みなさん、おはようございます。今日もこうして、みんなで神様に向かえることを感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。今日もこどもたちの声を聞きながら共に礼拝をしましょう。今、この瞬間を大切にしましょう。
今月は「礼拝」をテーマにお話をしています。私たちは、なぜ礼拝をするのでしょう?ただの習慣でしょうか?それとももっとあなたの人生にとって、深い意味があるのでしょうか?礼拝は神様と人との、人と人との結びつきを強めるためのものです。その結びつきを深めるために礼拝をしています。そして私たちは今月、どんな礼拝をすれば、もっとその結びつきが強くできるのかを考えながら礼拝をしています。講壇を無くしてみたり、下に降りてみたり、神様への応答カードを書くようにしてみたり、いろいろことを試しています。
大きな方向性としては参加する要素を強くした礼拝を目指して、いろいろなことにチャレンジしています。そして20年後の形を想像しながら、これからの礼拝のことを考えてきました。
これまで礼拝は、牧師の話をただ聞いて帰る場所、と感じていた方も多いかもしれません。礼拝はどこか受け身なものとされてきました。牧師や司会者が話し、参加者は静かに聞くだけ――そんな構図が長く続いてきました。牧師が立つ場所と、皆さんが座る場所。その間には、目に見えない壁があったかもしれません。もちろん礼拝は牧師の講演会ではありません。一人一人が牧師を通じて神様につながるのではありません。一人一人は直接、神様とのつながりを持つことができるのです。そして一人一人に神様の愛が直接示されてゆくのです。みなさん一人一人がより、神様とのつながりを感じることができる礼拝にしてゆきたいと願っています。そのような、参加型の礼拝を目指したいと思っています。
いろいろ試していますが、最近の礼拝を通して、みなさんはどんな思いや発見をしてきたでしょうか?来週の信徒会では皆さんの感想と意見を分かち合う時を持ちたいと思います。私たちの礼拝はこれが最高、今が最高ではなく、もっと良いものにしていけるはずです。私たちの礼拝には、きっと見落としている要素があるはずです。主の晩餐に全員で参加するということも大きな変化です。それは今まで参加したことがない人がどうしたらもっと参加できるようになるかを考えるという出来事でした。
礼拝も宣教も、一方的に受け取るものではなく、一人一人が近くで味わい、共に作るものです。聞くだけではなく、参加する要素を探し求め、旅をしてゆきたいのです。
神様とのより深い関係、人とのより深い関係のために礼拝について考えたいのです。今日は参加型の礼拝という視点でこの個所を読み直してみましょう。その時、この個所はどんな風に聞こえるのでしょうか?私たちの礼拝をもっと深いものとしてゆくために欠けている事、加えてゆくべきこと、やめるべきことはなんでしょうか?一緒に考える時にしましょう。
今日はマタイによる福音書18章10~14節をお読みいただきました。聖書のたとえ話はこうです。ある時、100匹の羊と一人の羊飼いがいました。しかし1匹足りません。1匹が欠けて99匹になってしまいました。1匹は迷子になってしまったのです。一人の羊飼いは99匹を山に置いて、危険にさらして、1匹を探しに出てゆきました。そして1匹を探し出し、見つけました。そこには大きな喜びがあったというたとえ話です。
この話は多くの場合、羊飼い=神様、1匹の羊=私と解釈をされてきました。神様がはぐれた1匹の羊のような「私」を探し出してくれると理解されてきました。神様が99匹を残し、はぐれた1匹を探す姿は、とても心温まる話です。神様の愛、神様と私の深い関係を感じさせる話です。
しかし一方で、1匹の羊を私とする解釈は、聖書の個人主義的な解釈にもつながります。その時神様は、他者を置いて私だけに関わる姿が想定されます。神様は私を探し、私にどうかかわるかが中心に置かれたのです。それはとても大事な視点ですが、それでは神様が「私だけ」を見つめる存在であり「私だけ」を愛する神であり「他者よりも私を優先する神様」という解釈にもなります。この読み方には、何か大切なものが欠けていないでしょうか?それは、「私」以外の、他の99匹の羊たちの視点です。
今日は、この物語を、私たち一人ひとりが集まった「共同体」として読んでみませんか?99匹と1匹の関係に目を向けてみましょう。まず迷子になった1匹を探すという決断は誰の決断だと思うでしょうか?一人のリーダーの勇敢な決断だったのでしょうか?99匹はそれに黙って従い、主人の帰りを待ったのでしょうか?それでは受け身です。
もっとバプテストらしい民主主義を大切にする読み方はないでしょうか?それは一人のリーダーの勇敢な決断を受け入れるという読み方ではなく、100匹の共同体の選びとして読む読み方です。今日は99匹の視点から読んでみたいと思います。
ある時、99匹のうちの誰かが、1匹足りないということに気付きました。それは一人のリーダーの二つの目だけでは気づけないことでした。99匹の多くの目があるからこそ、一匹の不足に気付くことができました。彼らは相談をし、その1匹を探しだすことを決断したのです。そして99匹が羊飼いを派遣する決断したのです。
99匹の総意は、1匹を探すことでした。もちろん99匹の中には様々な意見や立場があったはずです。羊飼いが探しに出ることに不満の声もあったでしょう。今までこのペースで進んできた、そのやり方を変えるべきではない。私は一生懸命ついてきたのに遅れるのはおかしい、追いかけるのはおかしい。遅い羊に合わせたらいつまでも進まずたどり着かない。置いて行かれる99匹の危険も考慮すべきだ。
単純な利害関係だけの多数決なら、このまま進む、見捨てるという一択しかなかったでしょう。しかし99匹はそのような決断をしませんでした。99匹はよく話し合ったのです。そしてやはり1匹でも欠けるのは良くないという結論に達しました。そして羊飼いにあの1匹を追わせようと決断し、派遣したのです。
99匹はいろいろな立場があったけれど、それぞれに納得して1匹を探し求めることにしました。99匹は、どうしてそんな決断ができたのでしょうか?それは14節「一人でも滅びることは神様の御心ではない」と知っていたからです。99匹は1匹も欠けることなく全員でゴールを目指そうと思ったのです。そしてそのために一人の羊飼いを送り出したのです。その選択が100匹にとって、自分たちと神様、お互いの良い関係につながると思ったからです。それは自分達の中に欠けているひとつものを探す旅の始まりでした。
羊飼いが探したのは、たった1つ。しかし決して小さくない“欠け”でした。99で十分だったのかもしれません。でも1足りない、その欠けているひとつのものを探し求めたのです。どこにあるのか、それが欠けている事にはどんな意味があるのか?その欠けの意味を考えながら、探し求めたのです。
すぐに見つかったわけではないでしょう。彼はそれが見つかるまで探し求めました。森の奥、川のほとり、岩陰…。行き先を変えながら、必死に探し続けました。
そして羊飼いはその1つの欠けをようやく見つけ出しました。そして大喜びで99匹のもとに帰っていったのです。きっと99匹の仲間も喜んだでしょう。「探してよかった!」仲間たちは声をあげ、胸を熱くしたに違いありません。まるでパズルの最後の1ピースのようにそれを喜んだのです。
この99匹の物語を私たちと重ねてみましょう。私たちが99匹だとすると、私たちに欠けているたった1つのものとは何でしょうか?私たちはそれを探し求めたいのです。私たちの礼拝には、どんな部分が抜け落ちているのでしょう? その穴をどう見つけますか?
私たちの礼拝も99なのかもしれません。100に限りなく近いのでしょう。でも私たちの礼拝で何か置いてきてしまった要素があるのではないでしょうか?私たちが礼拝の中で置き忘れてきてしまったものは何でしょうか?いろいろ試行錯誤します。そんな私たちは今、1匹の羊を探す羊飼いの様に、失ったものを探す旅の途中にいるのです。
私たちは今、礼拝に欠けているものを探す旅人なのです。その旅の先に小さな出会い、でもみんなで喜び合える出会いがあるのだと信じています。今、私たちはその旅の途中です。
今日、この物語は私たちにどんな挑戦を投げかけているでしょうか?私たちの礼拝に欠けているものは何でしょうか?礼拝でもっとこうすることが、神様の御心だと思えることは一体、何でしょうか?これまでに礼拝が99だとするなら、もし99にもうひとつを加えるなら、それはどんな1でしょうか?欠けているものは何でしょうか?残りの1を探し求める礼拝とはどんな礼拝でしょうか?神様は私たちにそれを探し求める旅に出る様に促しているのではないでしょうか?その1を見つけるために、御心のために。共同体として、私たちとして、99匹として、どうやってそれを探していったらよいのでしょうか?この問いを、私たちみんなで一緒に考え、分かち合いましょう。みなさんのアイディアを聞かせて下さい。
そしてそれぞれの場所にいるみなさん一人一人のこととしてもとらえてみましょう。きっとみなさんの戻られる場所があるはずです。家族や仲間、職場や学校という共同体があるでしょう。みなさんのいる共同体もきっと99匹の共同体です。みなさんはそれぞれの場所の中で、どのように欠けたものを探し、見つけることができるのでしょうか?この1週間、みなさん自身も小さな1を探す旅に出てみませんか?あなたの家族や、職場、学校。その99匹の中に、残された1匹の羊はいないでしょうか?どこに残された1匹の羊を見つけるでしょうか?あなたには、思いがけない喜びと感動が待っているはずです。
黙想の時を持ちます。心に残った言葉を、そっと神様に献げてみてください。
祈ります。