みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること、神様に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。今日も自由に過ごすこどもたちの声と命を感じながら、一緒に礼拝をしましょう。
4月・5月と初めて教会に来る方に向けて話をしています。私たちは聖書という本を大切にしています。この聖書にはいろいろなお話が書いてあります。物語だけではなく、詩のような言葉も含まれています。聖書の真ん中には詩編という詩集も載っています。難しくない個所からぜひ読んでみてください。私たちはこの聖書の後半に記載されている、2000年前に生きたイエスという人の教えを、人生の中心に据えたいと思って、この聖書を読んでいます。
キリスト教というと、庶民の宗教というよりも、ちょっとハイクラスな人の宗教というイメージを持っている人がいるかもしれません。日本で身近なキリスト教というと、学力の高い学校だからでしょうか、知識層が多いイメージがあるかもしれません。しかし御覧のとおり、大半はみなさんと変わらない、ごく普通の人です。
2000年前、イエスに従った人も普通の人でした。ただ当時は今よりもっと多くの人が貧しく暮らし、激しい格差の中で生きていました。ローマ帝国の支配の下の厳しい税金が課せられました。多くの人が自給自足の生活です。食料の収穫量は毎年安定せず、飢餓はいつも目の前にある不安でした。
そのような時代の中でイエスに従ったのは、極限まで貧しい人、社会の底辺にいた人々だったと言われています。私たちは聖書を読む時、イエスの話の聴衆の多くが、このように貧しい人だったということを忘れずに読みたいと思います。そしてこの点はもしかすると現代の私たちと共通してきていることかもしれません。私たちの生活は確実に貧しくなってきています。ガソリン、電気、お米の値段はどこまで上がるのか不安です。当時の貧しい人々に近づいてきていると言えるでしょう。
当時も今も、貧しさは人間にとって最も大きな問題です。日本では貧困と格差が広がっています。貧しさは敵です。幸せはお金の有無だけではないというのは本当です。しかしそれは十分お金がある人の話です。貧困と幸福度には密接な関係があります。貧しさは人の幸福度を確実に、大きく下げます。貧しさは時間的な余裕を奪います。貧しさは交際費を削らせ、友人と遊ぶこともできません。貧しさは今はなんとか大丈夫でももしもの時の不安を大きくします。お金で解決できることはたくさんあります。経済的豊かさのみが、幸せの条件ではありませんが、幸せの大きな要素は経済的な豊かさです。
宗教は心の中の問題を専門に取り扱うものではありません。宗教は心の中だけではなく、お財布の中の問題も考えます。宗教は貧困という大きな不安をなくすために働いています。宗教にはこの世界の大きなゆがみ、格差、機会の不公平、不平等な教育を正してゆく使命があるのです。社会にある貧困とその不安な心に目を注ぎ、そこに公平さ、正義、安心を求めるのは宗教の大切な役割です。イエスの教えもそのために語られました。
キリスト教が貧しさ・格差へ反対する根源的な理由は「みんなおんなじ命」だということからです。命とは偶然にできるものではなく、神様から与えられたものです。命はすべて神様が創ったものであり、すべての命には尊厳があり、その価値に上下はありません。命は神様が、すべての人間に等しく与えたものです。だからこそ、すべての命が大切なのです。
命が平等であることは多くの人のもつ価値観ですが、私たちはその理由を特別に、神様が命を与えてくれたと理解しています。神様が命をくれました。だから命は大切です。だから命は平等です。だから命は傷つけてはいけないのです。
そしてもう一つ言うことが出来るでしょう。神様が与えた命です。だから貧しくてはいけないのです。神様から与えられた命が、貧しさによって不安にさせられてはいけません。貧しさによって不幸にさせられてはいけません。神様から与えられた命は、ちゃんと食べることができる、ちゃんと幸せだと感じさせることができる命でなければいけないのです。
そのために私たちは月2回こども食堂を開催しています。人との交流を楽しみに来ている人も多いのですが、アンケートをとると「生活がとても苦しい」と答える人がたくさんいます。こどもを育てる親は多くの我慢が必要で、不安が大きいものです。教会では月1回ホームレスの炊き出しも開催しています。炊き出しには来る人が絶えません。生活の支援を求める人がたくさん教会に来ます。私たちは貧しさがどれだけ人の心を不安にさせるのかを痛感しています。このように人の心に不安をもたらす貧しさは神様の与えた命にふさわしくないのです。
世界には人間によって作られた貧しさがあります。作られた貧しさは解消できるはずです。この世界に経済的に貧しい人がいるのは良くないと訴え、貧しい人を助けてゆくのは教会の大切な使命だと思います。
私たちは神様の力が貧しさの中に働くと信じます。神様の力は経済的な不安にこそ働きます。神様の力は経済的な不安の中でも、楽しくニコニコ生きようという気休めとして働くのではありません。貧しくても前向きに生きようという気休めを言っているのではありません。神様は人間の命に、貧しさは必要ないと言っています。神様は貧しさはいらない、貧しさ・格差と闘おう、貧しさの中で助け合おうと言っています。
今日はこの貧しさ、経済的不安を無くすために、神様が私たちに働くと言っている聖書の個所を見ます。一緒に聖書を読みましょう。
今日はマタイによる福音書5章3節をお読みいただきました「心の貧しい人は幸いである、天の国はその人たちのものである」という言葉は、聖書の中でとても有名な言葉です。しかしその意味は非常にわかりづらいでしょう。
心の貧しい人が幸せだというのは、意味が分かりません。「心が貧しい」とは、すさんだ心の持ち主のことでしょうか。他者に配慮の足りない人、優しさのない人、愛のない人、他者への想像力が足りない人がいます。そんな人、そんな自分たちのことでしょうか。
そうではありません。心が貧しい人とは実際の生活苦からくる心の不安を持った人のことです。心の貧しい人とは経済的に貧しくて、その貧しさに不安を覚えている人、経済的な事情で将来が不安な人のことです。経済的な事情で明日が不安という人のことです。お金持ちにはわからない不安を持つ人のことです。
2000年前の人々はそれを嫌と言うほど痛感していたはずです。干ばつなどの自然災害の心配がありました。食料危機への不安がありました。生活の保障はなにもありませんでした。だからこそ、その貧しさは心を蝕みました。心が貧しさの不安でいっぱいになったのです。心の貧しい人とは貧しさで大きな不安を抱えなければいけない人のことです。
現代にも心の貧しい人がたくさんいます。現代で心の貧しい人とは、もし病気になったら経済的にやっていけないと不安に思う人のことです。こどもをしっかりと育ててゆくためのお金を稼ぐことができるか不安な人のことです。老後のお金に不安を感じる人です。お米が高くてこれ以上値段が上がったら買えないと不安に思う人です。そのような貧しさから不安を感じる人が、心の貧しい人です。経済的な不安を感じる私たちのことです。イエス様はそういう人たち、私たちに語り掛けているのです。
そしてイエス様は「天の国はその人達のものである」と言っています。天の国はその人たちのものであるとは、死んだ後天国に入れるよという意味ではありません。この世で苦労した分、死んだ後、天国に入って、安らかに過ごせますよという意味ではありません。天の国とはこの地上、この地上に生きている命に神様の理想が叶うことです。神様の理想が実現する場所が、天の国です。神様の理想、それは命が等しく扱われる世界です。貧しさと格差がない世界です。貧しい人のいない世界の実現が天の国です。
貧しい人たちの、貧しさが終わり、神様の理想が叶い貧しさがなくなる、それが天の国です。私たちはこの天の国が実現するように祈っています。貧しい人にそれが実現するように祈っています。貧しくても、ニコニコしていようという事ではありません。神様の力が貧しさの不安の中にある人に働き、そして貧しさそのものが無くなってゆくのです。
私たちが祈り、求めているのは、貧しさの中の心のゆとりではありません。もっと根本的な経済的な心配をしなくてよくなることです。それが日本で、世界、あらゆる地上で、みなさんの生活で実現することを祈っています。そのことを求めて、イエスに従っています。
私は大金持ちになりたいのではありません。豊かさを奪い合うのではなく、誰もが安心して暮らせる社会を祈り求めています。他の人より良い生活を求めているのではありません。神様から与えられたすべての命が、経済的な不安なく過ごせる社会が作られていくこと祈っています。
イエスは「心の貧しい人は幸いである、天の国はその人たちのものである」と教えました。その言葉を私の人生の中心に置きたいと思っています。神様から与えられた命に、貧しさはふさわしくありません。神様はそのような心の不安が、貧しさが必ず解消される世界が来ると言っています。私たちはそのような世界、天の国が来るように、祈りましょう。世界のすべての人が安心して生きていけるだけの収入があるように祈りましょう。神様の力が、貧しい人に、貧しい私たちに働くはずです。お祈りします。