【全文】「教会とSDGs」マタイ20章1~15節

 

みなさんおはようございます。今日もこうして共に礼拝できること、神様に感謝します。私たちはこどもの声が響く教会です。今日もこどもたちと一緒に礼拝を献げましょう。9月は礼拝について考えていました。どちらかというとそれは、教会の中のことだったかもしれません。今月はそれと正反対に教会の外、世界について聖書から考えたいと思います。特に10月はSDGsをテーマとしながら聖書を読んでゆきたいと思います。SDGsは「誰も取り残さない」ための17の目標です。人権も、経済も、地球も。そのすべてを守ろうという世界の目標です。目標は単に途上国を支援するということだけではなく、先進国や企業にも社会的な責任を求めています。教会はこの世界と無関係ではありません。神の家族として、私たちはどう世界に関わったらよいのでしょうか?

17個の目標の8番目は「働きがいと経済成長を実現する」というものです。「誰もが人間らしく生産的な仕事ができる社会を作ろう」とあります。その中で特に取り上げられているのは、児童労働の問題についてです。今、世界では10人に1人近い子どもが、学ぶ代わりに働かされています。児童労働とは、家事の手伝いの範囲を超えて、こどもたちが働くことです。無償や安い賃金で雇用され、仕事をしなければいけない環境のことです。児童労働は様々な問題を生みます。まず児童労働は学ぶ時間を奪います。その結果、貧しさと不平等が親から子へ、子から孫へと連鎖してしまうのです。児童労働は生産性が低く、経済成長も弱めます。児童労働を行った本人は、こども時代だけでなく、その後の人生においても、健康を損ないます。児童労働は持続可能な世界とまったく正反対のものです。

もっとも児童労働が多いのは農業だと言われます。特に大規模な児童労働はガーナのカカオ農園です。カカオは児童労働によって支えられる代表的な作物です。ガーナでは、ランドセルを背負うはずの子どもが、農園で重い荷物を背負っています。そのカカオをチョコレートにして食べているのは私たちです。こどもたちが働かなければいけない理由は、先進国がカカオを安く買いたたくからです。カカオ農家はどんなに働いても豊かにならず、安いこどもの労働力に頼るしかありません。子どもたちが農薬をまき、重いものを運んでいます。その子は誰のために汗を流しているのでしょうか?その他にもレアメタルの鉱山で働かされる子供も多くいます。このような世界で私たちは何ができるでしょうか?例えば子どもがよく食べるブラックサンダーは児童労働の関わるカカオを使わないと宣言しています。

私たちは自分達の身の回りのものが、どのように作られ、売られているのかに興味を持った方がいいのかもしれません。製品だけではなく、働いている人の状況や、世界の構造に目を向けるべきです。このことは最近のお米の高騰からも気づかされることです。

聖書はどうでしょうか?聖書は心の奥だけではなく、この世界の現実についても語ります。聖書もまた世界をどう見るのかを私達に問いかけています。今日は教会とSDGsについて考えたいと思います。

 

 

マタイによる福音書20章1~16節をお読みいただきました。イエスは農村地帯に生まれ育ちました。だから農業に関するたとえ話を多くしました。今日はぶどうの収穫のたとえ話です。ぶどうの収穫の時期、熟したぶどうをすばやく収穫しなければいけません。ぶどうの収穫は村中が忙しくなる大イベントでした。人手が最も足りない時期です。朝からたくさんの人が雇われました。足りなければ、午後からでも人を雇って、収穫はすすめられました。そんな忙しいさなか、夕方になっても、まだ声がかからない人がいました。村中が働いているのに、ただ一人。取り残された人です。彼は村中が忙しくしている中でひとりだけ、声がかからなかったのです。残されている間、彼の胸にあった気持ちはどんなものでしょうか?恥ずかしさ?孤独?「自分なんて必要とされない人間なのか」という痛みでしょうか。そこに再び農園の主人が現れ、声をかけました。「あなたも来なさい」。彼は主人の声にほっとしたでしょう。喜び、一生懸命働いたでしょう。

そして日当を払う時間になりました。本来、日当は早くから来て、長く働いた人から順番に支払われるものです。しかし渡される順番は反対になりました。最後に来た自分から日当を受け取ったのです。そしてなんと、全員が同じ賃金でした。朝から汗を流した人も、夕方から来た私も同じ日当でした。早くから働いた人は、これに抗議の声を上げました。しかし主人は言いました。「いくら払うかは私の自由だ」。その言葉は、慰めでしょうか?それとも横暴でしょうか? 

このたとえ、伝統的には主人=神、労働者=人間と解釈されてきました。神様の愛は、取り残された人に豊かに注ぐのです。神様は業績主義、成果主義ではありません。神様は多くの良い事をしたら、多くの良いものがあたえられる、できない人には与えられないという方ではないのです。ここから神様の愛のあり方が読み解かれてきました。それはとても共感できる教えです。神様の温かい包容力が伝わってくる話です。イエスのこれまでの言動から考えても、確かに誰ひとりも取り残されない大切さが語られたのでしょう。神様は取り残され、役に立たないといわれる人に声をかけ、役割を与え、用いて、恵みをくださるお方なのです。

しかし、このたとえにはもう一つ見落としてはいけない背景が隠されています。それは労働問題の側面です。労働問題の視点からこの個所を捉えると、別のものが見えてきます。私はイエスは、ただ神様の愛の温かさを表しただけではなく、同時に現実の問題も指摘していると思います。みなさんは、このたとえの主人は本当に神様だと思いますか?不公平だと感じませんか?これが神様の目指す姿なのでしょうか?このようなあり方は持続可能でしょうか?これは労働者の自尊心を奪う行為だったはずです。

労働の問題を視点に加え考えましょう。その日1日の仕事を求める、日雇い労働者が集まる場所があったはずです。まず想像するのは雇用主側の視点です。雇用者が真っ先に欲しがるのはどんな人でしょうか?まず欲しいのは安い労働力です。多少効率が悪くても、日当が安くすむ人の方を選びます。人件費は安ければ、安い方がいいのです。言葉が通じるかどうか、筋肉がモリモリかどうか、能力があるかどうかよりも重要なのは安さです。文句をいわず安く働く人を求めます。主人は「こいつなら安く働きそうだ」そういう人に声をかけました。黙って、安く働きそうな人から順番に声をかけたのです。十分想像できます。仕事を求める場所にはさまざまな人が集まりました。想像力を働かせます。そこにこどもはいたでしょうか?そこにもきっと学校に行かずに働かざるを得ないこどもがいたはずです。

こどもこそ真っ先に雇用されたかもしれません。安い給料で文句を言わないで従うからです。今も世界でこどもの労働が蔓延しているように、このぶどう畑でもこどもたちが働かされたでしょうか。安い労働力として真っ先に採用されて、長く働かされたでしょうか。そして最後に支払われたのは不当にも、後から来た大人と同じ給料だったのです。勇気のあるこどもが声をあげました。「おかしいじゃないか。私たちだけ安く働かされているではないか?」と。でもすぐに主人に恫喝されました。給料は俺が決める、俺の好きなように払って何が悪いと。圧倒的に強い立場の雇用者が、自らの正しさを振りかざし、自分の思う様に給与を決めてゆきました。好みの人間に高い給与を払ってゆきました。それが奪ったものはなんでしょうか?それは人々の働きがいを奪いました。やる気を奪いました。農業全体の発展を奪いました。これは持続的な方法でしょうか? 

この主人は、人のやる気を見事にしぼませる天才でした。そんな人、みなさんの周りにもいませんか?不公平な職場、ありませんか?お給料はこれでいいのかと思う時がありますか?「私は正当に扱われていない」。その感覚はとても大事です。不平等への敏感さは、人を守る力になります。それはこのままの社会でいいの?という疑問につながるはずです。私たちは気前の良さをアピールする社長に従えばいいのでしょうか?どう思いますか?この話は神様の愛だけを示しているのでしょうか?もちろんここからは神様の愛が語られています。それは疑いのない事でしょう。弱いもの、置いてゆかれるもの、忘れられる者、後回しにされる者に神様の愛は注がれるのです。

でもこのたとえが投げかけているのはそれだけではありません。同時にこのたとえの中には不平等やひずみに苦しむ人々が描かれているのではないでしょうか?神様は弱いもの、後回しにされるもの、小さいこどもを愛するお方、では地上ではどう?と問いかけています。神様の愛はこんなにも無条件に注がれるのに、地上はどう?こんな不公平なことがあっていいの?地上にはこんな横暴な主人がたくさんいるんじゃない?アフリカの子どもが働き、私たちが安くチョコレートを食べる。この世界のままで、いいのでしょうか?

この後主の晩餐を持ちます。誰ひとり取り残されず、このパンとブドウジュースを頂きましょう。どんな気持ちでそれを食べますか?

私たちこそこの主人のように、カカオ農場でこどもを不当に働かせていない?聖書は、私たちに問いかけています。「あなたは、この主人と同じではないか?」と。

聖書は最後に「あなたはわたしの気前のよさをねたむのか?」という問いかけで終わっています。あなたはこの主人をどう思いますか?憧れますか?ねたみますか?どちらでしょうか?