みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること、神様に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。今日もこどもたちの命の声を聴きながら礼拝をしましょう。
今月は創世記を読んでいます。私たちにはいろいろな人間関係があります。人の多い場所に行くと疲れることがあります。一人でいる方が気楽だと感じることも多くあるでしょう。おひとりさま需要と言われるように、なんでも一人できる時代になりました。一人で旅行する、ひとりでカラオケする、ソロキャンプなどです。ひとりで自由に過ごす時間が大切にされています。とても大切なことです。自分の時間とペースを大切にすることも今の時代には必要なことです。
一人の時間が増える一方で「孤立」も問題になってきています。こども食堂には一人暮らし世帯の高齢者が誰かに関わりたいと思って、教会の前に並びます。こどもも少なくなり、子育て世代の孤立の問題もあります。地域のつながりだった町内会も力が弱くなってきました。私も平日ずっと、大きな教会に独りでいると孤独を感じるときがあります。
孤立や寂しさの問題は私たちの周りの様々な場面で起きています。一人の時間は大事です。ただし私たちはときどき、一人でいることに寂しさを感じるもの事実です。今日は私たちが「一人」と「共に」との間でどのように生きるべきなのかを考えたいと思います。
創世記2章18~25節までをお読みいただきました。創世記は神様はどんな方なのか、また私たちの人間はどのような存在なのか、その始まりを描くことで伝えようとしています。
先週は神様は命を創造するということを見ました。神様は人間の命を尊い存在、喜びの存在として創造するお方だということ、人間は一人ずつ違うけれど、全員が神様の似姿として創造されたということを見ました。だから神様に互いの命を感謝しようと聖書を読みました。今日は2章から、人間とはどのような存在なのかを考えてゆきたいと思います。
神様は創世記1章から様々なものを順番に創造されました。そして創造の後、必ずこの言葉が付け加えられています「神はこれを見て、よしとされた」。
神様は6日間様々なものを創造し、それぞれを「見て、よしとされた」のです。しかし今日の個所では神様がひとつだけ「よくない」と思ったことがありました。それが18節です。神様は「人が独りでいるのは良くない」と言いました。神様はすべての創造を「よい」と言ったのに、人が独りでいる事だけは「よくない」と言ったのです。
「人が独りでいるのは良くない」それに対して神様は人が独りにならない様に、様々な動物を創造してゆきました。人は神様から与えられた動物たちに愛情を注いで名前を付けました。大切にしたのです。たくさんの動物に囲まれてにぎやかだったでしょう。でもやっぱり何か足りなかったのです。それは自分に合う助け手ではないと感じました。寂しいと思ったのです。孤独だと感じたのです。
神様もそう感じました。人間と一緒に生きるのは動物だけではダメだと感じました。動物はふさわしい助け手ではなかったのです。そして神様はさらに新しい創造が必要だと、一歩を踏み出しました。
神様は人が寝ている間にあばら骨、人の心臓に一番近い場所から骨を取って、新しい人間を創造しました。そして二人目を創造します。人はそれを大変喜んだとあります。そして男と女として生きることになったのです。
歴史的にこの個所は男性優位の根拠として、誤って解釈されてきました。女とはこのように聖書に書いてある通り、男から創られた劣った存在だという解釈です。また男と女以外の性は神様の創造に反していると解釈されました。しかし聖書はここで男の優位性や人間の性別二元論、結婚の推奨を語ろうとしているのではありません。聖書はここで男女やあらゆる性を超えて、人と人とがどのように絆を持ち、向き合うべきかを教えているのです。
この個所を読んで、まず驚くべきことは、神様が自分の創造に対してまだ足りないと思うことがあったということです。神様がいて一人の人間がいる、それだけ世界は十分よいはずでした。人は神様が創った豊かな自然や動物に囲まれて暮らせれば幸せなはずです。神と人、そこで世界は十分なはずでした。
そしてここには一人の世界の自由さと、気楽さがありました。そこは私たちが日々疲れるあの人間関係のわずらわしさが一切ない世界でした。ストレスのない、よい場所であるはずでした。
しかしそこにいた人はそう感じなかったのです。そして神様もそう感じなかったのです。神様は、人にはあなた以外の誰か、もう一人の人が必要だと思ったのです。人は独りではいけないと思ったのです。神様が人は一人では生きてゆけない、そう思ったのです。
孤独について考えます。神様は孤独であることを「よくない」と言いました。孤独は神様の創造の意図に適っていないということです。神様が人に求めているのは、一人で、自然と動物に囲まれて安らかに生きる姿ではありませんでした。神様は人間同士の豊かな交わりを期待し、人間を創造したのです。
神様はきっと人間が二人いれば、すぐに衝突することを容易に想像できたでしょう。しかしそれでも神様は人間をもう一人創造することにしたのです。きっと神様は「二人に衝突があるかもしれない、でも孤独でなくなること、よい関係があること、力を合わせて生きること」を期待して二人目を創造したのです。
神様は二人目がいる方がよい世界だと思ったのです。どんなに必要なものがそろっていても人が独りでは、よい世界は完成されなかったのです。
二人目の存在について考えます。神様は19節で「彼に合う助け手を造ろう」と言いました。この「助け」という言葉は詩編において神様の助けという意味で繰り返し使われている言葉です。この「助け」は助手のようなただの助けではなく、神様の「救い」という意味があります。自分の目標達成のお世話や、自分のめんどうなことを取り除いてくれることための補助や助手ではありません。この「助け」とは神様からの助けであり「救い」として与えられものという意味です。
神様は、独りで孤独な人間に対し「救い」として、私だけではないもう一人の人間を遣わしてくださったのです。この助け手という言葉は「救い」という意味以外にも「同伴者」や「パートナー」「仲間」いう意味を持ちます。神様は私たちに救いとして、同伴者として、パートナー、仲間としてもう一人の人間を創造してくださったのです。
神様は人間が独りで生きていくのは良くないと感じました。人間の究極的な助けは神様が握っているはずです。しかし神様はこの地上での助け、共に助け合う者として、もう一人の人間を私たちに与えたのです。その存在は対等で、平等で、神様から与えられた大切な仲間でした。
神様は創造の最後に、この助け手、同伴者、仲間を創造されました。それは神様の創造の働きのクライマックスだったのです。神様はこのように、私たちに仲間を創造するお方なのです。
この物語は私たちに何を呼びかけているでしょうか。神様は人は独りで生きるのは良くないと言いました。私たちは独りでは生きていくことができないのです。私たちに共に生きる仲間が必要なのです。神様は私たちに仲間の命を創造してくださいました。私たちはそれを神様から与えられた仲間として感謝し、大切にしてゆきましょう。助け手となりあって生きてゆきましょう。
私はこの二人のことを男女や、結婚だけに結び付けて考えたくありません。性や結婚の有無に関わらず、私たちには、神様から共にいる仲間が与えられているのです。私たちには仲間が与えられています。仲間と共に仲良く、助け合いながら生きてゆく、それが神様の期待していることです。
私たちの実生活にどのように置き換えることができるでしょうか。私と助け合って生きる誰かの顔が思い浮かぶでしょうか?ここから家族を大切にしようと言えるでしょう。家族は大切な同伴者です。家族は互いに助け合って生きてゆきましょう。そして家族以外でも社会はもっと互いに助け合うということを大切にしよう。血縁や地縁、国籍や宗教を超えて、私たちは互いに助け合う者として創造されています。私たちは共に互いを助け合い生きてゆきましょう。
クリスチャンの歩みにもあてはめることができるでしょうか。クリスチャンが独りでいるのはよくないと言えるでしょう。クリスチャンこそ、神様以外の、神様からの助け手となる人間が必要です。共に信仰を分かち合う仲間が必要なのです。私たちの教会は共に向き合い、互いに助け合いながら、励まし合いながら歩んでゆきましょう。
25節には二人は裸であることを恥ずかしいと思わなかったと記されています。二人がまだ罪を知らなかったから恥ずかしくなかったのではありません。二人には信頼関係があったのです。相手との信頼関係があり、心を裸にして互いに助け合う関係ができていたのです。恥ずかしがらずに丸裸の心で、語り合うことができたということです。二人はそのような信頼のある仲間だったのです
私達もこのような信頼を築くことができるお互いになってゆきましょう。私たちは今日もそれぞれの場所へと派遣されてゆきます。私たちはそれぞれの場所にいる仲間、助け手の助けを受けながら生きてゆきましょう。そして私たちはそれぞれの場所にいる仲間のよい助け手・隣人となってゆきましょう。寂しさを感じる時、神様は私たちに仲間を与えてくださるお方です。お祈りいたします。