みなさん、おはようございます。今日ここに集えたこと、それ自体が神様からの恵みです。感謝して礼拝をしましょう。私たちはこどもの声がする教会です。今日もこどもたちの声と愛を感じながら礼拝をしましょう。
私たちの教会では先週の総会でいくつかの重要な決定をしました。一番大きい決定は、主の晩餐という儀式の変更についてです。初めての方や、これまで主の晩餐に参加されなかった方にも関係のあることです。不安に思う方もいらっしゃるかもしれませんので、しっかりとご説明をしたいと思います。
私たちの教会では75年間、毎月第一日曜日に、主の晩餐という儀式を行ってきました。この儀式は食パンを小さく切り分けて食べ、ぶどうジュースを一口ずつ飲むという儀式です。ただこのパンは普通の食パンですし、ぶどうジュースも市販のものです。おまじないではありません。イエス・キリストを思い出すことを目的に行われています。この主の晩餐はコミュニオンとも呼びます。
今回は、これまで平塚教会では洗礼を受けた人しか食べてはいけないとされていたものを、どなたでも共にこのパンとぶどうジュースをいただけるように変更しました。誰でも参加できるものにすることをオープンコミュニオンと呼びます。数年間、祈りと話し合いを重ねた上で、どなたでもこのパンとぶどうジュースをいただけるように変更しました。ぜひみなさん、この後に配られるパンとぶどうジュースを受け取ってください。もちろん、なんだかよくわからないという方は無理をしなくても結構です。どうぞ、無理をなさらず、見守っていてください。
私たちがなぜこのような儀式を繰り返しているのかをご説明します。聖書の中には、「互いに愛し合いなさい」という言葉に代表されるように、イエス・キリストの愛の教えがあふれています。新約聖書によく登場する言葉(動詞)をカウントすると、もっとも多いのは500回以上登場する「語る」や「持つ」という言葉です。また次に多いのは200回以上登場する「聞く」「信じる」「知る」などの言葉です。つまり聖書に何が書いてあるのかというと、イエスが語り、人々がそれを聞き、信じるという物語が書かれているということです。
そしてもう一つ非常に頻繁に登場する単語があります。実はそれは「食べる」と言う単語です。150回以上登場します。他にもパンや魚などの食べ物の単語も合わせれば食事に関係する言葉はもっとたくさん登場します。聖書にはイエスが語り、人々が信じる、そしてそれが食事の中で行われたと言うことが書いてあるということです。イエスは語り、人々はそれを聞き、信じました。そしてその多くは、食事の場での出来事だったのです。私たちは聖書の言葉を読み、信じます。でもそれだけではなく、イエスが食事の最中・前後にたくさんの愛を教えたということを記憶しておくために、食事を模して小さなパンとぶどうジュースを飲んでいるのです。
もっとも有名な食事の場面は最後の晩餐です。レオナルド・ダ・ヴィンチが絵にしました。イエスは十字架で死ぬ前の、最後の夜に弟子たちと食事をしたのです。その最後の食事の場所で、イエスはこの食事を繰り返しなさいと教えました。愛を忘れないようにしなさいという意味で、食事を繰り返すように伝えたのです。このように食事はイエスの教えと密接に結びついています。私たちはイエスへの信仰を確認するために、主の晩餐が行ってきました。特にこの場所に居たのは、イエスを信じる弟子だったという理解から、主の晩餐をクリスチャンに限定してきました。
ただしご紹介したように、聖書には150回以上の食べるという単語が登場し、様々な食事の場面があります。その食事はイエスを信じて従う弟子たちだけに限定されませんでした。いろいろな人が一緒に食事をしたのです。イエスの食事は、特別な人だけのものではなく、誰でも招かれた、開かれた食事だったのです。あるいは差別をされた人、排除された人を、仲間として招き入れる食事でした。そのような食事だからこそ、温かい交流が生まれ、相互理解と愛が生まれたのです。イエスは分け隔てのない食事によって、互いに愛し合うということを、身をもって教えたのです。
私たちの教会の主の晩餐でも、このような分け隔てのない食事に重点を置きたいと願って変更をしました。私たちの教会は誰でも来ていい教会です。そしてこの教会はこども食堂や炊き出しやカフェなど、たくさんの人が食べに来る教会です。みんなで食べる教会です。私たちは、食べていい人と食べてはいけない人に分かれるのではなく、分け隔てなくパンを食べる教会です。大人でもこどもでもこのパンを食べることを歓迎します。信じているかどうかにかかわらず、このパンを受け取ってくださって大丈夫です。
私たちはここに集った人と共に、ひとかけのパンと、一口のぶどうジュースを口にします。私たちは、そのことによって、多様な私たちが互いに愛し合うということを確認しあいましょう。そのようにしてイエスが食事の場面で教えた様々なことを再現する儀式をもちましょう。今日は聖書に記載される、オープンコミュニオンを見つめ、私たちの主の晩餐の意味を探したいと思います。一緒に聖書を読みましょう。
今日はヨハネによる福音書6章5~14節をお読みいただきました。この個所は、この後、毎月の主の晩餐という儀式でも読まれることになった箇所です。
ある時、イエスに従う人が男だけで5000人いたとあります。多くの人々が人里離れた山の上まで、自分の意志でイエスに従って来ました。しかし5000人もいればそれだけ多様さがあったに違いありません。ただ親についてきた子どももいれば、家族に連れられてなんとなくついてきた人もいたでしょう。5000人は信仰の濃淡や動機が多様な人々の集まりです。
そんな5000人以上が食事の必要な時間になりました。イエスは「ここで一緒に食事をしよう」と考えました。しかし弟子たちは一緒に食べるにはお金が足りないと考えました。そこにひとりのこどもが登場します。彼は持っていた5つのパンと、2匹の魚を差し出したのです。それは小さな愛でした。イエスの教えを聞いたこどもが、今自分にできることは何かを考えて実践した、小さくても精一杯の愛でした。自分の分を確保した後にではなく、自分のすべてを差し出したのです。自分の大切な食事を仲間とイエスの教え通り、愛に基づいて分かち合おうとしたのです。弟子たちはそれを「何の役にも立たないでしょう」と言います。
しかしこの小さな愛に対して、イエスの態度は違いました。このこどもがささげたその気持ちを大切に受け取ったのです。それはほほえましいほどに、小さな愛でした。でも純粋な愛でした。自分は小さいけれど、きっと何かできると信じ、イエスの教えた愛を実践したのです。イエスはそれを受け取りました。そして11節パンを取り、感謝の祈りを唱え、分け与えられました。これは主の晩餐が行われたということです。イエスは神様に食べ物を感謝して祈りました。そしてこのこどもの小さな愛を感謝して祈りました。
そして小さな愛をきっかけに奇跡が起こります。その小さな愛は全員が満腹して余りあるほどの大きな奇跡につながっていったのです。
私たちも今日、小さなパンを食べます。私たちはこの出来事を記憶し、再現するためにパンを食べます。イエスがこのことから教えておられることは、小さな愛が、思いもよらぬ大きな奇跡を生むのということです。何の役にも立たないと思えるような、小さな愛が大きな出来事のはじまりとなるということです。
私たちの日常ではたくさんの問題があるでしょう。大きな問題に対して、自分は小さすぎる存在です。私が小さな行動を起こしたとしても、何の変化も期待できないでしょう。私は何の役にも立たないでしょう。
しかしこの個所から、大きな問題にあっても、私たちはあきらめずに小さな愛を実践しようと教わります。小さなこどもがパンと魚をもってイエスの前に進んでいったように、私たちも小さな愛を実践しましょう。今日、私たちはそのことを忘れないために、パンを食べましょう。
私たちはこの奇跡の食事が温かい交流の食事だったことも想像します。イエスはお腹を満たすためだけに食べ物があるのではないことを教えています。イエスは人々を座らせたとあります。イエスは腰を据えて向き合わせたのです。ただパンを食べたのではありません。お互いに顔と顔を合わせて食事をしたのです。イエスがすべての人を排除しない人だったことも大事でしょう。5000人は選抜された、選ばれた5000人ではありませんでした。彼らは自由希望性であつまった5000人です。従いたい人、聞きたい人、招かれた人が集まりました。私たちの教会も同じです。
まだまだ食事の場面はたくさんあり1回ではご紹介できません。でも食事の場面でイエスが愛を教えたことを記憶する、そのためにこの食事を行います。ぜひ共に預かりましょう。
神様は私たちの小さな愛を用いて大きなことをなしてくださるお方です。神様が働いて奇跡をおこしてくださいます。私たちも小さな愛を実践しましょう。そして私たちの世界はこどもたちから変わります。こどもの声が私たちを変えてゆくのです。小さな愛が、思いもよらぬ大きな奇跡を生むのです。私たちもこの子どものように、小さな愛を誰かに届けていきましょう。お祈りします。