みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること神様に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。今日もこどもたちの声に囲まれながら礼拝をしましょう。
8月は平和について考えています。80年前にも私たちの国で戦争がありました。あの時、一人一人が戦争に関わらないこと、戦争から逃げることがどんなに難しかったことかを想像します。ひとたび戦争がはじまると、逃げたい人は逃げる、戦いたい人は戦う、そんな自由ありません。全員が戦争に駆り出され、巻き込まれ、関わらないで済む人はいません。
かつての日本では、軍に徴兵されると、近所の人が集まって万歳して送り出されました。お国のために素晴らしい事をするのだと教えられました。親は心の中で本当は、息子に戦争になんか行って欲しくありませんでした。本人も行きたくありませんでした。でも戦争から逃げることはできませんでした。逃げることは不名誉なことだったからです。戦争で戦って死ぬことこそが名誉とされました。逃げることは「恥」とされ、選べなかったのです。
戦争が始まった時「戦争に反対だ」「戦いたくない」と言葉にすることはどれくらい危険で勇気が必要だったのでしょうか。平塚教会の初代牧師の長尾三二は勇気のある人でした。戦時中に「戦争反対」を訴えて、平塚警察に捕まりました。
しかしそれを言葉にできなかった人がどれだけ多くいたでしょうか。本当は戦いたくないのに、戦わざるを得ない状況に追いやられてゆきました。本当は載りたくない特攻機に乗せられ、敵艦に向かわされました。
私はどんな時でも、「戦いたくない」と言える勇気を持ちたいのです。戦争から一歩、後ろに踏み出す勇気が欲しいのです。戦うことを強制される戦争から、暴力で戦うことが良い事だと言われる場所から、国のために死ぬことが美しいと言われる場所から、逃げる勇気が欲しいのです。それが平和につながるのではないでしょうか。
今月は平和について一緒に考えています。一緒に戦いから逃げること、その先に平和があること考えてゆきたいと思います。「逃げる」と聞くと、弱さの象徴のように感じるかもしれません。でも思い出してください。聖書の中には逃げた人がたくさん登場します。アブラハムもソドムから逃げます。モーセもエジプトから逃げます、イエスの父ヨセフはエジプトに逃げます。それぞれの先に平和がありました。聖書には逃げることで守られた命がいくつも描かれています。一緒に聖書から平和を求めて逃げる事を考えましょう。
今日はマタイによる福音書10章16~23節をお読みいただきました。この個所は伝統的な教会では「負けずに伝える」ことに焦点を当てる解釈をしてきました。困難が有ってもキリスト教を伝えてゆこう、1か所だめでもまた次、また次と伝道してゆきましょうと教えられてきました。頑張ったその先に救いがあると教えられてきました。でもその解釈に息苦しさも感じます。今日はそこから逃れて、平和というテーマで読んで行きましょう。
マタイ福音書4章24節には、イエスの教えがシリアで広がったという言葉が唐突に出てきます。おそらくマタイによる福音書を書いたグループはシリアを中心に活動していました。シリアはエルサレムからも、イスラエルからもずいぶん北にある遠い場所です。
なぜ彼らはそのような場所で活動していたのでしょうか。この時代にイスラエルはローマ帝国と激しい戦争をしていました。この時代に彼らがイスラエルからシリアに移動したとするなら、もっとも可能性の高い理由は、戦争から逃げたという理由です。
イスラエルの中で勢いがあったのは徹底抗戦をしようとした主戦派グループでした。徹底的に戦って、ローマ帝国を追い返そう、自分たちは勝てるはずだ、愛国心と信仰心が混ざり、彼らは熱狂的にローマと戦いました。戦えば必ず勝てると信じていたのです。
しかしそんな状況に水を差すように、あえて戦わず「逃げる」という選択をし、シリアへと逃げだしたグループがいました。それがマタイたちです。戦っている人々からは、どう見えたでしょうか?日本の戦時中の雰囲気から想像します。きっと祖国と家族を捨てて逃げ出した非国民、国と神殿を守るために戦わない腰抜けと思われたでしょう。彼らは味方からも白い目で見られるように、シリアへと逃げていったはずです。
きっとマタイのグループの中にも逃げずに、戦うべきだ、やりかえそう、力で自分たちの正しさを証明しようと思う人がいたでしょう。しかしマタイのグループはそれらを選びませんでした。
今日の個所には22節で「最後まで耐えしのぶものは救われる」と書かれています。彼らは何を耐え忍んだのでしょうか?それは暴力の誘惑に耐え忍んだということです。多くの人が戦いたい、やり返したいと思ったでしょう。しかしマタイたちはその誘惑と向き合い、別の道を選びました。
マタイのグループは自分の願いを叶えるために暴力を使う、その誘惑に耐え続けたのです。戦う誘惑をしのび、平和を求めて行動をしました。それが逃げるという行動だったのです。平和のために、もっとも勇気のいる行動「戦わずに逃げる」を選んだのです。戦わないという選択、逃げるという勇気、それはヘビのように賢く、鳩のように素直で平和な選択でした
マタイのグループがこのように平和を求め、戦わずに逃げる、その勇気ある選択の原動力はなんだったのでしょうか。私はそれが23節のみ言葉だったのではないかと思います23節にはこうあります「一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい」
聖書には今日の個所と似た話がマルコとルカにも納められています。しかしどちらにもこの「逃げなさい」という言葉がありません。「逃げなさい」という言葉はマタイ福音書の大きな特徴です。マタイたちは、特にこの「逃げなさい」という教えを大切にしていたのです。
マタイのグループは危険に遭遇した時に戦うのではなく「逃げよ」そう教わっていたのです。彼らはこの教えに従って戦わずにシリアへ逃げたのです。そして結果的に4章24節にあるように、逃げた場所で彼らの平和の福音が広がったのです。
そして歴史的にはこの後、イスラエルに残り、逃げずに徹底抗戦したグループはローマ軍の前に全滅してゆきました。結果を見ると、暴力の誘惑に負けずに、逃げ、耐え抜いたものこそが救われたのです。
そしてキリスト教も、あえて逃げる道を選んだ人々、暴力よりも平和を愛するグループがその中心を担うことになったのです。
戦わなかった姿、それはイエス・キリストの生き方とも共通するでしょう。17節以降には鞭で打たれ、王の前に連れていかれ、死に引き渡されるとあります。これはイエスが十字架に掛けられる前の出来事とまったく同じ姿です。イエス・キリストは一切の暴力的な抵抗をしませんでした。イエス・キリストは戦わず、十字架に掛けられたお方でした。私たちには逃げる様にと教えましたが、逃げることさえ、選ばなかったのです。それが、神に等しいお方の静かな選択でした。
イエス・キリストはあなた方は戦わず、また死ぬこともなく、逃げなさいと教えています。
今日の個所からどのように平和を考えたらよいでしょうか。戦争がはじまった時、逃げる事、関わらわずにいることの難しさを改めて想像します。そして絶対に戦争を始めたくないと胸に強く思います。
そしてもし、私たちの国で戦争が始まってしまったら、私はマタイのように、戦うことよりも、逃げることを選びたいと思います。その時はきっと「逃げた」と笑われ、非難されるでしょう。しかしそれでも勇気をもって逃げることを選びましょう。
私たちは信じましょう。戦わないその先に、神様の救いがあるのです。イエスの十字架の歩みにも暴力に暴力で抵抗しない生き方が示されています。私たちはそのような平和を貫きましょう。戦争から逃げて、戦うことから逃げて、誘惑に耐え抜き、平和と救いを求めてゆきましょう
決して人間はどうあがいても戦争をしてしまう存在ではありません。戦争は止められると信じます。神様は私たち人間が何度戦争を起こしても、いつも平和のチャンスを与えてくださるお方です。
戦うことから逃れて、勇気を持ってもう一度平和に向けたチャレンジするとき、神様は確かな平和・救いを私たちに与えて下さるのです。私たちは暴力の誘惑に負けずに耐え抜き、平和に挑戦し続けましょう。
私たちはそれぞれの1週間、この平和を胸に歩みましょう。私たちの1週間の中でどのようにして平和を実現することができるでしょうか?私たちが派遣されるそれぞれの場所ですべきことはどんな事でしょうか?想像してみてください。
私たちそれぞれの場所にある、暴力に反対しましょう。小さいことから、大きなことまで、私たち人間からはすぐに暴力的で汚い言葉が出てきてしまうものです。私たちはその暴力から逃げましょう。暴力に暴力で対抗するのではなく、23節にあるとおり「一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行き」ましょう。
そしてそれぞれが逃げた場所で、平和の言葉を語りましょう。平和を実現する言葉、平和がそれぞれの場所に広がってゆく言葉とはどんな言葉でしょうか?マタイが逃げたシリアの先で広げたように、私たちも平和を広げてゆきましょう。そのために必要な言葉を神様に聞きながら話してゆきましょう。
私たちは今週もそれぞれの場所で精一杯、他者を愛しましょう。そしてどうしても平和が難しいなら、一度離れてみましょう。そんな生き方が今日の個所から示されているのではないでしょうか?お祈りします。