【全文】「新しい生き方を始めよう」マタイ28章1~10節

おはようございます。今日もこうして共に礼拝をできること、神様に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。今日もこども達の声を聞きながら、命を感じながら礼拝をしてゆきましょう。

 

特に4月と5月は初めて教会に来るという方を歓迎しています。興味があるけど勇気がでないという方、YouTubeで見ているという方、ぜひ教会に訪ねてみてください。

 

4月は新しいスタートの季節です。入学、進学、就職、転勤……さまざまなかたちで私たちは新しい環境を迎えます。でも、それは同時に不安や孤独、緊張を伴う時期でもあります。だからこそ、今日はそんな私たちに神様が「新しい人生を与える」と語りかけていることに目を向けたいと思います。

 

今日は、教会では特別な礼拝をしています。イースター礼拝という礼拝です。イースターとは、イエス・キリストが復活をしたということを記念する日です。毎年3月か4月にこのイースター礼拝が行われています。私たちの教会ではイースター礼拝でみなさんにゆでたまごをプレゼントしています。このたまごは新しい命の象徴です。固い殻に覆われている命が、殻を破って生まれてきます。そのように隠されていた命が、輝きだすことの象徴として、このたまごを配っています。ぜひたまごを受け取って帰ってください。

 

先日まではイエスが愛や共感、平等を訴えたことを見て来ました。しかしイエスは十字架刑という刑に掛けられ死んでしまいました。イエスは人々に弱さをさらけだしながら死んでいったのです。神と等しい存在のイエスが、弱さを隠さずに生きたのです。でも私たちは、そこに力強さがあることを見ました。私たちも弱さを抱えたままでいい、生きてゆこうということを見ました。弱さを持った集まりとして、私たちは神とつながっていよう、お互いとつながっていよう、弱さも誇って生きようということを見ました。

 

今日は聖書から、どのようにして、私たちに新しい生き方が始まるのかを考えたいと思います。

 

私たちは自分の生き方を変えたいと思っています。私もそうです。でも自分の力だけでは限界があり、私はいつも同じ失敗ばかりを繰り返しています。では、どのようにして私たちは人生の方向を変えることができるのでしょうか? 今日は、それを経験した人々の姿を聖書からたどっていきたいと思います。

 

今日はマタイによる福音書28章1~10節までをお読みいただきました。今日はイエスが十字架に掛かった後の物語に目を向けます。聖書によればイエスは“復活”をしたと書いてあります。実はイエスは死んでいなかったというのではなりません。イエスは確かに十字架で死んだのです。確かに死に、その遺体は墓に葬られました。そしてイエスに従った弟子の女性たちはその遺体のケアをしようとして、墓に向かいました。

 

1節、墓に向かった弟子たちはどのような気持ちだったでしょうか?自分の新しい生き方を指し示してくれていたイエスが死んでしまった、殺されてしまったのです。尊敬する人の死、大きく自分に影響を与えた人の死は深い悲しみを伴うものだったはずです。

 

失意と混乱の中で墓へと向かいました。心の中には、イエスへの信頼が打ち砕かれた思い、期待が裏切られた痛み、未来への不安が渦巻いていたでしょう。私たちも人生の中で似たような経験をすることがあります。信じていた人が去り、支えにしていたものが崩れ、立ち尽くすことがあります。

 

そして弟子たちにはもう一つの悲しみがあったでしょう。それは、もっとこの人からたくさんの教えを聞き、自分の人生を変えたかったという悲しみです。イエスの死はイエスに従うことで自分の人生を変えたい、そのような自分が変わるチャンスを中途半端に終わらせてしまうものでした。墓に行った弟子たちは、そのような様々な悲しみを持って墓に向かっていました。

 

しかし墓では不思議なことが起きます。聖書によれば、墓を閉じていた石が動かされ、そこには天使がいました。そして天使は「ここにはイエスはいない」「イエスは復活をした」と教えます。弟子たちは驚いてこのことを他の弟子たちに伝えようと走り出します。しかしその途中、今度は天使ではなく、イエスが直接、目の前に現れたのです。

 

この弟子たちは、イエスが殺されてしまったという状況にさらされていました。そのような強いストレスを感じる状況の中で彼女たちは幻、幻覚を見たのかもしれません。イエスが殺された、でももう一度会いたい、しかし遺体が無いという混乱する状況の中で幻覚を見たのかもしれません。

 

しかしこの話を、幻、幻覚としてしまうには説明がつかない部分も多くあります。墓に行ったのは二人です。二人同時に幻覚を見ることがあるでしょうか?この後、他の弟子たち11人もイエスを目撃します。11人が同時に同じ幻覚を見ることがあるでしょうか?しかも9節では弟子たちはイエスの足をつかみ、抱きしめています。幻覚には触ることはできないでしょう。弟子たちはそのような不思議な体験をしました。失ったはずの命が目の前に現れ、触れることができたのです。

 

2000年前に実際に何が起こったのか、それを完全に知ることは私たちにはできません。本当に聖書の記述通りのことが起きたのかもしれません。あるいは、何か核となるような出来事があり、それが抽象的・象徴的に記録されたのかもしれません。どこまでが客観的な事実なのかはわかりません。ここで「復活した」と言われていること、それが実際にどんなことだったのかは、それぞれの想像に委ねたいと思います。それぞれのイメージでとらえてよいと思います。そこではまるで玉子の中から命が出てくるような、命があるように思えなかったものから命が生まれる不思議な出来事が起きたのです。

 

しかし、客観的に見て確かなことがあります。それは、キリスト教がこの復活をスタートに、世界に爆発的に広がっていったということです。キリスト教はこの復活と呼ばれる出来事をきっかけに世界中に広がってゆきました。それはイエスの弟子たちが担いました。

 

聖書を見ると弟子たちも弱い存在です。私たちと変わらない、ごく普通の人間です。たくさんの弱さを持った人間です。人を裏切り、他者に無関心で、権威を欲しがる人間です。弟子は私たちと同じ誘惑を持ち、私たちと同じ弱さを持っていました。

 

しかし弟子たちはこの復活と呼ばれる出来事から変わってゆきました。彼らの前で、彼らの中で何かが起きたのです。彼らには復活としか表現できない何かがそこで起きたのです。復活から彼らは人生の方向性を大きく変えられてゆきました。彼らはイエスのように生きようと思ったのです。裏切りと無関心を捨て、愛を伝え、十字架に掛かったイエスの生き方に従おうと思ったのです。弟子たちはそのことを胸に決め、世界へと向かってゆきました。世界にこの愛を伝えようと決心したのです。

 

それはまるでたまごから命が出てくるような出来事です。彼らの中に隠されたものが、ゆたかに用いられる出来事でした。それが今日お読みした復活の物語から始まってゆきました。

 

このことは私たちの今、私たちの生き方とどのような関係があるでしょうか。非科学的なことを信じろと言っているのではありません。私はこの出来事を、私たちは人生を変えることができる、何かが起きたと受け取りたいと思います。普通の人間と変わらない弟子たちが、この復活と呼ばれる不思議な出来事を体験した時、大きな人生の方向転換を始めました。彼らは今までの生き方を中断し、イエスに従う生き方を選んだのです。

 

私たちにもこのことは起こるのです。不思議な神秘体験ができるということではありません。でも私たちはイエスとの出会いによって、生き方を変えることができるということです。キリスト教は私たちの人生を変える力があります。私たちは自分で変わることは難しいものです。だから何度も同じ失敗を繰り返すのです。私たちは人生の方向を変えたいと思っています。そしてイエスが私たちの人生の方向を変えてくれるのです。それが弟子たちに起きた事です。復活とよばれる、何か不思議な出来事が起こりました。それによって弟子たちは人生を変えられてゆきました。それと同じ様に、みなさんにも不思議な力が働きます。それは言葉では説明しきれない出来事です。神様が働きかけて私たちに起ることです。私たちはそれを少しずつ経験しています。イエスが私たちを変えるのです。

 

「こんな自分を変えたい」と思ったことはありませんか?いつも怒ってばかりいる自分、人と比べて落ち込む自分、大切な人を傷つけてしまう自分……私たちは「変わりたい」と願うけれど、思うように変われないことも多いものです。だからこそ、イエスとの出会いが私たちに必要なのです。復活が必要なのです。自分の力ではなく、神様の力によって変えられる道がある。聖書はそのことを静かに語りかけてくれます。

 

もし、変わりたいと心から願っているなら、ぜひイエスに従ってみてください。自分だけで人生を変えるのは難しいものです。イエスの力によって、変えられることをお勧めします。

 

どのように変えられるでしょうか。これまでにお話してきたように、強くなる、偉くなる、上に行く変化ではありません。弱さをもったまま、低みにいながら、人を愛する生き方へと変えられてゆきます。

 

今ここにいる一人ひとりに、神様は「新しい命」を与えようとしています。それは突然すべてが変わるというより、少しずつ私たちの中に芽生えていく命です。人を愛する心、誰かのために祈る気持ち、小さな感謝の言葉——それが新しい人生の始まりです。あなたも、きっと変わっていけるはずです。

 

イエスに従う時、皆さんの心には、生活には不思議な変化が起こります。そこからきっと生き方が変えられていくでしょう。この玉子のように新しい命が始まるでしょう。

 

お祈りします。