【全文】「人に真珠ー神と他者に聞くー」マタイによる福音書7章1~6節

 

 みなさん、おはようございます。今日もこうしてみなさんと礼拝に参加できることを神様に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。今日もこどもたちの命を感じながら、一緒に礼拝をしましょう。

 

先月・今月と初めてキリスト教の話を聞くという方に向けて話をしています。みなさんよくご存じの「豚に真珠」という諺は、実は聖書のこの個所から生まれた諺です。もあしかすると日本人にもっともなじみのある聖書の言葉かもしれません。この前後の個所からイエスの教えと私たちの生き方についてお話をします。

 

私がしている牧師という職業は教会の内外に向けて、文章を書くという仕事が多くあります。文章の発行には必ず、校正や校閲という作業があります。複数の人が文章を見て、差別表現や不正確な内容、行き過ぎた表現、誤字脱字を直す作業が必要です。複数の人がチェックすることで、自分では気づかなかった文章の受け止め方を知ることができます。自分で書いた文章には気付かないうちに「きっと伝わるだろう。分かるだろう」という勝手な思い込みがたくさんあるものです。誰かの目線で自分の文をみてもらうことは、非常に大事です。より良いものを作ることができます。

 

多くの場合、みなさんは愛と配慮を持って指摘してくださいます。赤ペンで全部に×がつくような、否定するような校正はありません。愛と配慮に満ちた言葉で「もっとこうした方がよく伝わるのではないでしょうか」「こう変更してはいかがでしょうか」と提案をしてくださいます。それでも赤ペンがたくさん入ると、自分の全てが否定されているように感じて、落ち込むこともあるものです。みなさんはそんな経験ありますか?私はいろいろな思いがありながらも、多くの場合、それらの修正の提案を受け入れた方がよいと思っています。

 

私も校正する人も、いろいろな感じ方がありますが、目標は同じはずです。読者に伝えるべきことが、しっかりと伝えようという同じ目標があります。同じ目標のために、一つの文章を様々な視点で見つめてゆくことは大事なことです。私がその指摘を受けることは、私の成長、私の気づきにつながってゆきます。私にとって大切な成長の機会です。

 

私が一番怖いのは、あの人は何を言っても変わらないと言われるような人になることです。私はあの人には何を伝えても、豚に真珠だ、馬の耳に念仏だと言われたくありません。もちろんそれは何でも言われた通りすることとは違います。でも私は基本的に他者の言葉を受け止め、変わり続ける自分でありたいと思っています。

 

校正という作業からもわかるように、一人では気づかない間違えがあります。他者からの指摘が、自分を正しく導く時があります。それは、私たちの生き方、人生、他者との関わり方についても同じことが言えるでしょう。私たちは一人で生きるよりも、他者と生きる方が、間違えが少ないのです。私たちは間違えや失敗の多い存在です。しかし私たちはそのことを他者から教えられ、それを受け入れ、修正することによって、より豊かに生きることができるのです。

 

聖書にもそのように言っている場面があります。他者の視点や言葉から学び、成長していく大切さ、他者と誤りや間違えを共有し共に変化しながら生きてゆくという生き方が示されています。今日は聖書からそのような姿を見てゆきましょう。

今日はマタイによる福音書7章1~6節までをお読みしました。今日の聖書の個所はかなり衝撃的なたとえです。

 

1~5節に目を向けましょう。このたとえ話はなぜだかとても説得力があります。おそらくそれは誰もが経験したことのある感覚だからでしょう。1~5節はこんな話です。ある人の目に丸太が刺さっていました。丸太とは、もともと建物に使われる梁のことです。ある人の目は、そのような太くて長い木が刺さるという衝撃的な状況でした。

 

誰かがこの人に、目に丸太が刺さっていることを教え、とってあげなければなりません。しかしたとえ話で、この人は自分の目に丸太が刺さっていることに気付いてすらいません。

 

なぜ誰も、彼の目に丸太が刺さっていることを指摘してあげなかったのでしょうか?人様のことにあまり口出しをしないでおこうと思ったのでしょうか。みんなわかっていたけれど「あの人はそういうひとだからしょうがない」と言って指摘しなかったのでしょうか。

 

あるいは何度も丸太が刺さっていると伝えても、その人が「そんなはずない」と言って受け入れなかったのかもしれません。あるいは丸太が刺さっていることは百も承知だったかもしれません。抜きたくても抜けない事情があったのかもしれません。

 

いずれにしても、丸太が刺さっている人を笑っていてはいけないと感じます。イエス様のこのたとえ話は、他人事ではありません。丸太が刺さっている人とは、間違えに気づいていない自分であり、間違えを指摘されてもなお直そうとしない私であり、間違えを直したくても直せない自分だからです。

 

私にも、そしてみなさんにもきっと、丸太が刺さっているのではないでしょうか。それは自分では気づいていない問題のことです。そして言われたとしても認めたくない問題、直したくても直せない問題のことです。わたしにも、そしてみなさんにもそのような丸太が刺さっているでしょう。

 

もし可能ならば、私たちは互いに丸太が刺さっていることを優しく教えあって、お互いに自分の目から丸太を抜くのを手伝い合いたいのです。私たちは互いにそのような関係でありたいのです。

 

そしてもう一点気づかされることがあります。目に丸太の刺さっている人はおそらく自分の目がほとんど見えていないはずです。彼にできることは多くないかもしれません。しかし彼は他者の目に入ったチリに気付くことができたそうです。自分の状況、自分のことがほとんど分かっていない人、自分のことはどうすることもできない人が、他者の些細な変化には気付くことができたのです。このことも笑って、見下す気にはなりません。自分を棚に上げて、人の些細なことを指摘する愚か者だと切り捨ててしまうのはもったいないでしょう。

 

人間は自分のことは自分が一番よくわかっているわけではありません。自分のことは他者の方がよくわかっているときもあります。他者に私の目に丸太が刺さっていないかを聞くことが大事です。それは相手を選ばず、どんな人から聞いてもいいのでしょう。目に丸太が刺さっている人でも、他人のチリは良く見えるのです。あなたに言われたくないと考えず、お互いに聞き合い、お互いに目のゴミを取り合う関係になれたら良いのではないでしょうか。

 

一番の不幸は「お互い様だから、みんなゴミや丸太の一つもある」と言って、お互いに対して何もしないことです。それは互いの目を曇らせ続けることになります。ゴミが大きくても小さくても間違いは間違いとして受け止め合い、悔い改めることが必要です。聖書によれば丸太にしろ、チリにしろ、目に曇りのある者同士でも、互いを高め合うことができるのです。

 

私たちは互いを指摘しながらも、共通の目標に生きているといえるでしょう。それは互いに愛に生きようという目標です。

 

1節に裁くなとありますが、これは相手の悪い事を見過ごせ、無関心になれということではありません。裁くなとは見下して笑って終わりにするなということです。ああいう人だからしょうがないよねという陰口で終わってはいけないのです。

 

お互いに欠けを持っていることを確かめ合い、互いの丸太に気付き、互いに取り合うことが愛し合うということです。私たちは互いの言葉を無視しないことが大事です。私たちがお互いに交わす言葉は、時として、互いを成長させる輝く真珠となるはずです。真珠のような他者の言葉の価値を、私たちは決して踏みにじってはいけません。ましてや相手に噛み付くようなことがあってはなりません。互いに間違いがある存在として、互いの言葉を真珠として受け止め合い、ともに成長してゆく、これは人間関係においてとても重要なことでしょう。

 

そしてもちろん聖書は人間関係のコツだけを伝えているのではありません。ここにも神様の愛が書かれています。神様は人間に互いに愛し合って欲しいと願っています。神様は人間が悪いところ、罪を持っていることをよくご存じです。神様は人間がどれほど不完全であることをよくご存じです。その上で、私たちに互いに豊かに生きる様にと教えているのです。

 

神様は天国から人間同士の愚かな掛け合いを見て笑っているのではありません。これは愚かだと言って裁いているのではありません。神様は人間を、何をいっても無駄な豚のような存在だと思っているのではありません。

 

神様は人間を大切に思い、見守っています。神様は人間に、間違えを捨てて、正しく生きて欲しいと願っています。そしてその間違えを神の言葉から、互いの関係の中から解消していって欲しいと願っています。神様は、人間が神様の言葉を聞き、愛し合い、共に磨き合い、正しく生きて欲しいと願っているのです。

 

神様は決して私たちを見放しません。どれだけ私たちが愚かな過ちを繰り返しても、神様は決して「人間には何を言っても無駄だ、まさに豚に真珠だ」とは言わないお方です。

 

それどころか、神様は、私たち一人ひとりに、辛抱強く、愛をもって、何度でも語りかけてくださいます。私たちにとって本当に価値のある、美しい言葉・真珠を与え続けてくださるのです。私たちはその神の愛の深さを感じましょう。そしてその愛を受けて、私たちも互いに愛し合い、互いの言葉を真珠としあいながら、互いの丸太を抜き合いながら、生きてゆきましょう。お祈りします。