みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること神様に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。こどもの声は命の音です。今日も共に礼拝をしましょう。
今月は「礼拝」ということをテーマに宣教をしています。先週は、教会はどのようにしたら神様と人とのつながりをより深いものとしていゆけるかを考えました。神様とより深くつながるために、どんな礼拝ができるでしょうか?もっと神様とのつながり、人とのつながりを深くする礼拝を探し求めています。
礼拝に「完成版」というものはありません。いつも未完成であり続けます。これでよいと固定し、完成させてしまった瞬間から、神様とのつながりへの問いはなくなってしまいます。だからこそ、いつも試作品であることが大事です。
20年後に多くの教会がなくなるかもしれないという状況の中で、私たちの教会はどんな時を過ごし、どんな教会になっているのでしょうか?少し怖いですが20年後の教会を、一緒に想像してみましょう。どんな教会になっていると思いますか?
教会はあまり変わらないと思うでしょうか?では20年前の教会はどうだったでしょう?2005年9月18日の週報を見てみました。司会は今日と同じ古田さんです。週報には毎週「礼拝出席の心得」が記されていました。そのひとつにはこうあります。「礼拝にやむを得ず遅刻する場合はスリッパの音をたてない様に静かに後ろの席につきましょう。お祈りや説教の時には歩くことは厳に慎みましょう」少なくとも、こどもに足音についてはまったく正反対のことを言っています。こどもの足音は平和の音です。と呼びかけています。このように私たちの礼拝大きく変化をしています。
他にもこうあります「礼拝後に敬老祝福祈祷がございます、大先輩の方々の健康と主の祝福を祈りましょう」これは今日もかわらない。この後も敬老祝福祈祷をします。ずっとこの祈りを大切にし、続けています。
他にはこうあります。9月23日は半徹夜祈祷会があります。お誘いあわせてご出席ください。夜の何時まで祈っていたのでしょうか?どんな祈りがあったのでしょうか?
教会や礼拝のあり方は20年前と大きく変わってきています。神様はこのことをどう思っているでしょうか?ずっと今のままでいい、すべて今の礼拝がいい、いまの形が完成で、変えてはいけない。そうは思っていないはずです。神様はきっと、良い部分をもっと伸ばしなさいと招いておられます。もっとみんなで考えて、変えたりやめたりしてもいいと思っているはずです。
礼拝は同じ儀式を繰り返すことに価値があるのではありません。礼拝は、神様と私たちを結びつける時間です。大事なことはより深いつながりのために、試作品として、礼拝を試してゆくことです。変わってゆくことです。できることをすることです。私たちはいつもいろいろな試行錯誤を続けてゆきたいのです。
神様はその試みの中で良いものを残し、育ててくださいます。そして変えるべき部分を変え、やめるべき部分を取り去ってくれるでしょう。それは私たち一人一人の人生にも言えることでしょう。今日は聖書からそのことを見てゆきたいと思います。
今日はマタイによる福音書13章44~50節をお読みいただきました。今日は天の国のたとえという話です。このたとえは、天の国がどのようなものなのか、どのような事態なのかを伝えようとしています。天の国とは何だと思いますか?天の国とは死んだ後に行く場所ではありません。
天の国とは私たちの生きるこの地上で実現することです。天の国とは神様と人間の深い結びつきが実現している場所のことです。神様は死んだ後ではなく、この私たちがいま生きる地上での結び付きを大事にしています。このたとえは神様が私たちとどのような絆を持としているのかを教えています。
最初のたとえは、畑で宝物を見つけた人の話です。みなさんには、見つけたらどうしても欲しい物があるでしょうか?見つけたら、その土地を丸ごと買い上げたくなるような物です。彼は宝を見つけ、その喜びのあまり、畑全体を買い取りました。欲しいのは宝だけだったはずです。周りの畑にはそれほどの価値はありません。でも彼は一部分だけではなく、畑全体を買い上げたのです。
このたとえは神様と私たちが、どのような関係だと伝えているのでしょうか?神様は私たちの全てを受け止めてくださる方と言えるでしょう。神様は宝物も畑も全部、買い取ってくださるお方です。神様はあなたの良いところも弱いところも、全部抱きしめてくださるお方です。神は宝物だけをとって、捨てるのではありません。私たちのすべてを受け止めて下さるお方なのです。
二つ目のたとえは、真珠の話です。ある日商人は小さな一粒の真珠に出会います。そして彼はその一粒に人生のすべてをかけようとするのです。ここでどのような神様と人の関係が書かれているでしょうか?神様はあなたのいいところ、そのひとつに全力を傾けるお方です。あなたの小さくても素晴らしいところを、神様は誰よりも早く見つけ、そこにすべての愛を注ぐお方です。神はあなたという人間を、丸ごとの総合評価で見るのではありません。あなたの心の奥の小さな真珠を、神様は必ず見つけ、愛を注がれます。
三つ目のたとえは魚の話です。ある人がたくさんの魚を獲りました。彼は良い魚は器に入れます。しかし悪い魚は捨て、燃え盛る炉の中に投げ込みます。悪い魚は火で焼かれ泣きわめきます。このたとえはどんなことを語っているのでしょうか?
もし私自身を一匹の魚に置き換えるなら、私は悪い魚としてすぐに投げ捨てられ、丸焼きにされてしまうでしょう。この中で、私は捨てられず、焼かれずに済むという人はいますか?この話を「誰が悪い人で、誰が良い人か」を振り分ける話だとするなら、話は成立しません。それでは誰一人残れません。
この話は、神を信じる人と信じない人が、ある日最後の審判の日に二つに選り分けられ、一方は天国、残りは地獄という話でもありません。
このたとえは、私たちの中にある、良い部分と悪い部分と理解ができるでしょう。神様に出会った私たちは、神様によって、私たちの心の中にある、悪い部分をすべて選り分けられ、焼き尽くされるのです。そして私たちの心の良い部分だけが残されるのです。それが神様の愛、導きです。そのように私の心は選り分けられてゆくのです。そのような、神様と深い関係の中に天の国があるのです。
この三つのたとえは、少しずつ違うことを語っています。神様は全てを受け止め、小さな良いものを見つけ愛を注ぎます。そして良い部分だけを残すのです。これが私たちに示された天の国です。
私たちは礼拝について考えています。この礼拝も同じでしょう。神様は、畑すべてを買い取る様に、私たちの礼拝のすべてを受け止めてくださるでしょう。神様は小さな真珠を探し出し、買い取るように、私たちの小さな礼拝を見つめ、その礼拝に愛を注いでくださるでしょう。そして神様は良い魚と悪い魚を分ける様に、私たちの礼拝を変えて下さるでしょう。終えるべきもの、変えるべきもの伝え、良いものだけを残してくださるでしょう。
私たちの礼拝は神様にそのように受け止められながら繰り返されています。この礼拝はそのすべてが畑と宝のように受け止められています。この礼拝は小さな真珠のように見えても、神様が必ず見つけ、受け止めてくださいます。この礼拝は変えらながら歩んでゆきます。神様が良いものと、悪いものを分け、良いものを残してくださるのです。私たちは礼拝のすべてを大切なものとして献げながら、そして礼拝を変えながら歩んでゆきましょう。
今日の個所、みなさん自身の人生にはどう響くでしょうか?みなさん自身と神様の関係について考えてみてください。神様はあなたの中に宝物を見つけてくださるお方です。神様は、あなたは私の宝物なのだよと言っています。そして全部を受け止めてくださいます。
みなさんの中にはどんな真珠があるでしょうか?小さくて誰も気づないようなあなたの良いところです。「私には何もない」と思いますか?でも神様は知っています。神様は、世界中から一粒の真珠を探し出すように、あなたの小さな良いところを見つけ、すべてをかけて受け止めるよと言っています。それほど、あなたを価値のあるものとしています。自信を持って生きて下さい。
そして神様は神様はあなたの良い部分を輝かせ、悪い部分を焼き尽くしてくださると約束しています、あなたの中の良い事だけをのばし、悪い事だけを滅ぼされるのです。みなさんはそのように神様に導かれて生きるのです。みなさんの先に待っているのは裁きではなく、救いです。天の国です。神様とのきずなが待っているのです。それを確かめながら、この礼拝をしましょう。
今日の問いです。あなたの心には、どんな真珠が眠っていますか??どんなに小さくて見つからなくても、神様は見つけて下さいます。では、みなさん自身は何を宝としますか?何を宝として、何を真珠として、何をいらないものとしますか?神様は私たちにそれをどのように教えてくださるのでしょうか?
教会の礼拝はどのように変わってゆくのでしょうか?変わらずに続くことは何だと思いますか?神様はこの教会の何を宝、真珠としてくださるのでしょうか?何を変えていいというのでしょうか。みなさんはこの個所をどう受け止めるでしょうか?教会とみなさんの人生に神様はどのように絆を持とうとしているのでしょうか?
(1分間の黙想)
祈ります。