【全文】「礼拝ー神との絆ー」マタイ18章25~31節

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること、神様に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。今日もこどもたちの声・命と一緒に礼拝を献げましょう。

今月はここまで3回、礼拝について考えてきました。礼拝は目的ではなく手段です。神様とのつながりを持つためのものです。礼拝は良いものを求めて変わり続けてゆくものです。私たちは今の礼拝に欠けているものを探しています。3回の礼拝でどんなことをお感じになったでしょうか?そして私たちは聞くだけではない、一人一人によって形作られる礼拝、参加型の礼拝を目指しています。

礼拝は神と人とのつながり、人と人とのつながりを考える時間です。私たちはどうしたらもっと深く神様と、他者とつながることができるのでしょうか?そのために普段とは違うことに取り組んできました。みなさんは教会のために礼拝に来るのではないはずです。神様や他者とのよりよい関係のために礼拝に来ています。今日も礼拝とは何か?もう一度問いかけながら聖書の言葉に耳を傾けましょう。

さて私たちの日常にある人と人との関係から考えてみましょう。人と人との関係は嬉しい時もありますが、難しさもあるものです。特にお金が絡むと問題は急に複雑になります。みなさんは友達や親せきにお金を貸したことがありますか?そのお金はかえってきましたか?返ってこなかった時、どんな気持ちになりましたか?怒りですか?悲しみですか?もうあの人は信用できないという気持ちでしょうか? 正直に言うと、牧師である私は、お金があればかなり多くの問題が解決すると思っています。ホームレスの問題も、教会の建物の問題も、家族の問題も。お金があれば解決することが多いのです。

お金は人を助ける力を持っています。しかし同時に人と人との信頼関係を壊す力も持っています。お金は人と人との関係を少しずつ、でも確実に変えてゆきます。お金の貸し借りで壊れる友情、遺産の相続で仲が裂ける家族、お金を間に置いた人間関係はとても壊れやすいのです。そこまでにどれだけ深くて長い関係があっても、お金で関係が壊れます。「お金の切れ目が縁の切れ目」という言葉は現実を言い当てています。お金を間において、人間は仲良くし続けることができないのです。お金の貸し借りで信頼関係が深まることは、ほとんどありません。基本的に教会員同士のお金の貸し借りはやめしましょう。もし必要なら誰か一人ではなく、みんなで助けることにしましょう。

聖書にもそんな人間の姿を映し出す物語があります。今日はみなさんがよく知っている人間の関係の難しさ、複雑さを一緒に考えます。そしてそれとまったく正反対であるまっすぐな神様の愛、単純で分かりやすい神様の愛、その深さ、広さを考えてみましょう。その中でどのように礼拝をするのかを考えたいと思います。一緒に聖書を読みましょう。

 

 

 

今日はマタイによる福音書18章21~35節までをお読みいただきました。聖書の難しいたとえ話の一つです。ある時、王様は決算をすることにしました。そこで家来の一人が1万タラントン、現代にすれば6000億円、国家予算規模の莫大な借り入れを返済できなくなりました。王は激しく怒ります。家族も財産もすべてを売り払い徹底的に回収しようとします。それが普通の王の姿でしょう。それでも6000億円の借金に対しては、これらは大したお金になりません。お金の問題というよりは、信頼が裏切られたことへの強い報復感情による行動です。これが普通の人間の行動です。

しかし物語に出て来る王は違いました。あまりにも寛大すぎるのです。王は憐れに思い、なんと返済を待つどころか、借金を帳消しました。驚きの行動です。王の行動は信じられないほどに寛大です。王はこれまでの関係に戻ろうとしたのです。しかし赦された家来は、ほんの小さな額の借金の返済を、きっちり取り立てようとしました。それを聞いた王は激しく怒り、家来を牢屋に入れました。この金額の返済は無理です。おそらく一生牢獄で過ごしたのでしょう。

伝統的に教会はこの個所を「だからあなたもすぐに赦しなさい」と解釈してきました。あなたが赦されているのだから、あの人がどんなにあなたにひどい事をしたとしても水に流しなさい、忘れなさいと教えてきました。それは確かにに憎しみと復讐からの解放の教えでした。しかしこの読み方は危うさもあります。被害者にとって、すぐに赦しなさいという言葉は、本人の痛みを無視した赦しの押し付けとなってきました。教会はその痛みに無関心だったのです。教会は時に「泣き寝入りしなさい」と同じ響きを持つ言葉を語り、権力者たちの不正を温存させてきました。赦しはそんなに簡単ではありません。クリスチャンは相手をただ赦すだけではなく、周囲から失った信頼を取り戻せるような謝罪や行動を強く促すべきでしょう。だからこの個所は「あなたもすぐに赦しなさい」と読まないことが大事です。

今日はこれまでとは違う読み方をしましょう。ここから私たちは何を感じ取り、どんな問いを持つでしょうか?今日のこの物語の中心はなんでしょうか?赦されたのに赦さない家来が中心のように見えます。しかしこの王が神様を示しているのなら、この物語の中心は王です。この物語の中心点は王の驚くほど寛大な行動です。王の行動に注目をします。通常、借金が返済できないという事態がもたらすのは経済的な損失だけではありません。それよりももっと大きな影響は人間同士の信頼関係の破断です。約束が果たせないことは、この王と家来の関係の破断を招きました。そうです、お金を間に挟む関係は難しいものです。普通の王はこう考えるはずです。もうこれはお金の問題ではない。私はもうお前を信用できないのだ。たとえお金を返したとしても、もうお前に用は無い。

しかしこの王は他の王と大きく違いました。王は非常に寛大な行動をとります。王は借金を帳消しにするというのです。この王は変わり者です。王は借金を免除し、さらに家来に対して、これまでと変わらない関係を築こうとしました。家来はもう王様に一生、頭が上がらなかったでしょう。何とかして恩に報いなければならない。王の行動は乗り越えられるはずのない借金問題を乗り越えて、二人の信頼関係をより深くしたはずです。こんなことは私たちの生きる世界では現実には起こりません。人間の世界では考えられない行動です。でもこれが神様の姿を映し出しています。

今日の個所からどんなことを読み取ることができるでしょうか?ひとつ読み取ることができるのは、これが神様の提案する、神と人との関係だということです。神様はたとえあなたがどんなに罪深い人間で、あなたがどれだけお金にだらしない人間で、あなたがどれだけ約束を守れない人間だったとしても、あなたとの関係を諦めないということです。神様はもうあなたとは関わりたくないと言わないお方です。神様はどんなに欠けのあるあなたとも、関係をより一層強いものにしたいと提案をしています。神様はあなたの悪いところ、ダメなところ、欠けのあるところ、その一切を丸ごと引き受けて、愛し、これからずっと、もっと深くつながろうとしているのです。

お金の絡む人間関係は複雑で難しいものです。でも神様との関係は違います。神様と人間の関係は驚くほど単純で、驚くほど確かなものです。その関係はどんなことがあっても途切れることがないのです。人間関係は大小さまざまな問題で断裂します。でも神と人との関係は人間同士の関係を超越した、深い関係なのです。

ここには神様の強い愛が示されています。神様はあなたを愛し、何があっても深い絆を持ち続けようとするのです。神様が罪深い私に関わり続けてくださるのです。それはどんな問題も破ることができない強い絆です。

私たちは神の愛の深さがわからないかもしれません。でも人間関係のもろさ、悲しみならすぐに想像ができるでしょう。神様は私たちを、そのもろさの何倍も、深い愛で、包み込んでくださるのです。

今月は礼拝という視点で聖書を読んでいます。私たちの礼拝とは何でしょうか?礼拝はそのような神との深い結びつき、絆を確かめる時間です。私たちは礼拝で、決して途切れることのない神様のとの強い絆を確かめます。私たちは礼拝で神様の大きすぎる恵みに包まれていることを思い出します。神様は特定の誰かとの絆を大切にするのではありません。神様は、一人一人、あなたと直接の絆を大切にするのです。礼拝はその絆を確かめるときなのです。

その絆は確かなものです。人間の問題の複雑さをひっくり返して考えてみてください。神の愛はまっすぐで、決して切れません。神様の愛は単純で深いものです。あなたの悩みは深いでしょう。けれどもそれよりも圧倒的な深さで神様はあなたを愛しているのです。神様はあなたを大切に思っているのです。だから前に一歩、進んでみましょう。

今日のみ言葉からみなさんに問いかけをします。あなたは今どのように人間関係に悩み、もがいていますか?お金の問題で心が重くなっていませんか?赦せない相手の顔が思い浮かぶでしょうか?そのような毎日の中で、あなたはどこに神様の愛を感じますか?どうすればこの礼拝でそれを感じることができるでしょうか?礼拝で神様との絆をもっと感じるにはどうしたらいいと思いますか?

礼拝は私たちが神様に近づくだけではなく、神様が私たちに近づいてくださる時間です。人間の複雑で壊れやすい関係を超えて、神様の愛は真っすぐに私たちに注がれます。その愛はほどけることのない愛です。心の中の悩みや葛藤を神様の前に差し出しましょう。そして神様が見捨てないことを思い出しましょう。黙想の時間を持ちます。