【全文】「地域の良さを引き出す教会」マタイによる福音書5章13~16節

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること、主に感謝します。私たちは「こどもの声がする教会」です。今日も聞こえてくる子どもたちの声と共に礼拝をしましょう。

 

今月、私たちは地域と教会のつながりについて、じっくり考えています。特に今私たちの教会が力を入れているのは、こひつじ食堂というこども食堂の活動です。こどもたちを中心に、おいしい食事を1食200円で提供しています。この活動は教会員の方だけではなく、地域の様々な方がボランティアとして加わって下さっています。

 

昨年度は40名以上の地域の方が、ボランティアをしたいと教会に応募をしてくださいました。ボランティアに応募するということはとても勇気のいることだと思いませんか?「何かしてみたいな」と思っている人は、たくさんいても、実際に活動している場所に自分から連絡をして、飛び込むのには大きな勇気が必要です。

 

ボランティアに応募する方の多くは「ずっとやってみたかったけれど、今まで勇気がでなくて」とか「やってみたかったけど近くそういう場所がなくて」「こんな自分に何かできるでしょうか」とおっしゃいます。私はそんな不安を感じながらも勇気を出して、教会に連絡をくださった方の話を聞いています。

 

ボランティアに応募された方たちの気持ちを聞いて「もし教会のボランティアが無かったら、この方たちの『何かをしたい』と思う気持ちはどうなってしまったのだろう?」と想像します。

 

きっと私たちの教会が、地域に向けてボランティアを募集するということは、地域の中に眠っていた、小さな勇気や思いやりを引き出すことにつながっています。

 

教会は地域の中に、もともとあった良いもの、それを引き出しています。教会という存在は、「誰かのために何かをしたい」という気持ちに、火を灯してゆく場所でもあるのです。

 

実際のボランティアさんの働きを見ていて感じることもあります。ボランティアにはいろいろな仕事があります。受付でお金を受け取ったり、お弁当を渡したり、料理を運んだり、調理をしたり、片づけをします。

 

ある方はとにかく黙々と作業をするのが好きです。あれこれ頼むよりも一つのことを頼む方が力を発揮するタイプの方です。反対に、いろいろやりたいタイプの方もいます。

 

それぞれの得意や楽しみ方が違うのですが。みんなの得意や苦手、個性がまるでパズルのようにぴったりはまりながらチームになって活動しています。ボランティアの最中も互いの良さを自然と引き出しあっているのです。

 

新しい人も増えていますが、ベテランの方も増えてきています。ベテランの方には、自分のペースで仕事を進めてしまうのではなく、初めての人や経験が少ない人が活躍できるように、慣れていない人に教えながら、進めて下さいとお願いをしています。

 

自分の場所はここだと決めてしまうのではなく、いろいろな役割に挑戦してみて欲しいとお願いしています。それは私が活躍できる場所、私がやりたいことができる場所にとどまらず、もっとお互いの良さが引き出しあえるような場所に発展してゆきたいからです。

 

教会のボランティアはそのように、誰かのために働きたいという気持ちを引き出す場所になっています。そしてそれぞれの持つ良さを引き出すことができる場所になっています。食堂のボランティアという場所がもっと互いの良さを引き出し合える場所になって欲しいと思っています。

 

今日集っている方たちは、ボランティアに参加していないという方も多くいます。でも教会がそのように用いられていることを知って欲しいと思います。私たちのこの会堂はただこの礼拝のためだけに使われているのではありません。様々な方法に使われて、一人一人の良さが引き出されていく場所として使われています。

 

そしてここにいるみなさんがこの教会、この会堂を支えてくださっています。みなさんの祈りが無ければ、これは実現していないことなのです。

 

今日は聖書を通して「人の中にある良さを引き出す」ということを、ご一緒に考えてみたいと思います。特に教会が地域の良さを引き出す役割があることを見てゆきたいと思います。聖書を読みましょう。

今日はマタイによる福音書5章13~16節までをお読みいただきました。

 

地の塩という言葉が出てきますが、塩について考えてみたいと思います。塩は古代のイスラエルの人々にとってとても身近なもので、質素な食事でも必ず使われた調味料です。聖書にも塩が繰り返し登場します。今日の招きの詞でもレビ記2章13節に、献げ物には塩を振るようにと書いてあります。

 

塩にはいろいろな役割がありますが、一番の役割は、食材そのもの味を引き出すという役割でしょう。塩を振りかけると、それぞれの食材が本来持っている味を引き出すことができるのです。

 

魚に振ると味が引き締まり、魚の味を濃く感じることができます。またお肉に振れば肉汁が逃げずにジューシーに焼き上がります。お菓子にも使われます。不思議な使い方はスイカに塩を振ると甘みが増すことでしょうか。塩の入ったアイスもあります。塩は食材のおいしさを引き出すために必要不可欠なものです。

 

塩は保存料にも使われます。塩をたくさん使うと、干物や漬物などのように、保存食になります。塩はよい物を保ち続ける効果もあります。塩はそのようにして食材本来の味を引き出し、保つ、私たちにとってもっとも身近で大事な調味料です。でも塩だけを食べてもおいしくないという一面もあります。それが塩です。

 

13節でイエスは私たちに言います「あなたがたは地の塩である」。イエスが言う、塩になるとはどんな意味でしょうか。イエスのたとえはいつも生活に根差したものでした。そして繰り返し食事の席で大切な教えを伝えました。塩もきっと、複雑な意味ではありません。

 

イエスの「あなた方は塩である」とはあなたがたは相手の良さを引き出すものだという意味です。しかもそれは、地の塩です。イエスは私たちに、地域の中にある良いものを引き出すものになりなさいと語られました。地域の人が持っているたくさんの力、気持ち、勇気、それを引き出してゆくのが私たち教会の役割なのです。

 

13節には「塩から塩気がなくなる」ということが書いてありますが、塩から塩気がなくなることは実際にはありません。しかし塩が塩でなくなってしまうことは、それ以上に重要な問題があります。それは塩を使っていた食材の良さを引き出すことができなくなってしまうということです。塩が無ければ肉も魚も野菜も、ちっともおいしくなくなってしまうのです。そのものの良さを引きだす存在がなくなってしまうのです。食材そのものの良さを引き出し続けるためには、塩が必要なのです。

 

私たちはイエスから、そのような塩だ、塩となれと言われています。イエスは私たちに塩の様に、相手の良さを引き出してゆくことを求めているのです。

 

私たちは、もしかしたらただのひとつまみの塩かもしれません。でもひとつまみでいいのです。塩は、誰かと一緒になるとき、相手に大きな力を発揮させるのです。

 

13節についてもっと想像力を膨らませましょう。13節の後半には、役にも立たないと言われ、外に投げ出され、人々に踏みつけにされるという言葉があります。これはただのたとえではなく、古代では実際にそのような人がたくさんいたのでしょう。

 

そして現代にもそのような人がいるでしょう。地域の多くの方が自分は何かの役に立つだろうかと不安に思っています。外に投げ出されたように、居場所がなくて心細く感じている人もいます。地域の多くの方が人に踏みつけにされるのではなく、誰かに大切にされる経験に飢えています。13節はまさにそのような人たちを想像させます。

 

きっと私たちの地域と同じ様に、イエスの生きた地域にもそのような人がたくさんいました。ひとりひとりが良さを持っているのに、それを引き出せずにいたのです。引き出す場所が足りなかったのです。

 

イエスは弟子たちにきっとこんな思いをもって言葉をかけたでしょう。「地域には、自分は役に立たないと思っている人、居場所のない人、大切にされていない人がたくさんいる。でもこんなにたくさんの良いものを持った人がいるのだから、あなたがたはその人たちの良さを引き出すものとなりなさい。あなた方は地の塩となりなさい」

 

14節には「あなたがたは世の光である」とあります。私はこの言葉から、地域の方たちがボランティアとして輝く姿を想像します。そのように働く姿は、世の光となっています。その姿が人々の前で光輝いています。教会は地域の人々が輝くことができる場所です。

 

16節に書いてある通りです。いつか人々が私たちの行いを見て、天の父をあがめるようになるでしょう。私たちが行う地の塩、世の光の活動は直接キリスト教を伝えているわけではありません。しかし多くのボランティアさんの輝きによって、キリストのすばらしさが伝わってゆくでしょう。私たちが互いの良さを引き出し合うことが、この世で、この地域で互いが光になり、神を崇める信仰へとつながってゆくのです。

 

私たちの教会はそのようにして、地の塩になり、世の光となります。教会は地域の中にあるたくさんの「可能性」や「思いやり」を引き出てゆきます。そして輝く笑顔を引き出しています。

 

きっとイエスは、そのように、あなたは塩になって、他の人々を大いに輝かせなさいと言っているのです。私たちはこれからもこの活動を続けてゆきましょう。そしてそれぞれの場所で地の塩となってゆきましょう。

 

お祈りします。