みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること、神様に感謝をします。私たちはこどもの声が響く教会です。今日も一緒にこどもたちと共に礼拝をしましょう。
今日は参議院選挙です。「どうせ何も変わらない」そんな諦めの中で行われてきた選挙。でも今回は少し違う気がしています。私たちの一票、私たち一人一人の決断で何か大きな変化が起きるかもしれません。私たちはそれぞれに祈り、考え、決断し、一票を投じてゆきましょう。今日は何かが変わる、権利の主体として決断をするということを創世記から見てゆきたいと思います。
誰しもが、人のものを勝手に食べてしまったという経験、あるいは食べられてしまったという経験が一度くらいはあるものです。冷蔵庫からなくなった、あのプリンです。
幼稚園に上がる前くらいの小さなこどもだと、それは絶対食べてはいけないよと言われたら食べないでいるのかもしれません。でも大きくなり発達して、そのおいしさを知っていると、教えを破って食べるようになります。私は初めてこどもが勝手にお菓子を食べた時、怒りたい気持ちと、ほめたい気持ちがあり、言葉になりませんでした。こどもはもっと大きくなると「僕は食べていない」と嘘をつくようになります。
これは良くないことではありますが、こどもの大事な発達のひとつと言えるでしょう。こどもたちはそうやって少しずつ大人へと成長し、自立してゆきます。人のものを食べてはいけませんが、自分で考えて決断し、行動するという発達はとても大切なことです。
この物語の向こうに、私たちの毎日が透けて見える気がするのです。この物語は食べてはいけないと言われたものを、食べようと決断した物語です。みなさんも想像してみてください。神様は、人間が食べてはいけないと言ったものを食べてしまったことについて、どのようにとらえたのでしょうか?
キリスト教には「原罪」という考え方があります。聖書に原罪という言葉は登場しませんが、今日の聖書個所がもとになって、後の時代に「原罪」という教えが生まれました。この物語にあるように人間の祖先であるアダムとエバが禁断の果実を食べてしまったせいで、その子孫である人間にはずっと罪の性質が遺伝のように受け継がれる。人間には生まれながらの罪、原罪があり、正しい判断ができない性質を持つという教えです。
そしてこの教えからは、だからあなたは自分で判断しないで、教会の教えや王様の教え、偉い人の考えた教えに聞き従いなさいと言われてきました。この原罪という教えから、教える者と、教えられる者との壁が作られてゆきました。そしてさらに、人に教えるのはヘビにそそのかされた女性ではなく男性であるともされてきました。
しかし原罪という教えを疑ってみましょう。原罪という教えは、それほど昔からある教えではありません。創世記が書かれたのは2500年程前です。そして原罪という教えが開発されたのはその1000年後でした。創世記が書かれた1000年後に、原罪という教えが生まれ、この物語がその根拠とされたのです。ですから当然、イエスの時代には原罪という言葉すら存在しませんでしたし、イエスはこの物語を「罪と罰の物語」とは見なさなかったでしょう。
さて私たちは今日の個所をどのように読んでいきましょうか。旧来の教えられた伝統に従えば人間がもって生まれた罪「原罪」について説明をしたいところです。罪を犯さないように、聖書の教えに従えと語られる箇所です。しかし今日はそうではなく、新しい読み方、原罪以外のテーマでこの個所を読みたいと思っています。伝統的な解釈から離れて、自分自身の目で、この物語を読みなおしてみませんか?
今日は創世記3章1~4節までをお読みいただきました。今日も神様に創造された二人が登場します。二人はエデンの園に暮らしていましたが、絶対に食べてはいけないという木の実を食べてしまいました。そして神様に問い詰められ、ヘビのせいにしたり、お互いのせいにしたりします。結局二人はエデンの園から追放されることになりました。
この状況をイメージしながら、神様が人間に何を期待していたのかを想像します。神様の願いは、人間が言われた教えをずっと守って、ずっと園で暮らすことだったのでしょうか。神様は、私たちがずっと「いい子」でいることを、本当に願っていたのでしょうか?
しかしだとするなら、神様はなぜ人間に自由を与えたのでしょうか。神様はなぜ人間に取って食べる自由を与えたのでしょうか。神様はなぜ人間の目の前に決して食べてはいけないものという誘惑を置いたのでしょうか。神様は人間に自由と誘惑を同時に与え、そしてさらに食べるなという教えに従えと言ったのです。
神様は教え従うことができない人間に、罰を下すためにいるのでしょうか。私たちの神様は雲の上から、罰する相手を探して見張っている、そんな神様でしょうか?
想像力を働かせましょう。もしかして神様は人間がこれを食べてしまうことが分かっていたのではないでしょうか。神様はいつか人間がそれを食べる時が必ず来るとわかっていたのです。
親がこどもの成長を見守る時、いつまでも親の言うことに従う様には育てないものです。「あなたの人生は親の私が全部決めてあげる」「私の言うことを徹底的に守りなさい」そういう親を毒親と言います。毒親とはこどもが自分のことを決める権利を奪ってしまっているのです。
親はこどもが多少、自分の期待に反するとしても、自分で選択することを促してゆくものです。親は願います。「ずっとこの家にいてもいい。でもいつかは、厳しくても自分の足で広い世界を歩いてほしい」そんな思いで子どもを育て、広い世界へと送り出します。それが親の役割です。それでこそ、こどもたち自身の人生が始まってゆくのです。
父なる神様はアダムとエバにそれを期待していたのではないでしょうか?神様はいつか自分自身で決断する、そんな歩みを始める日を本当は待っていたのではないでしょうか。
そして女性であるエバは、世界で初めて「自分で決断した人」でした。彼女は世界で初めて自分の意志を発揮した人でした。そして彼女は世界で初めて自分のことは自分で決めるという主体的権利を使った人間でした。
彼女はその実を自分で取って食べました。そしておいしいと思いました。そして隣の人にこれおいしいよ、食べてごらんと喜びを分かち合いました。彼女はもうこどもではありません。主体的で、自立的です。積極的で、分かち合う人間・女性に成長していたのです。神様が人間に与えた、「選ぶ力」「動く力」が、そこに花開いたのです。そして広い世界へと一歩を踏み出しました。彼女が人類の母です。私たちの母である人は自立的・主体的・挑戦的な人間だったのです。神様はその様子を見て、エデンの園の外へと派遣していったのです。
このようにこの物語を読む時、私たちは罪と罰ではなく、神様に何を期待されているのかをイメージできるのではないでしょうか?それはしっかりと自分の意思で行動する大切さです。
私たちは、神様の言われた通りに生きることはできません。すべての行動に神様の指示があるわけではないからです。だから私たちはそれぞれの場所、場面で自分でよく考え決断し、行動しなければなりません。誰か、偉い人、詳しい人、AIが自分の選択を決めてくれれば楽です。
でも神様の期待はそうではありません。神様は自由な存在として人間を創造されました。神様は人間を、自分のことを自分で決める主体的権利をもった存在として創造したのです。それは大人もこどもも同じです。神様はその実をとって食べた時「あなたは自分で決断できるようになったのだね」そう感じたのではないでしょうか。
もちろん人間が自分で判断すれば当然、間違えが起こります。間違えは、どんなに隠して隠れても、神様の前に必ず明らかになります。
その時大事なことは、自分の選んだ道を、誰のせいにもせず、しっかり受けとめることです。自分の決断の誤りは、誰かに何かを言われたからではなく、自分の決断の誤りとして、しっかりと反省し、責任を持つことが大事です。そのこともこの物語の中で伝えられている事ではないでしょうか?
私は神様が人間にどんな期待をもっているのか、この物語から考えます。私は神様が、私たち人間が主体的に決断し、前に進んでゆくことを期待していると思います。
私はこの物語を罪と罰の物語ではなく、人間の罪の始まりではなく、神様の期待の物語として受け取りたいと思っています。
みなさんは人間とは神様の前にどのような存在だと思うでしょうか?私たちにはなぜ自由があり、私たちにはどのような主体性があるのでしょうか?原罪とは何でしょうか?どんな人間も産まれながらに悪い存在なのでしょうか?イエスの十字架は原罪を贖う存在なのでしょうか?私たちは誰に何に教わり、従って生きるのでしょうか?私たちの行き先は誰が決めるのでしょうか。
私たちはもちろん楽園に住んでいるのではありません。私たちはあれ以来、厳しい現実の中に生きています。私たちはその中で自分で自分の人生を決めてゆく権利を持っています。私たちはその自由の中にありながら、神様の罰に怯えるのではなく、神様に何を期待されているのかを考えながら歩みます。時に失敗をするでしょう。それを神様に打ち明けながら歩んでゆきましょう。
私たちは失楽園でも希望を失いません。神様が期待し、神様が守ってくださいます。神が私たちをここへ派遣してくださっているのです。お祈りをいたします。