みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること神様に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。今日も小さな命の息吹を感じながら、共に礼拝をしましょう。
今月と来月は「初めて教会へお越しになる方へ」というテーマでお話ししてきました。その締めくくりとして今日は、私たちの人生の揺るがない土台は「他の誰かのための愛」ではないかということをお話しします。
私たちの教会ではこの建物の立て替えを検討しています。この建物は歴史的に大変価値ある建物でありますが、老朽化も激しいのです。先日は建て替えに向けた地盤調査をしました。調査結果によるとこの土地は砂地で、軟弱地盤があり、新しい建物を建てる場合、2m以上の杭を打つ必要があるとのことです。増築部分の基礎がひび割れてきているのですが、地盤沈下が原因かもしれません。
みなさんが座っておられるのは、まさに砂の上の建物です。しっかりとした土台がいかに大切か、改めて考えさせられます。この礼拝の後には総会を開き、この教会の未来について話し合います。
ただ私たちはこの教会の建物を古いから建て直そう、壊れたから新しくしようとしているのではありません。私たちはもっと発展的に考え、この教会を地域に開かれたものにしたい、地域の人がもっと集まって交流できる場所にしたいと願っています。もっとこどもの声がする教会になってほしいと願っています。
教会を新しくしたいと願うのは、決して私一人が快適に礼拝するためだけではありません。初めての方も気軽に入ることができるように、地域の方々が集い、笑顔があふれる場所にとして使われるように、そしてこれから先の未来のために、この会堂を建て直したいのです。自分のためだけなら、今のままでも十分かもしれません。
私たちが教会を建てようとする力、その源は他者への愛です。地域に向けた愛、自分以外に向けた、未来の人たちに向けた愛がこの教会を動かしています。
私たちが他者を思い、愛するからこの教会は新しくなるのです。私たちの教会の土台は、他者への愛です。そのように教会が他者への愛を土台とするとき、それはきっとどんなものより強い、揺るがないものになるでしょう。
自分のために造るよりも、他者のために造るほうが強い土台になる、私たちはそのことを覚えてこの教会を建ててゆきます。この後の総会でどのような決定になるかわかりませんが、他者への愛を土台としてこの教会が立てられることを祈っています。
私たちの教会の土台は他者への愛であるということは聖書から教えられることです。聖書の中でもイエス様が、私たちの人生で本当に大切な土台とは何かを教えています。今日の聖書の個所をお読みしましょう。
今日はマタイによる福音書7章24~30節までをお読みいただきました。イエスは建物について語っているのではありませんが、私たちの建物にも当てはめることができるでしょう。根本的には私たちの人生は何を土台にしているのかということが問われています。
みなさんの人生で今、心を支えている、土台と言えるものは何でしょうか。大切な家族や友人かもしれません。日々の生活を支える仕事やお金も必要です。あるいは、この教会や神様への思いが、心の拠り所、土台という方もいらっしゃるでしょう。一人ひとり顔が違うように、心の支えも様々で、一つではないはずです。
信仰を土台にして生きようということはクリスチャンの基本的な生き方です。教会に熱心に通う人に共通していることは、神様の言葉を土台にしたいということです。私たちの人生の土台を神様が与えてくれたみ言葉としたい、そのように願ってここに集っています。
神様への信仰を土台として生きる時、人生に訪れる様々なことを乗り越えてゆくことができます。多くのクリスチャンはつらいことや悲しい別れがあったとき、聖書の言葉を聞いて励まされたという経験を持っています。あるいは賛美歌に涙が止まらなかったという経験を持っています。
私も毎週、聖書を読んで感じたことを話していますが、小さくてもそれが誰かの心を支える様になって欲しいと祈りながら、準備しています。それに支えられたという人もいるでしょう。クリスチャンにとって揺るがない土台は確かに神様の存在、神様の言葉です。私たちはこの信仰を土台として、これからも共に歩んでゆきましょう。信じる気持を私たちの基礎としてゆきましょう。
そして今日はもう一点、大事なことを確認しておきたいと思います。私たち一人一人が神様への信仰を土台にして生きようということから、もうひとつ深くこの個所を読んでゆきます。今日の聖書の個所を詳しく見てみましょう。
こんなことに気付きます。24節でイエス様は「私の言葉を聞く者は」と言っているのではありません。イエスは「私の言葉を聞いて行う者は」と言っています。ここでは、ただ話を聞くだけで終わる人と、聞いたことを実際に行動に移す人、その二つの生き方が示されています。
もちろん私たちがまず大事にすることは聞くことです。すべては神の言葉を聞くことから始まります。でもイエス様は毎週のように神様の言葉に触れていても、それを聞くだけで、日々実践しない人に向けて「それは砂の上に家を建てて暮らすようなものだよ」と少し厳しく、愛をもって諭しています。それはとても危うく、崩れやすい生き方なのだと教えています。
私たちは神様の物語を聞いて、励ましをもらって、なんとかこの1週間を頑張ろうと思っています。つらいことがあっても、神様の言葉を支えに生きようとしています。でもイエス様は言うのです。神様の言葉を聞いただけではダメだよ、神様の愛を受けとっただけではダメだよ、自分だけのものにしておいてはダメだよ。あなたはそれを他者に行う人となりなさいとイエス様は言っています。
正直なところ私はこのイエス様の言葉に耳をふさぎたくなる思いです。神様の言葉を聞くと励まされるのです。ほっとするのです。でもイエス様はそれだけではまだ足りないと言います。その教えを誰かのために行動に移してごらんと教えているのです。
イエス様の教えを行動に移すとは、どんなことでしょうか?それは聖書全体から考えると、他者を愛しなさいということでしょう。
愛するとは例えばイエス様がしたように、誰かと一緒に過ごし、喜びや悲しみを共に分かち合うことです。困っている人を助けたり、励ましたり、勇気づけたり、慰めたりすることです。他者に心を開いて迎え入れること、他者のためにできることをすることです。そのようにしてお互いのことを大切にしあうということが愛するということです。
そして注目するのは、イエス様が、愛を行う人の土台は強いと言っていることです。愛をただ知っている人よりも、愛を行う人の方がその人生の土台が強いのだと言っているのです。他者を思いやり励まし勇気づける行動、その他者への愛があなた自身を強くすると言っているのです。
自分を守ろうとする力よりも、他者を守る力の方が、強くなるということです。それをわかるような気もします。自分は我慢するけれど、子どもたちには我慢させたくない。私もつらいけど、誰かを励ます。私が支えられたいくらいだけど、誰かを支える、そんな他者への愛が私たちを強くするのです。そのような自分ではない、他者に向けた愛が私たちの人生の強い原動力、強い土台になるのです。
私たちが誰かのために愛を届けようと一歩踏み出す時、不思議なことに、私たち自身が内側から強められるのです。でももし、自分のことばかり考えて、行動しないでいると、まるで砂の上の家のように、心の土台は弱いままかもしれません。ちょっとした風にも揺らぎ、時には激しく倒れてしまうのです。自分自身さえ守れなくなってしまうのです。でも、誰かのために愛を実践することが、巡り巡って強い土台となり、自分自身をも守る力になるのです。
自分を守ろうとして、自分を愛そうとして、自分を傷つけたくなくて行動しないということは、結局自分自身を弱くします。自分を守ることではなく、他者を愛する、大切にすることが、自分自身を一番強くすることなのです。
だからイエスの言葉を聞いて自分だけが満たされれば良いのではありません。他者を愛のために勇気をもって一歩を踏み出すことが、人生を豊かにするのです、他者を愛する人こそが、もっとも強い土台の上に生きているのです。ます自分だという考え方は、砂の上の建物と同じ結果になってしまうのです。
私たちは1週間、まずイエス様の言葉をよく聞いてそれを土台にして生きてゆきましょう。そして大事なのは聞いたその先です。あなたがそれを他者に実践する時、初めてあなたの土台は揺るがない、強い土台になるのです。私たちは1週間、他者にどんな愛を実践できるでしょうか。教会はどのようにすれば愛を地域の人に届けることができるでしょうか。
28節、群衆はその教えに非常に驚いたとあります。その教えに心の心が深く揺さぶられたのです。29節、それはいわゆる「学者」と呼ばれる人とは全く違う教えでした。彼らは愛について知識はたくさんあっても、実際に他者への愛を実践することは少なかったのもしれません。しかしイエス様の教えは「聞くだけではなく愛を行動に移そう、そしてその他者への愛こそがあなたを強くするのだ」と教えたのです。
私たちは今日み言葉をききました。この1週間、他者への愛の実践をしましょう。互いに強い土台の上に立ち、歩みましょう。お祈りをします。