みなさん、おはようございます。今日もこうして、共に礼拝できることを、心から神様に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。こどもたちの声を聞きながら礼拝する教会です。こどもたちの声と一緒に礼拝を献げましょう。9月は「礼拝」について、みんなで考えてゆきたいと思います。今日はいつもの説教台からではなく、もっと皆さんの近くでお話をさせてください。
この20年、私たちのコミュニケーションは大きく変わりました。公衆電話を思い出してください。みなさんが最後に公衆電話を使ったのはいつですか?懐かしいですね。10円玉やテレホンカードを入れるとツーという音がします。そして電話番号を一つずつ押します。よく使う電話番号なら覚えていました。そうでない番号は手作りの電話帳を見て番号のボタンを押しました。テレホンカードの目盛りがどんどん減ってゆくのを見ながら親しい人と長電話をした思い出があります。今思うと、公衆電話はとても不便でしたが、その分コミュニケーションは貴重で、意味深さがあったかもしれません。しかしコミュニケーションの形はどんどん変わってゆきました。ある日、携帯電話を持った時から、公衆電話をほとんど使わなくなりました。あれ以来公衆電話は大幅に減少しています。事故や災害などのために、完全にはならないそうです。でもその数はどんどん減っています。公衆電話は役割を終えようとしています。
私は「公衆電話を守らなければ」とは思いません。なぜなら、たとえ公衆電話が姿を消しても、人と人との「つながり」が途絶えたわけではないからです。大事なのは公衆電話ではなく、その中で育まれた、心と心のコミュニケーションそのものだからです。コミュニケーションの方法は公衆電話から携帯電話へと発達しました。それによってコミュニケーションは、電話のある場所に固定されなくなりました。かつて電話は各家庭に1台でした。その家族単位のコミュニケーション手段は、一人一人との直接的なコミュニケーションに変わりました。私たちのコミュニケーションのスタイルは大きく発達してきました。どんなに懐かしくても、もう公衆電話には戻りませんよね?
さて――教会と公衆電話。意外な組み合わせに、どんな共通点があると思いますか?これからの20年で、多くの教会が閉鎖されてゆくと予想されています。教会の数も、礼拝出席の数も公衆電話と同じ様に、減少しつつあります。教会は必要とされていないのでしょうか?教会を維持してゆくことは大事なことです。しかし教会はあくまで目的ではなく手段です。公衆電話も、維持が目的ではなく、他者とのコミュニケーションが目的でした。教会も同じではないでしょうか?教会の目的は何ですか?教会の目的は、建物や組織を守ることではありません。私たち人間同士、そして私たちと神様の間のコミュニケーションがうまく働くことを目的に、教会は存在するのではないでしょうか?
教会が続くことが目的ではありません。教会は、神様とのコミュニケーション、人と人とのコミュニケーションを、より豊かにするための手段です。公衆電話が姿を変えて、携帯電話になったように、教会もまたその目的を果たすために、どんどん変わってゆくべき場所なのです。
私たちの礼拝で何が変わったでしょうか?主の晩餐が変わりました。よりよく私たちの信仰を神様に表すために全員が参加するものに変わりました。よりよく仲間と信仰を体験するために変わりました。このようにもっと私たちの礼拝は変化に開かれて良いはずです。礼拝の形式自体は大きく変わっていません。もしかすると、私たちの礼拝も公衆電話のまま…なのかもしれません。もちろん変わらない良さはあるでしょう。公衆電話にまだ価値があるように、伝統的な教会にも価値があるはずです。
でも私たちの教会は、20年後も、このままの形で存在しているでしょうか?それとも、人々の心のよりどころとして、新しい形に変わっているでしょうか?私は「古き良き」公衆電話の思い出を大切にしながらも、そこから一歩踏み出し、新しいコミュニケーションの形を模索したいと思っています。深めるのは、人間同士のコミュニケーション、神様とのコミュニケーションです。いろいろな方法を試しながら「これはふさわしい」「これはどうもうまくいかない」そんな風に深いコミュニケーションを探し続けたいのです。そうしないと公衆電話になってしまうからです。
様々な試みに挑戦することが大事だと思います。私たちはこれまで主の晩餐や聖書朗読など、参加型の礼拝を目指してきました。これらは神様と人々とのコミュニケーションがより深まってゆくための変化でした。この期間、一方的に受け取るだけではない、参加型の礼拝にチャレンジしてみたいと思います。ぜひみなさんも、こんな風にしたら、神様や人々とより深いつながりを持てるという礼拝のアイディアを教えてください。今日は聖書から変化とチャレンジについて考えたいと思います。
今日はマタイによる福音書13章31~34節までをお読みいただきました。種の話です。この話は伝統的には小さなものが大きくなるという理解で受け止められてきました。小さな信仰が世界を大きく動かす、小さな教会も続けてゆくことで大きな教会になれると読まれてきました。しかし今日は教会自体の維持・存続・拡大ということとは別の角度から読みたいと思います。新しいチャレンジについて、ここから受けとってゆきたいと思います。
聖書を読みましょう。古代の種まきは、いまよりずっとおおざっぱです。私たちが作物を作るように一粒ずつ丁寧に蒔くのではなく、種をつかんで土に投げていました。それは、とにかく数を蒔くという方法です。当然、蒔いたものが全て芽を出すわけではありません。だからこそたくさん蒔く必要があったでしょう。無駄も多くありました。でも必要な収穫を得るには、無駄を承知でたくさん蒔く必要があったのです。人々はケチらずに、収穫を信頼してたくさんの種をつかんで、惜しみなく蒔きました。新しい種を、惜しみなく蒔く人に、成長と収穫があったのです。
種は、持っているだけでは意味がありませんでした。種は年をおうごとに発芽率が下がってゆきます。種を種のまま持っていると、その価値はどんどん下がっていったのです。今あるものを大切に壺に取っておくこともできました。しかしそれを今蒔かないと発芽率が下がり、価値が下がったのです。惜しみなく蒔かれた種、そのいくつかが芽を出しました。そして、大きく育ちました。からし種は木と言うより藪のように成長するそうです。大きくなった藪はたくさんの動物の隠れ家となりました。命が集い、憩う場所になりました。生き物たちが宿る場所、みんなの居場所になりました。
この種のこと、私たちは今日どのように理解しましょうか?今月は礼拝というテーマで考えを巡らせてみましょう。教会にとって種とは何でしょうか?種とは――私たちの中に眠る、新しい可能性そのものではないでしょうか。教会はたくさんの種、たくさんの可能性を持っています。教会は惜しみなく様々なことを試すことが必要です。種まきが厳選した少数の種を蒔くのではなく、とにかくたくさん蒔いてみることが大事だったように。私たちはいろいろなあり方に挑戦をしてゆきたいのです。そして種を種のまま持っていても芽は出ません。種は蒔かないと芽を出しません。アイディアを持っているだけでは、何も始まりません。やってみないと芽が出るかどうかわからないのです。
いろいろな取り組みを試みるからこそ、芽が出るもの、出ないものがあるのです。うまくいくことと、いかないことがあるでしょう。しかし聖書は言っています。挑戦しなさいと。新しい礼拝へ、新しい神と人との出会いへ、私たちはいろいろな礼拝の持ち方、神と人とのコミュニケーションのあり方を、種蒔きの様に、大胆にチャレンジしてみてはどうでしょうか?
きっと全てが成功するわけではありません。でもいつかそのひとつが芽吹き、大きな藪になるはずです。そこが人々の癒しの場所となるはず。そこが人と人が出会い、神様と人が出会う場所になるはずです。教会はそのような場所になりたいのです。教会が、神様と人がより深く出会う場所となるため、たくさんの可能性を試したいのです。
私たちは公衆電話のままでいいのでしょうか?私たちは種を蒔き、深いコミュニケーション、神と人との深い出会いの場所を目指してゆきましょう。この言葉は私たちの教会の礼拝に向けられた言葉です。どんな礼拝なら、人と神様が、より深く、温かく出会うことができるのでしょうか。今日の礼拝が終わった後も、この問いを、ぜひあなたの心の中に持ち帰って考えてみてください。
そしてあなた自身のこととしても考えてみてください。あなたは小さな種をもっています。それは持っているだけではなく、今蒔くべき種です。種は時間が経つと芽を出さなくなります。「今、蒔いてみること」が大事です。さて今、あなたの心の中にある小さな「種」は何でしょうか?それを蒔くとしたら、それはどんな一歩になりますか?より深い人との出会い、神との出会いに向けて、できることは何ですか?すべての種が芽を出すわけではありません。でもそのいくつかが木となり、次の世代へと命をつなぐのです。
そしてこの後、主の晩餐を持ちます。これも神様とのコミュニケーションの一つです。全員でこのコミュニケーションに参加しましょう。1分の黙想を持ちます。それぞれに感じたこと、神様への応答をぜひカードに書いてみてください。