みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できることを神様に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。一緒にこどもたちの声を聞きながら礼拝をしましょう。また今日は6月23日の沖縄慰霊の日「命どぅ宝の日」にも近い事も覚えつつ「チムグリサ」心からの共感ということをテーマにお話をしようと思います。
松本みどりさんの証しを聞きました。みなさんにも心に残る言葉があったのではないでしょうか?私は神様が様々な場面を通じて、一人一人に働き導いてくださることを改めて感じました。私たちの信仰は熱心だったり、そうできなかったりする時期があるものです。しかし、それでも神様の愛と導きは豊かに注がれ続けているのだと感じました。
私は今、東京バプテスト神学校でギリシャ語を教えていて、松本さんと共に学んでいます。新約聖書はもともとギリシャ語で書かれ、私たちが日々読んでいるのは日本語に翻訳された聖書です。そう聞くと「すでに翻訳されたものがあるのならば、ギリシャ語をわざわざ学ばなくてもいいのではないか?」と思う方もいるでしょう。しかしギリシャ語を学ぶということは、イエスの一つひとつの言葉や行動の意味に、より深く心を寄せることにつながっています。翻訳だけでは届かない響きに出会うための学びです。なぜ私たちがギリシャ語を学ぶのか?実はそのヒントを、私のまわりの外国人の友人たちが教えてくれます。彼らに「どうして日本語を勉強しようと思ったの?」と聞くと、多くの人が「日本のマンガが好きだから、日本語で読みたいんです」と答えるのです。マンガの内容は翻訳でも十分に伝わり、楽しむことができます。でも、日本語で読むことができれば、より深い意味や空気感まで味わうことができるのです。聖書も同じでしょう。ギリシャ語を学ぶことで、イエスの言葉や、当時の人たちの思いが、より生き生きと感じることができるのです。だから私はギリシャ語を学ぶ価値があると思っています。
神学校というと「牧師になるための学校」というイメージを持っている方も多いかもしれません。しかし少しずつそのイメージは変わってきています。聖書に興味のある人が、誰でも聖書や信仰について深く学ぶことができる、自由な学びの場になってきています。
学ぶということが、いのちを守ることにつながるということも、日本の歴史は教えてくれます。第二次世界大戦で、沖縄は本土決戦のための時間稼ぎとして、捨て石とされ、犠牲を強いられました。沖縄の多くの人は、アメリカ兵に捕まるのは恥だ、死んだ方が美しいと教えられ、自決・集団強制死を選ばされたのです。その組織的戦闘が終わったのが6月23日です。沖縄の人は洞窟(ガマ)に逃げ込みました。あるガマではこんなことがありました。そのガマの中でも集団自決を選ぼうという声がありました。しかしそのガマの中にはアメリカに留学し、その国の言葉と文化を学んだ人がいました。その人はアメリカ人はそんな悪い人ではないとガマの人を説得し、自決を思いとどまらせたのです。言葉と文化を学ぶことが、人の命を守った瞬間でした。言葉と文化を学ぶこと、それは相互理解、平和、共存共栄に欠かせない事なのです。たくさんの人が学ぶことの大切さを感じる出来事です。
今日はギリシャ語にも注意しながら、聖書の物語を読んで行きたいと思います。そして人の心の叫びに耳を傾けることの大切さを、この個所から一緒に感じてゆきましょう。
今日はマタイによる福音書20章29~34節をお読みいただきました。今日の物語には、目の見えない二人が登場します。聖書には二人が道端に座って待っていたとだけ書かれていますが、きっと彼らには長い苦しみと孤独の人生があったのではないでしょうか。彼らの姿からは、社会で生きづらさを感じる人たちの痛みがにじんでいます。
古代において障がいは差別と切り離すことができませんでした。彼らは汚れた者として、自分の居場所を道端にしか見つけることができなかったのかもしれません。イエスの話を聞いた彼らは自分たちもイエスに何かを願おうと考えました。彼らは思い悩んで一つの言葉を選びました。それは「主よ、ダビデの子よ、私たちを憐れんでください」という言葉でした。
彼らが叫ぶのに選んだ言葉、彼らがイエスに一番初めにしてほしい、具体的な行動は「憐れむ」ということでした。これはとても意味のある叫びです。ギリシャ語で「憐れむ」は「エレエオー」という言葉で、それは「同情してください」「気持ちをわかってください」という願いが込められた言葉です。彼らは「治して欲しい」ということよりも、まず「わたしたちの人生の痛みを、わかってほしい」と訴えていたのです。しかし31節、群衆はその声を黙らせようとしました。叫びを聞いて、共に涙を流すのではなく「うるさい」「黙れ」と声をかき消したのです。
その様子を見て、イエスはどう思ったでしょうか。必死に気持ちをわかってほしいと叫ぶ人が、抑えつけられています。イエスの心にも、きっと痛みが走ったことでしょう。そのような周囲の人々を「社会」と言い換えてもいいかもしれません。それは弱い立場の人の声に耳を傾けない社会の象徴です。二人はそれに何度、傷つけられてきたことでしょうか。イエスはこの様子を見てどう思ったでしょうか。必死に「私の気持ちをわかって欲しい」そう叫ぶ人々が、叱られて、黙らせられようとしています。イエスは情けない気持ち、悲しい思いになったでしょう。イエスはそこで足を止めました。そして「何がして欲しいのか」をもう一度聞き取ろうとします。彼らは今度はイエスに「目が見えるようになりたい」と言います。「目が見える様になりたい」それは今までの彼らの人生の苦労が凝縮された言葉でしょう。
イエスは彼らに近づき「深く憐れんだ」とあります。再び「憐れむ」という言葉が登場しますが、このとき使われている「深く憐れむ」というギリシャ語は「スプラグニゾマイ」という言葉です。ギリシャ語のスプラグニゾマイは新共同訳で「深く憐れむ」と翻訳されていますが、この言葉はもともと内臓に関係する言葉です。さらにスプラグニゾマイの言葉の背景には母胎・母のお腹の中という意味もあります。スプラグニゾマイとはつまり、自分の体の中の出来事、自分のお腹の中にいる赤ちゃんに起きたの出来事のように、自分事として深く共感し、その痛み、悲しみを感じるという意味がある言葉です。
スプラグニゾマイの翻訳にふさわしいと思う日本語は、沖縄の言葉(ウチナーグチ)でチムグリサという言葉です。沖縄の言葉(ウチナーグチ)には「私は悲しい」という意味の言葉がないと聞きます。その代わりのあるのがチムグリサという言葉です。チムグリサは「あなたが悲しいと、わたしも悲しい」という意味です。ただ自分から見て、かわいそうだと思うだけではなく、それを自分の事として、自分の内側の悲しみとして共感し、受け止めるということです。沖縄の言葉のチムグリサという言葉はまさにギリシャ語のスプラグニゾマイと共通していると言えるでしょう。
イエスはここで目の見えない二人にスプラグニゾマイしました。イエスはここで二人にチムグリサしたのです。イエスは目の見えない人の叫びを聞き、様々な不自由と痛み、差別を想像しました。そしてその痛みを自分の内側の痛みとして感じたのです。「私たちの悲しみをわかって欲しい」と叫ぶ人たちを前にして、「ああ、あの人はかわいそうだ」と思っただけにとどまらなかったのです。イエスはその悲しみを受け止め、自分のことのように共感し、どうにかしたいと突き動かされていったのです。
そしてイエスはその目に手をかざしました。多くの人が目の見えない人に触れることを汚れると言ってためらったでしょう。目の見えない人は隅に追いやられ、黙らされていました。しかしイエスだけはその人にスプラグニゾマイし、手を置き、その回復を祈ったのです。すると、その人の目は見えるようになったと伝えられています。そして短く、イエスに従ったと書いてあります。彼らはイエスに受け止められ、イエスに癒され、イエスに従ったのです。
今日の個所からどんな生き方を見つけてゆけば良いでしょうか?私はこの個所から自分が悲しみを叫ぶ人の声を聞くことができているかを問われます。私たちは道端にしか居場所がない人を生み出してはいないでしょうか。私たちは傷つき、隅へ追いやられる人々の声を聞くことができているでしょうか?私たちはその声を聞き、スプラグニゾマイし、チムグリサし、共に生きることができているでしょうか?
私たちはその声を聞いて、どうやってスプラグニゾマイすることが出来るでしょうか。それぞれの生活で、それぞれが通る道端でどのようにチムグリサできるでしょうか。かわいそう、気持ちをわかってあげようを超えて、深く共感し、行動を起こせるでしょうか。あるいは私たちは沖縄の声を聞き、そこにスプラグニゾマイできているでしょうか。あの戦争は周囲の声に耳を貸さず、アジアや沖縄に一切のスプラグニゾマイをすることなく始められた戦争でした。私たちはあの時チムグリサが足りなかったのです。
私たちは世界の紛争に、他者の困難にスプラグニゾマイできるのでしょうか。この平塚の地域にどのようにチムグリサできるのでしょうか。神様はこの二人のように私たちの声を聞き、深く共感し、導き、癒してくださる恵み深いお方です。私たちもこのイエスに従ってゆきましょう。お祈りします。