方に愛されて、毎回200食を超える利用があります。私たちはこの活動を、イエス・キリストの愛の教えの実践と位置付けています。この活動を通じていつか私たちの背景にある「愛」が伝わることを願っています。しかし私たちはこの活動によって信者を獲得しようと思っているわけではありません。

私たちのこひつじ食堂は種まきに似ていると言えるでしょう。教会の中で、温かい関係に囲まれる食事の経験と思い出は、人々の心にしっかりと残るはずです。それはきっと記憶に焼き付いてゆくでしょう。まさしく種がまかれたような経験でしょう。その人たちが私たちの背景にある信仰について、すぐに理解し神に従うわけではありません。すぐに花が咲いて実ができるわけではないのです。全員がそうなるわけでもないのです。でも私たちは種を蒔き続けます。こども食堂は、教会はこんなに楽しくて、助け合いとやさしさが詰まっていて、こどもを連れてきてよくて、緊張しなくていい、自分らしくあっていい場所だと伝えています。きっと神様の愛はたくさんの種として惜しみなくまかれています。

様々な活動をしていると、キリスト教の関係者からは「そのうち何人が礼拝にきましたか?」と聞かれる時があります。私は自信を持って「ほとんどいませんよ」と答えています。そして「でも続けてゆけば、きっといつか何かが起ると思う」と答えています。教会で毎回楽しく食事をしているこどもたちが、やがてつらい思いをしたとき教会を思い出してくれるでしょうか?やがて自分がこどもを育てるようになったとき、こども食堂の愛はより深く分かるはずです。ずいぶん先のことかもしれませんが、私たちはそれに期待をしています。

わかりませんが、やがて神様の愛を、もっとしっかりと知りたいと思う日が来るでしょうか。そのことに期待して活動をする、それが種を蒔くということです。あるいは直接この教会に戻ってこなくてもいいとさえ言えるでしょう。その人がこひつじ食堂で知った他者へのやさしさを持って、人生を生きてくれたら、それで十分な実りと言えるでしょう。中には一期一会で今回限りの出会いということもあります。でも私たちは期待して、希望を持って種を蒔き続けてゆきたいのです。いつか神様がその種を芽吹かせてくださるでしょう。私たちはそのことに期待し、未来に希望をもって活動を続けてゆきましょう。

そのように考えていると、かくいう私自身の仕事、牧師の働きも種まきかもしれません。毎週宣教をして、みなさんの何かがすぐに変わるというわけではなさそうです。誰でも今日聞いて明日から変われるわけではありません。でも私は種を蒔きます。宣教の内容はすぐに忘れてられてしまいます。でも何度でも種を蒔きます。なかなか芽吹かないかもしれませんが、希望をもって種を蒔きます。

今日はそのことを、みなさんと聖書から見たいと思います。あきらめず、希望をもって、惜しみなく愛の種をまくことを一緒に考えたいと思います。聖書を読みましょう。

 

 

今日はマタイによる福音書13章1~9節をお読みいただきました。実は18節以降にこのたとえ話の解釈が記されています。教会では伝統的に18節以降に基づいて、あなたの心は神に対してどんな状態かを問いかけてきました。

あなたの心は聖書の言葉を聞いても受け入れず、忘れ、雑念に囲まれている。あなたはなんと愚かな罪人だろうか。まるであなたの心は硬いアスファルトに覆われているようで、神の言葉を受け入れない。あなたは良い心に変わり、神を受け入れなさい、そう教え諭してきました。私たちの教会も似たように教えて来たかもしれません。もっと恐ろしいと思う解釈は、同じ様に神の言葉を聞いても、それを受け入れるのは4分の1であり、神を受け入れない4分の3には厳しい罰があるというものです。ここまでくるとかなり危うい解釈です。

実は18節以降の解釈は、イエス様からしばらく後の時代の人が加えた解釈ではないかという見方が増えてきています。18節以降の解釈は一旦置いて、1~8節だけに注目をした解釈が試みられるようになってきました。それは、イエス様がガリラヤの農村地帯で育った背景から考える解釈です。イエス様はきっと4種類の人間の運命について話したのではありません。おそらく、もっと素朴な農村での経験に基づいて、種がどこに落ちるかよりも、惜しみなくまかれることに重点を置いたでしょう。

2000年前の種まきについて考えてみましょう。当時の種まきはいまよりずっといい加減に行われていました。今は土に肥料を与え、良く耕し、種を植え、土を被せ、水をまき、目が出るのを待ちます。しかし当時の種まきもっと簡単です。種を握って、畑に直接ばらまき、芽が出るのを待ちます。まるで節分の豆まきです。今よりずっと、大雑把で、生産効率は悪かったと言われます。そんな風に投げて蒔けば時には畑以外の場所に落ちたりしました。茨の中に落ちたこともあったでしょう。種を蒔いて土を被せないので、鳥が食べるのは当然です。いま私たちが想像する農業、種まきよりもずっと、おおらかで、いいかげんで、だいたいの作業でした。

イエス様はこのような種まきをイメージして語っています。一粒一粒ずつ、大事にうえていく感じではありません。気前よく、だいたいの感じで、ひと握りの種をバーッと投げて蒔くのです。それは多少失敗してもいい、多少鳥に食べられてもいいという蒔き方です。精密に、一つの無駄なく、失敗のない蒔き方ではありません。それがイエス様の種まきです。そしてイエス様は種に素朴な期待を寄せています。たくさんまいて、たくさんの収穫を期待したのです。「芽を出せ実れ」「芽を出せ実れ」と唱えながら種をわしづかみにして、ばら蒔いたのです。イエス様はこのように、種を蒔くことをイメージしました。イエス様の種まきは、とにかく徹底的に蒔くという方法です。

このことからイメージをしましょう。イエス様はこのように、あなたにも種を蒔くお方です。イエス様はあなたにたくさんの種を蒔いてくださいます。あなたの心がどんな心かは関係ありません。イエス様は「あなたの心には蒔いても無駄かな?」そう思っても、気にしません。イエス様はとにかくたくさん蒔いてくださいます。イエス様はひとりにひと粒ずつ種を蒔くのではありません。種をわしづかみにして、気前よくばら蒔いてくださるのです。イエス様は誰がいい人で誰が悪い人かをより分けて、種を蒔くという心の狭い方ではありません。イエス様は誰に蒔いたら芽が出そうか、よく吟味して種を蒔くお方ではありません。イエス様はとにかく種を蒔くお方です。そしてイエス様は希望をもって種を蒔いています。芽を出し、育ってくれるようにと願い、大きな希望を持って、惜しみなく種を蒔いています。

当時の収穫は、10倍になればいい方だったそうです。1をまた来年に残して、9を食べて生活をしました。収穫が30倍や60倍、ましてや100倍になることは想像できないことでした。でもイエス様はそれぐらいの期待をしながら蒔いたのです。

私たちの食堂はそのような種まきに近いと思います。誰かが私たちの信仰に気付くかどうか、それはわかりません。でも私たちは気づいてくれそうな人にだけ種を蒔くのではありません。私たちはとにかく無条件に愛をばら蒔くのです。愛を惜しみなくまくのです。そしていい加減ではなく、祈りながら、いつかたくさんの芽をだすと希望を持ちながら、100倍になることを期待して、祈りながら蒔くのです。それが私たちのこひつじ食堂なのではないでしょうか?

こども食堂以外にも、私たちそれぞれの生き方も考えましょう。私たちは人生においてどんな種のまき方をしているでしょうか?私たちの人生はもしかすると、1粒蒔いて、芽がでるかどうかを試す、そんなことばかりしているかもしれません。私たちの生き方は愛を惜しんで一粒ずつ蒔くような生き方になっていないでしょうか。自分の蒔いた一粒の愛が無駄にならないように、よく相手を吟味してから、一滴の愛を注ぐような生き方をしていないでしょうか?ちびちび愛を注いで、いちいち実りがあるかどうかを勘定していないでしょうか?愛を注いだ人から、すぐに見返りの愛を求める生き方になっていないでしょうか。

私たちはイエス様の種まきを見習いましょう。イエス様は気前よく私たちを愛して下さるお方です。それは相手の失敗も織り込み済みです。でもきっとうまくいく、きっと愛は100倍に増える、そう神様に信頼し、たくさん蒔くのです。なんどもチャレンジするのです。そのように神様を信頼して愛の種を蒔くのです。

私たちはどのように種を蒔きながら、生きてゆくでしょうか。イエス様は今日も私たちに惜しみない愛を、種を蒔いてくださいます。私たちも希望をもって、種を蒔く、気前よく他者に愛を注ぐ、そんな生き方をしてゆきましょう。お祈りいたします。