みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること主に感謝します。私たちはこどもの声が響く教会です。こどもたちの声は平和の象徴です。この会堂いっぱいにこどもたちの声と平和で満たされるように祈っています。今日もこどもたちの声を聞きながら礼拝をしましょう。
8月は礼拝で、平和について考えてきました。それぞれに平和をどのようなことを感じているでしょうか?世界や日本が、平和に近づいていると思うでしょうか?それとも世界や日本は戦争へと進んでいると思うでしょうか?
世界終末時計というものがあります。世界がどのように破綻に向かっているかを示す時計です。科学的統計というよりも主観的な表現ですが、私たちの破滅への危機感を視覚的に訴え、インパクトのあるものです。1947年から発表されているこの統計、推移は次の通りです。1947年、アメリカとソ連の冷戦時代に初めての発表された時刻は、終末を示す午前0時まで「残り7分」でした。1991年。私が幼い頃です。冷戦終結やアメリカとソ連の核軍縮がありました。時計は「残り17分」まで戻りました。破滅までの時間は伸び、平和へと向かっていったのです。私は小さい頃、信じていました。世界はきっと平和へと向かってゆくと。しかしその後、ソ連の核兵器はインドやパキスタンに拡散してゆきます。時計の針は再び短くなり、世界は破滅へと向かってゆきました。
日本にもこの時計が有ったらどんな数字になるでしょうか?1945年8月は0秒だったと言えるでしょう。一番長かったのはいつでしょうか?1947年に憲法9条・平和憲法が制定された時でしょうか?しかし今はどうでしょう?決して平和に向かって時を刻んでいるわけではないでしょう。自衛隊は海外に派遣されるようになりました、軍事費はますます増大しています。先の参議院選挙では各党の憲法案が論点となりました。新たに憲法作ると訴える党がいました。その憲法案からは9条が削除されていました。この党は「核兵器は安上がりだ」という発言もしています。そしてこの党は選挙でとても人気がありました。私たちは戦争に向けて再び時を刻んでいます。私たちは大きな戦争を体験し、もう二度としないと誓いました。軍隊を持たない、武力ではなく平和を信じると宣言したはずでした。しかし日本はまた自ら戦争へと近づこうとしています。私たちは一度手放したはずの戦争・武力に再び戻っていないでしょうか?日本は再び戦争・破滅に向けて時を刻んでいます。戦争、核兵器の再使用、人類の絶滅に再び近づいています。みなさん自身はそんな世界の平和、日本の平和について今どう思うでしょうか?今日の個所を読みながら、一緒に考えてください。
今日はマタイによる福音書12章43~50節をお読みいただきました。今日の個所は伝えたいことが謎だと言われる個所です。聖書にはイエスは何を言おうとしたのか、謎に包まれている箇所がたくさんあります。しかし私たちの戦争へと向かう現状を重ねた時、この個所がもう少し分かるかもしれません。
聖書にあるイエスの話をもう一度振り返ります。イエスは追い出された汚れた霊が再び家に戻ってきたという話をしました。汚れた霊は一度は家から追い出されたのです。汚れた霊は自分から、自主的に家から出て行ったのではありません。その家の主に追い出されたのです。もう汚れた霊はいらない。その決心と祈りとによって、汚れた霊は追い出されました。しかしその時、汚れた霊の存在が消えたわけではありませんでした。汚れた霊はまた次に住まうべき別の場所を探し始めました。汚れた霊は自分にもっとふさわしい場所があるはずだと信じ、その場所を探しました。しかしそのような場所はなかなか見つけることはできませんでした。
行く当てのない汚れた霊は「そうだ、戻ってみよう」と考えました。一度は自分を徹底的に追い出したあの場所。しかしあそこも、きっと時間が経てば、再び自分に居心地のいい場所になっているのではないかと思ったのです。行って、のぞいてみると、案の定、その家は空でした。もしすでに誰かが入っていたら、話が別でした。しかしそこは空。誰もいなかったのです。しかも掃除されて、整えられていました。他の翻訳によれば、飾り付けがされるほどきれいだったのです。それはまるで、汚れた霊をもう一度歓迎するかのようでした。その家は汚れた霊にとって、居心地が最高の場所に戻っていました。汚れた霊は自分の他にもたくさんの汚れた霊の仲間を招いて、そこを居場所にします。気付くと、そこは一度は汚れた霊を追い出したはずなのに、再び汚れた霊が住み込み、前よりさらにひどい場所になっていました。このような話です。
さて、この話をどのように理解したらよいでしょうか?この個所は、ユダヤ人排斥の文脈で理解されてきた歴史があります。ユダヤ人は真理であるキリストを受け入れず、律法主義やファイリサ派など入れ替わり立ち代わり汚れた教えを心に招きいれている、どうしようもない人種だ。彼らには神の厳しい裁きがあるだろう。そしてそんなユダヤ教とは反対に、キリストを迎え入れる者だけが、神に救われると解釈してきました。私はその解釈自体が、非常に差別的であると思います。クリスチャンが聖、それ以外の人が俗・汚れという考えこそが、汚れた霊による考えだと思います。
私はこの個所を、一人ひとりの心に何を住まわすのかという問題として読みたいと思います。今日私たちが与えられている問いは一人ひとりは何を心に住まわせるのかというものです。私たちは汚れた考えを、徹底的に追い出しましょう。汚れた考えとはどんな考えですか?想像してみてください。暴力、戦争、核兵器、差別、格差、いじめ、無関心・・・みなさんの心にはどんな汚れた霊がいますか?それは人間一人ひとりにあるものです。私たちは時々大きな失敗をします。そうするとそれが汚れている考えだったと気づきます。もうやめよう、捨てようと思います。そしてそれを追い出すのです。戦争はだめだ、差別はだめだと心から追い出すのです。
しかしどうでしょうか?そう時間が経たぬうちに、私たちには、再び汚れた霊が住みつくものです。それはいつの間にか起こります。でも実は少しずつ、静かに、汚れた霊を迎える準備は進んでいます。そこは汚れた霊が来るはずがないような、美しい家になってゆきます。そこにいるものは飾り付けられ、新しく、魅力的に見えます。しかしいつの間にか、そこは前よりひどい汚れた霊がいくつも居るようになるのです。私はこの汚れた霊が、戦争や差別に見えます。それは私たちの心の中、私たちの社会に静かにやって来ます。少しずつ、場所が整えられ、飾られた場所に忍び込んできます。人気に推されて、新しいものとしてやってきます。
私たちは注意をしなければなりません。きっとイエスは警告したのです。汚れた霊、戦争や差別がそれぞれの心と社会に入ってくることを。私たちはどうすれば汚れた霊を心に迎え入れずに済むのでしょうか?
私は今日、この家が空っぽだったということに注目をします。この家に足りなかったものは汚れた霊を追い出しただけで終わってしまっていたということです。汚れた霊を追い出しても部屋が空いたままならば、また入ってきてしまうのです。戦争を否定しただけでは、まだ不十分で、解決しないのです。私たちは汚れた霊が再び家に入ってこないように、そこを別のもので満たさなければいけなかったのです。もう二度と汚れた霊が入って来ない様に、隙間なく別のもので満たさなければならなかったのです。もう二度と入りこむ余地はないと示す必要があったのです。
汚れた霊のいなくなった場所を、私たちは何で満たすことができたでしょうか?考えてみてください。例えば平和の願いで満たすのはどうでしょうか?他にも祈り、誓い、憲法、戦争の証言、様々なもので満たすことができるはずです。そしてキリスト者はそこを愛と平和、神の言葉で満たすことができるはずです。何でそこを満たすことができるのか想像してみてください。
私は汚れた霊を自分の心から徹底的に追い出したいと思います。そして平和の主であるイエスをこの家、私の心に迎えたいのです。私の心から暴力と差別を徹底的に排除し、平和の主イエスを心に迎え入れたいのです。
そこにイエスが入っていなければ、きっと私の心はまた暴力と差別で満たされてしまうでしょう。そして前よりもっと深刻になるでしょう。私はそこにイエスの十字架を置きたいのです。十字架とはイエスが暴力的な力で、殺されたことの印です。けれども同時に十字架は暴力を超えて、復活があった印です。それを胸の中に、私の家に置きたいのです。イエスが心に住み続けてくれるように、私はいつも十字架の前に祈り、汚れた霊・戦争と差別を追い出し続けてゆきたいのです。世界の人たちの心から、戦争をする心が追い出され、平和が住むように祈りたいと思います。世界は確実に、再び汚れた霊が住む場所になり、前より深刻になっています。
みなさんにも問いかけます。私たちの世界がその心から追い出すべきことは何でしょうか?私たちの日常ではどのような場面で汚れた霊を見ることができるでしょうか?みなさんの心には今、何が住んでいるでしょうか?大切なのは飾りつけられていることではありません。その中身です。今、みなさんの心に迎え入れるべきことは何でしょうか?みなさんが心に迎え入れるべき人は誰でしょうか? そのために私たちができることは何でしょうか?もっと心のスペースの中身を入れ替えるにはどうしたらいいのでしょうか?私たちは何を心に招くのでしょうか?それぞれに祈り、考えてゆきましょう。お祈りします。