みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること、神様に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。こどもたちの声は私たちの教会にとって、平和を告げる音です。平和を感じながら共に礼拝をしましょう。
今日は平和祈念礼拝です。私たちは今年、戦後80年を迎えます。8月は平和の大切さをかみしめながら、礼拝をしてゆきましょう。
アメリカの方から「“戦後”という言葉はアメリカでは通じにくい」という話を聞きました。私たちにとって戦後とは第二次世界大戦の後を意味する言葉です。しかしアメリカでは「戦後」と言っても「それはどの戦争の後のことですか?」と聞かれるそうです。それだけ戦争は繰り返されているのです。
私たちの日本には憲法9条があり、80年前に平和への決意と確信をもってこの国のあり方を選びました。そのおかけで、これまで直接的に戦争に加わらないでいることができました。ずっと戦後が続くように祈っていますが、いつまで戦後が続くのか不安に思っています。
軍事費は増え続け、沖縄には新しい基地が建設され、自衛隊はアメリカ軍と一体化しています。もはや戦後ではなく、戦前ではないかという声も聞こえます。
そして世界はどうでしょうか。多くの地域で戦争が続いています。世界全体は「戦後」ではなく、いつも「戦時中」です。
先日お昼のニュースでパレスチナの状況が報道されました。ガザ地区の国境が閉鎖され市民に飢餓が蔓延しているという情報が告げられ、映像が流れました。その映像にはこどもからお年寄りまで少ない食料に何時間も並ばなければいけない、長蛇の列が作られている様子が写りました。食料を受け取れなかったこどもたちがカメラに向かって「食べ物が足りない」と怒りと大粒の涙で訴えていました。私が胸が張り裂けそうな思いになりました。そして画面は切り替わり、今度はイスラエル軍が別の食糧配給所で市民に発砲し、多くの死者がでていると伝えられました。
パレスチナとイスラエルの問題はユダヤ教・イスラム教・キリスト教が複雑に絡み合う問題です。ユダヤ教の多いイスラエル、イスラム教が多いパレスチナ、イスラエルを支持するキリスト教右派。同じ聖書を土台にする宗教が戦争をしています。ロシアとウクライナもキリスト教国です。
キリスト教は一時期、イスラム教が戦争を肯定していると盛んに批判していましたが、キリスト教徒も負けずに一生懸命戦争をしています。キリスト教徒である私たちも、自らを省みなければならないと感じます。もちろん仏教国のミャンマーでも紛争が続いています。そもそもなぜ信仰者が戦争を起こすことができるのでしょうか。
私は世界に平和と食べ物が行き渡ることを願っています。私自身は今や、どの宗教かということは問題ではないと感じています。宗教を超えて、平和と食べ物とこどもたちのために祈り、互いが共存できる世界にしたいと祈っています。何よりも世界のこどもたちに平和と食べ物が行き渡ることを願っています。
もちろん私たちの土台には、聖書と信仰があります。聖書には神が人間を創造したと書いてあります。私たちは神が創造した命を壊してはいけないはずです。私たちは平和と共存を求めながら、聖書を読みましょう。聖書全体がその前提で読まれるべきだと思います。
今日の聖書箇所を見てゆきましょう。
今日はマタイによる福音書8章5~13節までをお読みいただきました。今日の個所には軍人である百人隊長が登場します。ある人はここで、軍人がイエスの奇跡の対象になるということは、イエスも軍隊の存在を容認していていた。イエスが軍人が肯定されるなら、当然戦争も肯定していたはずだと主張します。そんなばかげた読み方があるでしょうか。戦争肯定のために聖書を使わないで欲しいです。平和を求めてこの個所を読みましょう。
ある時、僕の病気のことで、百人隊長がイエスを尋ねてきました。カファルナウムにはヘロデ王の軍隊が駐留していました。ヘロデの軍隊は非ユダヤ人で構成されていたと言います。つまりイエスとは宗教の違う軍人が、病の癒しを頼んできたのです。宗教を超えて、命を救ってくれと求めにきたのです。この人の必死さが伝わってきます。
7節でイエスは「わたしが行って、いやしてあげよう」と言っています。イエスはそれをためらわず、すぐに了承し、百人隊長の家に行こうとしています。しかしこれは非常に驚くべき行動です。
当時、ユダヤ教の人々は違う宗教の人の家に行ったり、一緒に食事をすることは律法で汚れた事として禁止されていたのです。それは宗教的タブーだったのです。しかしイエスは軽やかに私が行こうと言っています。
まず、今日このイエスの行動に何を見出すべきでしょうか?私はこの個所から、イエスは命を守るためになら、戒律を超えようとした方だと感じます。それがタブーだと言われていても、命を守るための行動はためらわなかったのです。イエスはそれにまったく躊躇しませんでした。イエスは国籍、宗教、血縁に関係なく、また軍人であるかどうかにも関わらず、命が大切にされることを願うお方なのです。
家に早速向かおうとするイエスに、百人隊長が言います。あなたは家に来なくても命を救うことができるはずだと。わたしでさえ命令すれば軍隊を動かすことができる。あなただって、直接行かなくてもできるはずだと叫びました。
イエスはこの百人隊長の発言に足を止めました。イエスは彼が神様の力に全幅の信頼を寄せていることを強く感じ、感動したのです。本当にあなたは神様の力を信じているのだね。神様が命を守ると強く信じているのだね。イエスは異なる宗教の百人隊長が神を強く信じる気持を感じ取ったのです。イエスは、神様はどんな難しいことでもきっとできると信じる気持ちを、大事に思ったのです。
そしてイエスの応答が11節と12節に続きます。この部分は今日もっとも大事にしたい箇所です。
11節の東や西から大勢の人が来るとは、イスラエルから見て宗教や国籍、肌の色が違う人たちが大勢やって来るということです。そしてその人たちが、アブラハム、イサク、ヤコブと食事と宴会をするということです。アブラハム、イサク、ヤコブといえば、ユダヤ教の始まりを刻んだ族長たちです。その大御所3人が、外国人と宴会をするという光景が書かれています。
しかしこの光景には大きな問題があります。先ほども紹介したように、ユダヤ人は異教徒の家を尋ねたり、食事をしたりしては決していけないのです。しかし、それにも関わらずイエスはここで、この大御所たちがいつか宗教を超えて、みんなで食事をする日が来ますと言うのです。
これは、宗教や人種、国籍を越えて、多くの人が神の国に招かれることを示しています。しかし世界中から様々な宗教、国籍、人種の人が集まって、アブラハム、ヤコブ、イサクと食事をする、これはもう当時、考えられないタブーでした。しかしイエスはこのタブーが実現するのだ、ボーダーレスな出来事が起こるのだと言っているのです。
イエスは何を言おうとしているのでしょうか?それは異なる他者と平和に過ごす時が来るということです。今まで対立していた者と共に食事をし、平和が広がっていくのだと語ったのです。
12節を見ましょう。12節は「だが」と続きます。イエスは「だが、御国の子らは、外の暗闇に追い出される」と言います。御国の子らとは当時、自分たちのみが正しい、自分たちだけが神様の恵みを受けると思っていたユダヤ人のことです。彼らは自分たちの宗教だけが正しく、自分たち以外の宗教は全て間違っている、劣っていると考えていました。自分たちは神の国の子だと自負していたのです。
しかし、イエスはそんな「自分を御国の子」と呼ぶ人たちこそ、その宴会に入ることができないと言いました。自分たちこそ正しいと信じ、他を排除するなら、共に食卓を囲むことはできないのです。
もちろんこの言葉はユダヤ人だけに向けられた言葉ではありません。クリスチャンにも向けられています。自分たちだけが正しく、自分たちだけが神に選ばれたと思うなら、他者との宴会・平和には入ることができないのです。これは私たちクリスチャンにも向けられた言葉です。
この個所から平和について考えます。平和とはまさしく、宗教や国籍を超えて、共に食事にあずかるような出来事です。領土や利権を争い合うのではなく、対話し、分かち合い、共存共栄をしてゆくことが平和です。
イエスが百人隊長を訪ねようとした行動と、語られた驚きの風景に、平和のビジョンが表されています。
この聖書の光景が世界で実現されるように祈りましょう。困っている他者のために隔たりを軽やかに超えて行動する世界を求めます。いつかイスラエルとパレスチナの人々が、ウクライナとロシア、日本とアジアが天の国の宴会のような交流をできるように願います。私はイエスがそのように私たちに平和を示しているのだと感じます。
13節イエスは「あなたが信じたとおりになるように」と言います。これは私たちに告げられている福音です。これは世界は私たちの信じたとおりに作り上げられています。るとの約束です。そしてこれは「世界は、私たちが何を信じるかによって形づくられていく」という、神様からの励ましです。
私たちは平和を信じ続けることが大事です。平和を信じ続ければ、平和が世界に実現するのです。信じたとおりになるのです。しかし、いややはり戦争で決着をつけるしかないと信じるならば、戦争が起こるのです。
絶対に信じたとおりになる、平和が実現する、神様はそのように私たちに約束しています。私たちは今日もそのように平和を信じ続ける、その信仰を持つクリスチャンでいましょう。お祈りします。