【全文】「命を創造する神」創世記1章1~31節

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること、神様に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。今日もこどもの声、命の喜びに囲まれながら礼拝をしましょう。

 

7月は今日から3回、創世記を見てゆきたいと思います。

 

また今日はこの後、主の晩餐という儀式を行います。小さな食パンと一口のブドウジュースを飲むという儀式です。私たちの教会ではどなたでも食べ、飲むことができますので、ぜひこの後加わってください。

 

お手元のラミネートの資料には、この儀式の目的が書いてあります。今日は特に3つ目の目的の中の「神様の創造に感謝して」の主の晩餐を食べるということ、「神様の創造」ということについて考えたいと思います。

 

お手元のラミネートには、私たちの教会の信仰の告白・信仰の説明文も記載しています。「1.聖書」の欄にはこう書いてあります。「聖書は、神の霊感を受けて書かれ、イエス・キリストによるすべての人間の救いを啓示するものであり、私たちの信仰生活の唯一の規範である」。

 

聖書は人間の救いと人間の生活の規範について書かれたものだということが書いてあります。言い換えるならば、聖書は命の意味や生き方を私たちに教えてくれるものだということです。私たちは命の規範としてこの聖書を読みます。私たちの日々の生活のなかで、どのように人間の命と向き合えば良いかをその唯一の規範を聖書に聞いてゆくのです。

 

世界には聖書の記述を戦争の根拠とする人がいます。イスラエルがそうです。私たちは戦争の根拠ではなく、平和と命、生き方の道しるべとして聖書を読んでゆきます。

 

聖書は人間の歴史をそのまま記録したものではありません。また科学の論文でもありません。聖書にはどの土地はどの民族のものだという、国境線は書いてありません。本当に6日間で地球が創られたということではありません。聖書は、人間の命がどのようなものであるか、私たちが命にどう向き合うべきかを語っている書物です。

 

今日、私たちは聖書から命の尊さ、創造への感謝を受け取ってゆきましょう。

今日は創世記1章全体をお読みいただきました。創世記は今から2500年ほど前、それまでにあった様々な伝承がまとめられて成立したと言われています。

 

聖書は人間が考えて書いたのではありません。神様の働きかけを受けて書かれたものです。2500年前に神様の働きかけがあって、創世記という書が生まれました。

 

2500年前、当時の人々は他国に侵略をされ、戦争に敗れていました。彼らの命は軽んじられ、踏みにじられ、住んでいた場所からも強制移住させられてしまったのです。自分たちの命が軽んじられるのを目の当たりにしました。そのような中で人々は、神が命についてどのように考えているのか、神様の力を受けて、伝承を文字にしてゆきました。私たちは命についてどのように聖書が語っているのかを見てゆきましょう。

 

27節を見ます。27節には神様は人間を創造したとあります。命の創造、これが聖書の神の役割です。世界には様々な神がいますが多くの神は、戦争と争い、破壊の神です。しかし聖書の神は愛の神、平和の神、新しい命を創造する神です。戦争で踏みにじられた人々に示された神は、そのような命を創造する神だったのです。これが聖書の命に対する考え方へとつながってゆきます。

 

人が人の命を作ったのではありません。神様が人間の命を創ったのです。命は人間が生み出したものではなく、神様の手から与えられた贈り物です。私たち人間は様々なものを作りますが、それは命ではありません。神様が創った命を、人間が作ったモノと同じ様に考えて、壊したり、奪ったり、売り飛ばしてはならないのです。聖書ははっきりと命は神様が創ったものだと言っています。

 

そして27節には、神様は人間をご自分にかたどって創られたとあります。なぜかその後、もう一度繰り返されています。かたどるとは、そっくりなもの、似た姿のものとして創るという意味です。人間は神の似姿に、そっくりに創られたのです。そこには人間の命を神様のように大切にして欲しいという神の願いが込められています。

 

戦争は最も人の命を大切にしない行為です。戦争は、王様に命令された兵隊が、王様の私利私欲のために、王様の権力を守るために戦います。兵隊の命は、王様を守るために使われ、大切にされません。

 

古代では、王様だけが神の子とされました。エジプトのファラオやローマ皇帝がそうです。王たちは、私だけが神の子だと言いました。そこにある考え方は、王様のみが神の似姿だ、王様だけが尊い特別な存在だ、王以外の命は動物と同じだという考え方です。王や皇帝は、自分以外の人間を人間とせず、兵隊や奴隷としました。

 

聖書に記されている命は違います。聖書によれば、すべてのはじまりとなった人の命が、神にかたどって創られたものです。つまり一人一人の命が、全員の命が神の似姿であるということです。大切なのは王様の命だけではありません。全員の命が神様に創造されており、大切にされなければならないのです。

 

命が大切であることと同時に、命が平等であることもここに記されています。27節には「男と女に創造された」とあります。これは命の平等さを示す言葉です。古代は激しい男性中心社会でした。聖書にも男だけが描かれる場面が多くあります。女性やこどもは男性の財産、所有物として扱われました。しかし、聖書は古代から、女性は男性の所有物ではないと言っています。神様が直接創った尊い存在だと言っています。他の性と平等な命だと言っています。男も女も、神様からかたどって等しく創られたのです

 

神様がその似姿として男と女を創ったということは興味深いことです。もし神様が男だったら、似姿に創った人間は男だけだったはずです。神様はご自身の似姿として、男性も女性も創られました。つまり神様は男だったとは限らないということです。男と女どちらも、神様の似姿だったのです。だから女性もまた、神様のかたちを映す存在なのです。神様は男でもあり、女でもある、あるいは男女2つのどちらかの性に縛られない存在だったとも言えるでしょう。

 

ここからLGBT、性的マイノリティーの人々も神様の創造の作品とも言えるでしょう。神様はすべての性を創ったお方です。

 

神様の似姿として創られたのに、二人の全く違う人間が創造されたということは興味深いことです。神様は金型を作って、工場のように、同じ人間を大量生産したのではありませんでした。

 

神様は一人一人、愛情をこめて異なる人間を創造しました。そこでは自分にかたどって、自分の似姿として創造したにも関わらず、まったく異なる者が創造されていったのです。

 

私たちには性の違い、肌の違いや目や髪の毛の色の違いもあります。私たちはこんなに見た目が違うのに、それぞれ同じ神様の似姿なのです。そして見た目、外形だけとどまりません。私たちの外側も中身もさまざまな違いがありますが、全員、神様にかたどって生まれた者です。私たちはこんなにも違うのに、しかし全員神様に似ているのです。神さまとはいったいどのような方なのでしょうか。きっとあらゆる人間の特徴を包含する包容力のある方なのでしょう。

 

28節には「神は彼らを祝福して言われた」とあります。ここまででも神様は様々なものを創造した後には必ず「良しとされた」と書いてあります。それはご自分が創ったものを素晴らしいと満足したということです。

 

しかしこの29節ではさらに、特別な言葉をかけています。それは「祝福した」という言葉です。神様はここだけ祝福をしています。神様はさまざまなものを創りながらも、人間だけに「祝福」を与えたのです。

 

祝福とは特別な祈りのことです。神様は人間に向けて、を他に創造されたものとは違う、特別な祈りを向けたのです。それは人間はモノや動物とは違うという宣言です。私たち人間はは神様の特別な祈りに包まれ、その中で生かされている存在なのです。

 

神様は人間を祝福して「産めよ、増えよ、地に満ちよ」と言いました。私はここからたくさんのこどもたち、赤ちゃんたちの顔を連想します。新しい命はそのように神様から祝福を受けている命です。その命は、神様の特別な祈りに包まれ、愛されている命なのです。私たちは全員そのように神様に祝福されて生まれてきたのです。

 

命の誕生は神様の何よりの喜びでしょう。神様に喜ばれずに生まれて来る命はありません。生まれてきた人間の命は無条件に、神様から特別に祈られています。人間として生まれてきたものは全て神様に祝福されているのです。

 

このようにして私たちの命は創造されました。私たちは神に創造された大切な命をもっています。私たちは違いがありながらも神様の似姿に創造された大切な命です。私たちは全員、神様に喜ばれて生まれてきた命です。

 

私は今、こどもたちの命を、お互いの命を思い浮かべながら、神様に感謝したいと思います。

 

29節には神様が創造したものが食べ物になったとあります。神様は命と食べ物を私達に与えてくださっています。このことも感謝をします。

 

聖書はこのように命について語っています。命は神様が創造しました。一つずつ違うものとして、でも同じ似姿として創られました。神様はすべての命を特別に喜んでいるのです。

 

私たちはこの後、主の晩餐を持ちます。これにはいくつかの目的があります。その3つ目には「この主の晩餐は神様の創造と食べ物の収穫に感謝するために行われます」と書かれています。今日、神様から頂いた命、互いの命に感謝をして、主の晩餐をご一緒しましょう。お祈りいたします。