みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること、主に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。今日もこどもたちの息吹を感じながら礼拝をしましょう。
今日の礼拝は創立記念感謝礼拝として持たれます。私たちの教会は75年目を迎えてゆきますが、それは誰かの功績ではなく、神様の導きがあったからこそだと信じています。創立と導きを神様に感謝してこの礼拝をお献げしましょう。
今月は地域と教会について考えています。75年目の今、私たちの教会でもっとも広がりのある活動は、こども食堂です。こども食堂には小さい赤ちゃんを抱っこしたご両親が良く来ます。先日は3人の子育てをしているお母さんが食堂に来ました。そのうち二人は双子の赤ちゃんで、右肩に1人を背負い、左肩に1人背負い、そして一人のお兄ちゃんと手をつないで来ていました。双子の赤ちゃんを気にしながら、お兄ちゃんに食事を食べさせていました。それが終わると、ようやく自分の分を食べることができますが、料理は少し冷めてしまっていたようです。子育てに必死な姿が胸を打ちました。別の家族はパパが左手で赤ちゃんを抱えながら、右手で箸を持って食べていました。本当にそのような方たちを見ると、応援したいなという気持ちになります。
私はこども食堂にくる赤ちゃんをなるべく抱っこさせてもらうようにしています。かわいいというだけではなく、安心してゆっくり食べて欲しいからです。赤ちゃんを抱っこしながら、みんなが家で毎日の食事をどうしているのかを想像します。こどもの食事をどうするかは親にとって大きな重荷であり、責任です。
昔よりも子育ての負担は大きくなっています。昔と違って、預けられるおじいちゃんやおばあちゃんと同居しているわけではありません。両親も共働きで忙しく過ごす家庭も多いです。こどもの安全への気配りや、様々な配慮など時間もお金もかかります。子どもの数は減り、子育ては孤立しやすくなっています。反対に世間では、子どもへの寛容さが失われ、子育てはこうあるべきだと押し付けて、親の無責任を指摘する情報があふれかえっています。
教会は少しでも子育ての重荷と負担を分かち合うことはできないでしょうか。もちろん子育てそのものを変わってあげることはできないけれど、1食だけでも応援し、苦労を分かち合えたらと思います。
多くの方が子育てに責任感を持ち、頑張っています。でも子育ては一人ではできないことです。こども食堂は、誰かに手伝ってもらえる、ほっとできる場所です。毎日の食事作りを休むことができる場所、そんな安心できる場所になっています。
もし教会を出る時に、お腹いっぱいになって「すこし元気をもらえた」「私は応援されている」「また明日から頑張ろう」と思ってもらえたのなら、私たちの愛、神様の愛は確かに地域の人に伝わったのではないでしょうか。
私たちの教会はそんな風に地域を応援する教会、一人一人が抱える重荷が少しでも軽く感じられるような教会、ホッとできる教会になりたいと思います。そしてこれまでの75年間もそうだったのだと思います。子育てに限らず、私たちは重荷を負う人々を応援する教会です。
今日も聖書からイエスが重荷を負う人にどのように言葉をかけたのかを見てゆきます。そしてそこから私たちの教会がこの地域にどのように立っているのかを考えてゆきたいと思います。聖書を読みましょう。
今日はマタイによる福音書11章28~30節までをお読みいただきました。この聖書の言葉は、多くの教会が看板に掲げている聖句でもあります。私たちの教会案内の冊子の表紙にも書かれているみ言葉です。でも私は今回、改めてこの聖書の言葉の意味に自分が向き合っていなかったことに気付かされています。この言葉について少し一緒に考えましょう。
28節には「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい」とあります。「わたしのもとに」とは、文法上は深い意味を持つ表現で「私と親密な関係のもとに」という意味があります。ただ来なさいというのではなく、イエスとの深い関係への招きです。
その後には「休ませてあげよう」とありますが、この言葉も元々は「休ませる」という意味にとどまらず「安心させよう」「元気づけよう」という意味があります。イエスは28節で、私との関係の中においで、そうすれば安心して休むことができる、そして元気がもらえるよと言っているのです。
29節を見ましょう。イエスは「私の軛(くびき)を負いなさい」と言っています。「軛」という言葉、今ではあまり聞きませんが、昔の農業ではとても重要な道具でした。軛とは畑を耕したり、荷物の運んだりするために、牛や馬の首につける木のことです。動物に軛を着け、さらにその軛に畑を耕す道具や台車を着け、動物に仕事をさせるのです。動物にとっては重荷であり、つらい仕事です。そのことから軛は、不自由さの象徴や、重い責任を担うことの象徴になりました。
軛とは言わないまでも、私たちの生活にも不自由さや、重い責任があるものです。その意味において私たちも軛を負うものなのでしょう。私たちは仕事、体調、家庭、自分の役割などについて、どうにか変えたいと思っても、なかなか変えることができない不自由さの中に生きています。私たちはもうやめたいと思ってもやめることのできない責任の中に生きています。私たちはその軛を外して、すべて自由に、一人で気楽に生きることはできないのです。私たちもこのように軛を負っているのです。
軛にはよい軛と悪い軛があります。よい軛とは体の力の入りどころとしっかりとかみ合っている軛です。ぐっと体全体の力が入るのが、よい軛です。しかし悪い軛もあります。悪い軛はそれをはめると、ささくれがチクチクしたり、同じところばかりあたって痛かったり、なぜだか力が入らない軛です。私たちも経験があるでしょう。鞄の肩紐の幅が広いとで重さの感じ方が違う様な経験です。
おそらく私たちのつけている軛は、悪い軛なのでしょう。私たちの背負っているものは、「自分ひとりで何とかしなきゃ」と思わせる、悪い軛なのかもしれません。それはやる気がでない軛で、孤独に感じる軛、重荷に立ち向かうことができない軛です。私たちは痛くて我慢しながらも、その重荷をなんとか引っ張る、そんな生活をしています。
イエスはそのような人間に言っています「私の軛を負いなさい」。「私の軛を負う」とは、私たちが今はめている軛をイエスの軛、良い軛へと変えるということです。
イエスは残念ながら、私たちを軛から解放し、一切の重荷をなくしてくれるのではありません。私たちの責任と重圧が無かったことにしてくれるのではありません。私たちはそのようにして責任から逃れることができないのです。
ここでイエスが私たちに勧めているのは、軛を変える事です。私たちは重荷をなお引き続けなければならないのですが、良い軛に変えると、重荷を引くことが簡単になるのです。よい軛は体全体の力が入って、ひきやすくなります。やってみようという気持ちにさせてくれます。そのようにしてよい軛は同じ重荷でもより軽く引ける、より簡単に引けると思わせるのです。
私達にとって良い軛とは何を指し示すでしょうか?それは愛とも言い換えることができるでしょう。良い軛とは愛に囲まれていることです。それは愛の軛です。愛の軛とは、これを一人でするのではない、誰かが応援してくれる、誰かが一緒にやってくる、私は孤独ではないと思える力です。愛の軛とはみんなが私を応援してくれている、祈ってくれている、神様が共にいる、そのように感じることができる軛です。愛に包まれた重荷は、軽く感じられます。それが30節に書いてある「私の軛は負いやすく、私の荷は軽い」ということです。
反対に私たちのつけている軛は、ちゃんとできていないと批判されてる、誰にも手伝ってもらえない、孤独、そのような軛です。そのような軛で引く荷物は実物以上にとても重く感じるものです。
今日、イエスが語っているのは、こういうことです。自分の重荷が思いと思っている人は私のもとに来てごらん。愛に囲まれて生きると、休みと元気が与えられるよ。そうすると力が湧いて、ぐっと楽に生きることができるようになるよということです。イエスはそのように、愛の中に生きる様に招いているのです。
この言葉が多くの教会の招きの言葉になっています。私たちもこの教会を愛の軛となる、教会にしたいと思っています。地域の人によい軛、愛の軛を渡す教会になりたいと思います。
私たちの教会は地域に人々それぞれに重荷があることを知り、教会が一人一人を愛で包み込むことで、すこしその重荷が引きやすく、軽く感じるような場所になりたいと願っています。そのように地域の人を応援し、地域の人を愛で包む教会になってゆきたいと願っています。
私たちは子育てそのものを代わることはできないかもしれません。でもあなたは孤独ではないこと、一人ではないこと、あなたは応援されていること、あなたは愛されていることを伝えることはできます。教会はその愛を伝え、表し続けましょう。私たちはそのように地域を応援し、愛し、休ませ、元気づけ、前に進ませる教会となりましょう。
地域には、そしてここに集うみなさん一人一人にはどんな重荷があるのでしょうか。私たちは互いに愛し合い、互いに応援し合い、互いに休ませあいましょう。そして互いの軛を愛の軛に変えてゆきましょう。私たちとそして地域の人が、この教会を通じて、その軛を愛の軛に変えることができるように祈っています。お祈りいたします。