【全文】「平和と憐みの食卓」マタイによる福音書9章9~13節

みなさん、おはようございます。今日もこうしてともに礼拝できること、主に感謝します。私たちは「こどもの声がする教会」です。今日もこども達の声と命を感じながら、礼拝をしましょう。

 

今月、私たちの教会では『平和』について深く考えていきたいと思います。今日は8月3日です。間もなく、原爆が投下されてから80年という大きな節目を迎えようとしています。

 

原爆は、一瞬にしてそこにいたすべての命を奪いました。大人も子どもも、敵も味方も関係ありませんでした。それはすべての人を分け隔てなく愛する神様と全く正反対の出来事でした。

 

原爆の被害にあっても、なんとか生き残った人たちもいました。しかしその人たちも放射能による後遺症と不安で苦しまなければなりませんでした。

 

今回改めて“こうの史代”という人の「夕凪の街 桜の国」という漫画を読みました。この漫画には原爆投下10年後の広島の人々の生活や心情を豊かに描かれています。

 

原爆投下から10年、人々の生活は少しずつ建て直って来ていました。しかし人々の心の奥には原爆の体験が深い爪痕を残していました。人々の心に刻みこまれたのはあの日、自分は誰かに「死ねばいい」と思われたということでした。生き残った人々は自分はあの日、人間としての存在を否定されたということを、よく分かっていました。

 

生き延びた人々は、幸せになろうとすると、あの日の悲惨さが目に浮かびました。幸せを目の前にして、自分だけ幸せになって良いのだろうかと葛藤したのです。戦争は幸せを求めるという人間らしさをも奪ったのです。

 

主人公は結婚を直前にしたある日突然倒れ、目が見えなくなり、髪が抜け、黒い血を吐きました。あまりにも大きな無念さ、そして言葉にならないほどの痛みを抱えて、静かに息を引き取ってゆきます。死ぬ前の彼女の最後の心情が言葉にされています。それは「10年たったけど原爆を落とした人は『やったまた一人殺せた』と思ってくれているか?」というものでした。それは自分は人間として扱われなかったという叫びでした。

 

これは漫画の中だけの話ではありません。実際の広島で、あの日以降、多くの人々が同じ様に苦しみ、亡くなっていったのです。

 

原爆は、すべての戦争は人間を人間として扱わない行為です。それは人間を非人間化する行為です。本来人間は、相手を同じ人間だと思ったら、相手に家族がいることを思ったら殺すことができません。

 

人間が人間を殺すことができるのは、相手を人間でないと思うときです。相手の顔から人間としての表情を消し去り、名前を奪い、声なき「モノ」や「動物」「敵」という記号に変えてしまう時はじめて殺すことができます。戦争はそのようにして相手を非人間化し、時には自分自身も非人間化します。人間の存在価値を根幹から否定するのが戦争という行為です。

 

私たちは平和を求めています。神様が人間の命を創造しました。それを人間が壊してはいけないのです。私たちは人間の命を、神様の創った命として大切に扱わなければいけないのです。私たちは人間を人間として扱わなければいけないのです。神様がそのように私たちに命じています。平和とは、人間が互いの命を尊び、尊厳を認め合うことではないでしょうか。

 

私たちは異なる存在で、衝突することもありますが、互いの人間性を尊重し、平和を求めてゆきましょう。また人間を人間扱いしないあらゆる行為に反対をしてゆきましょう。

 

このような人間が人間とされないという悲劇の中で、私たちはどのように平和への道を見出せるのでしょうか。今日は聖書の中に、その一つの光を見たいと思います。そこには、人間同士が互いを人間として再び見つめ直し、尊重し合う、そんな温かな場面が描かれています。その平和と慈しみの食卓の風景から、平和への大切な手がかりを一緒に探してゆきましょう。

今日はマタイによる福音書9章9~13節までをお読みいただきました。2000年前の物語です。ある時イエスが歩いていると、徴税人のマタイという人と出会いました。彼は人々から税金を集める仕事をしていました。当時それはみんなに嫌われる仕事でした。

 

なぜなら古代の税金とは福祉のために使われるのではなく、王様や貴族、特権階級の贅沢のために使われたからです。人々がどんなに貧しく、どんなに飢えようとも容赦なく税金は集められました。

 

王たちは民衆を、まるで道具のように扱いました。人々は他の家畜と同じ存在でした。徴税人は人々に王に言われるがまま、人々にまったく同情せず、なるべく多くの税金を絞り取りました。だから徴税人は人々からは心底嫌われていました。

 

人々は、税を取り立てる徴税人と王に対して、『彼らは私たちのことなど何とも思っていない。それどころか、私たちが苦しんで死ねばいいとさえ思っているに違いない』…そう感じ、心を閉ざしていました。それはまるで、原爆の日に人々が感じた『自分は誰かに死ねばいいと思われた』という痛ましい感覚と、どこかで通じるものがあったのかもしれません。

 

だから当時、人々は徴税人とは絶対に食事をしませんでした。自分たちのことを動物と同じように扱い、税金を搾り取る徴税人とは絶対に食事をしなかったのです。

 

しかしこの後イエスは徴税人の一人であるマタイと食事をしています。そしてなんとそこには罪人と呼ばれる人もたくさんいたのです。古代において罪人の意味は非常に広い意味を持ちます。犯罪を犯した人だけではなく、病気の人、卑しいと言われるような職業についていた人、外国人も罪人と呼ばれました。それらの人々は徴税人からだけではなく、それ以外の人々からも、人間扱いされなかった人間たちです。

 

イエスはそのような人たちをみんな集めて、家で食事を共にしたのです。非人間化する人、非人間化された人を一堂に集めて、食事会を開いたのです。そこで食前に祈りました。同じ皿から同じ食べ物を食べ、同じ物を飲み、分かち合いました。人々はそのような食事を通じて、互いが笑い、悩み、生きる同じ人間なのだと、改めて気付かされていったのです。イエスはこのような和解と再会の食事をきっと何回も行っていました。

 

イエスは周囲から「なぜ罪人や徴税人と食事をするのか、徴税人は私たちを物として扱っているのに。さらに罪人までも一緒にいる」と言われました。

 

イエスはそれに対して13節で「私が求めるのは、憐みであっていけにえではない」と言っています。いけにえとは犠牲とされるもののことです。イエスは誰かが犠牲になる世界、誰かが死んだり、差別されたりする世界を求めていないのです。イエスが求めているのはいけにえではなく憐みです。

 

憐みとは苦しんでいる人を見た時に、かわいそうと思って、自分のことの様に思って、何かしたいと思って、行動を起こすまさしく人間的な行動のことです。他の動物や物と違う、特に人間が強くもっている感情が憐みです。

 

イエスは、この共に食卓を囲むという行為を通して、人々が互いを『物』や『動物』のように扱うのではなく、かけがえのない同じ人間として再び出会い直すことを願いました。互いの中に神様から与えられた尊厳を見出し、そこに温かな『憐れみ』が生まれるようにと、彼らを食事へと招いたのです。争いや殺戮、そして差別が渦巻くこの世界で、失われた人間性を取り戻し、互いの顔をもう一度見つめ合うようにと促しました。この食事はイエスの開かれた「平和と慈しみの食卓」だったのです。

 

共に食事をし、互いの人間性に気付いてゆく、それは平和に向けた大切な一歩です。一緒に食事をしあえば、殺し合うこと、差別しあうことがなくなってゆくのです。イエスはこの地上にそのような愛と平和をもたらすために、この地上に来られ、人々を食事へと招いたのです。

 

このイエスの物語を、私たちはどのように受け止めていけばよいのでしょうか。まず、私たちの日々の中にも潜む、互いを非人間化してしまうような行為に、もっと敏感になりたいと思います。それは時に、心ない言葉や態度、あるいは無関心として現れるかもしれません。そして私たちは暴力やハラスメント、搾取といった、人間の尊厳を踏みにじるあらゆる行為に対してはっきりと反対をしましょう。最大の非人間化は戦争です。一人一人の人間の命に目を注ぎ、戦争に反対し、平和を求め続けましょう。

 

私たち一人一人の生活にも注意を向けてゆきましょう。私たちはいけにえ、犠牲ではなく、人間同士の憐みを大事にしながら生きてゆきましょう。誰かやどこかが負担を負うのではなく、互いに同じ人間同士であること思って、互いを配慮して生きてゆきましょう。

 

私たちはこの後、主の晩餐という儀式を持ちます。この儀式はパンとブドウジュースをみんなで飲むものです。この儀式の意味の一つは、イエスがこのような徴税人や罪人とした食事を再現するという意味があります。

 

 

 

そして今、私たちもまた、イエス様によってこの『平和と慈しみの食卓』へと招かれています。これから主の晩餐にあずかるこの時、私たちは改めて、ここにいる一人ひとりが、そして世界のすべての人々が、神様に愛されたかけがえのない人間であること、互いに尊重し合い、決して傷つけ合ってはならない存在であることを、心に刻みましょう。今日、私たちは特に、世界の平和を祈りつつ、このパンをいただき、この杯を飲みましょう。すべての人が、ありのままの人間として尊ばれ、平和のうちに生きられる世界を願ってパンとブドウジュースを頂きましょう。神さまが私たちを平和へと招いてくださっています。お祈りします。