【全文】「イエスの弟子として生きる」マタイ28章16~20節

みなさんおはようございます。今日もこうして共に礼拝できること、主に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。今日もこどもたちの声と命を感じながら、共に礼拝をしてゆきましょう。

 

今月と来月は初めて教会に来られる方に向けて話をしています。この2か月でキリスト教のすべてを知ることは難しいのですが、一番感じて欲しいと思っているのはキリスト教の教理や儀式についてではありません。受け取って欲しいのは知識や教養よりも、イエス・キリストの生き方についてです。人を愛するという生き方、人に仕えるという生き方を受け取って欲しいと思っています。

 

ヒンドゥー教の指導者、インドのマハトマ・ガンジーがこう言ったそうです。「私はイエス・キリストは好きだがクリスチャンは嫌いだ」。ガンジーの言葉に、私はドキッとさせられます。これは、私たちへの問いかけでもあります。ガンジーは、イエスの生き方は従う価値のあるものだが、クリスチャンはイエスのような生き方ができていない人が多い、だから嫌いだと言っているのです。この言葉はキリスト教に入信しているどうかよりも、どう生きるのかが重要だと教えてくれます。

 

キリスト教を信じ、自分の生き方の中心にしたいという人はキリスト教に入信します。入信のための儀式として洗礼があります。この洗礼はもともとの言葉ではバプテスマという言葉です。私たちは特にこの洗礼・バプテスマを大事にするグループです。だからバプテストと呼ばれています。クリスチャンはバプテスマからキリスト教の精神に基づいた生き方をスタートします。洗礼・バプテスマはイエスに従って生きる、大事なスタートです。

 

洗礼・バプテスマはどんなことがあっても取り消すことができない、一生変えられない事実です。でもガンジーが指摘しているように、洗礼・バプテスマを受けたクリスチャンであることと、イエスを中心とする生き方を実践・継続することとは同じではありません。

 

クリスチャンでもイエスを中心とすることから離れてしまう時があります。もちろんそれは誰にでもあるものです。そして反対にクリスチャンでなくてもイエスの生き方を体現している人もたくさんいます。

 

ここからわかることは、私たち目的は、誰かに洗礼をすることや、信者を獲得すること、クリスチャン人口を増加させることではないということです。誰かの心に光を照らすような愛と優しさに満ちた生き方をしたい、それが私たちの目指す道です。洗礼・バプテスマを受けたかどうかよりも、その生き方の実践の方が大事です。

 

イエスの示す生き方はどんなことでしょうか。聖書にはたくさんの生き方が例示されています。例えば今月では自分の弱さを誇るという生き方をみました。他者の人生を想像し共感する生き方を見ました。神様の力によって私たちは変わることができると聖書から読んできました。

 

聖書には他にもたくさんの生き方が豊かに示されています。イエスは愛と正義と公平を求めました。病や不正に苦しむ人と連帯しました。貧しい人、後回しにされる人に常に目を留めました。様々な人と食事を共にしました。そんなイエスの生き方が聖書には書かれています。私たちはその物語を読み、イエスの生き方を私たちの人生でも実践したいと思っています。

 

信じる、信じない、洗礼を受ける、受けないよりも大切なことがあります。それはイエスの生き方にならい、それを実践することです。キリスト教ではそのような生き方をすることを「弟子になる」と言います。私たちはイエスの弟子になることが大事です。ぜひ一緒にイエスの弟子になりましょう。今週もイエスの弟子として歩みましょう。今日は聖書の物語からイエスを模範にした人生ということについて考えましょう。

聖書マタイによる福音書28章16~20節までをお読みいただきました。ここまでのイエスの人生は愛を持って生きる様にと人々に伝える人生でした。そして多くの人がその生き方に従い、イエスの弟子となりました。

 

一方、イエスの訴える愛や平和や平等は、権力者たちには気に入らない考えでした。イエスはそのために十字架に掛けられ殺されてしまいます。しかしそれだけでは終わりませんでした。イエスは復活をしたのです。何が起きたのかは詳しくはわからないのですが、死んだはずのイエスがもう一度弟子たちの前に現れたのです。そしてそこから弟子たちは大きな変化を遂げてゆきました。

 

16節をみましょう。復活したイエスを目撃したのは11人だったとあります。本当はもともと12弟子だったのですが、一人は途中でイエスを裏切ってしまったので一人欠けています。12人いたはずの弟子が11人に減っている。11人という響きに胸が痛みます。裏切った弟子の名前はユダと言いますが、彼はイエスに従う弟子であることを止めてしまったのです。でも責める気はしません。私の中にもユダのようにイエスに従えない部分があるからです。

 

11人の弟子たちがイエスに出会った時、彼らはイエスにひれ伏したと同時に、そこには疑う者がいたとあります。この場面は聖書の中でもイエスが再び登場するクライマックスの部分であるにもかからず、疑う者がいたのです。でもこの疑う人の存在は大事だと思います。ここには弟子というのは、信じている人だけの集まりではなくてよいということが示されているのです。イエスの弟子には、信じていない人、疑う人も含まれていて良いのです。この教会もそうです。私たちの教会は、信じる人だけの場所ではありません。疑う人、悩む人、問い続ける人、みんなを歓迎する教会です

 

教会では信仰を疑うことが許されています。疑うことが許されるのは、組織として健全なことです。12人全員が従ったのでもないし、残った11人も全員が信じていたわけではありませんでした。誰も完全に従いきることはできなかったのです。聖書には信じられないようなことがたくさん書いてあります。私も疑いながら従っている一人です。でもイエスは疑っている人々の前にその姿を現します。

 

そのような場所にイエスが現れて言った言葉に注目をします。これは聖書の中でもひときわ重要な言葉です。イエスが最後に残した言葉、それは『すべての人を私の弟子にしなさい』というものでした。これが今日、一番大切なメッセージです。今日のテーマは「弟子になる」ということです。

 

まずこの言葉の「私の」に注目をします。それは他でもないイエスに従うという生き方です。イエスこそ生き方の模範とせよという招きです。みなさんは誰の弟子として生きているでしょうか?私たちの周りには様々な模範があります。何を模範とするのかが大事とも言えるでしょう。その時、疑うことができない模範はよくないでしょう。

 

聖書のこともどんどん疑ってください。聖書によれば、そのように疑う中にこそ、イエスが現れます。どんどん疑っていいのです。キリスト教は疑いへの強い耐久力があります。たくさんの人が疑い、それでも従う人が多く起こされています。ぜひ疑って、よく吟味し、イエスに従ってください。

 

そして「イエスの弟子として生きる」ことを考えます。イエスの弟子として生きるとは愛をもった生き方をすることです。他者に共感し、平和と平等、公平を求める生き方です。困難や、貧しさにある人を忘れずに生きる生き方です。私たちはその生き方へと招かれています。イエスの弟子になるとは、聖書に書いてあるイエスの生き方に従うことです。ぜひ一緒に読みながら、疑いながらあなたの模範にして欲しいと思います。

 

イエスは「イエスの弟子となりなさい」という言葉に続いて洗礼を授け、教えなさいと言いました。しかしこれは二次的な位置づけです。元々19~20節の途中までは一続きの文章です。翻訳する際に、読みづらいのであえて2つの文に分けています。19節、20節全体を通じての強調点は「弟子にしなさい」です。そのために洗礼をしたり、教えたりしましょうと付け加えているのです。

 

19~20節全体で最も強調されているのは「イエスの弟子として生きる」ということです。洗礼・バプテスマや教えることはそれに次ぐものとして挙げられています。決して洗礼や教えることが目的ではありません。私たちの目的は信者を獲得すること、クリスチャン人口を増加させることではありません。

 

私たちはすべての民を弟子とすること、イエスの生き方を自分の生き方する人を求めているのです。他者への愛をもって生きる事、平和と平等を大事にすること。イエスの教えを実践することが「弟子として生きる」ことであり、ここで最も勧められていることです。

 

私たちは今日集まったのは、儀式に参加するためではありません。イエスの生き方を確認するためです。そしてイエスの弟子として共に生きるためです。私たちはいつか先生になるのでもありません。一生、イエスの弟子です。私たちは、どんなに年を重ねても、どれほど学んでも、イエスの前ではいつまでも弟子です。それはずっと学び、成長していく存在だということも示しています。だから私たちは共にイエスの弟子として共に歩みましょう。私たちは大きなことを成し遂げるために、イエスの弟子になるのはありません。他者を愛するために、小さくされている人に目を向けるために弟子になるのです。共にイエスの弟子として歩みましょう。

 

20節イエスは私たちに「いつもあなたがたと共にいる」と言ってくださっています。イエスがいつも私たちの先生として、共にいてくださいます。いつも私たちの生き方を指し示してくださいます。今日から、また共にイエスの弟子として、小さくても確かな一歩を歩み出しましょう。お祈りします。