【全文】「感謝して分かち合う」マタイ19章16~30節

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること感謝します。私たちはこどもの声が響く教会です。今日もこどもたちから生きる力を頂きながら礼拝をしましょう。今日は収穫感謝礼拝の日、そして同時にバプテスマ式の日でもあります。この2つの恵みを共に喜び、分かち合いましょう。テーブルには教会の庭でとれた柿やこの後、分かち合って食べる果物が並んでいます。たくさん教会の仲間たちと喜びを分かち合いましょう。

今日誰よりもこのバプテスマを喜んでいるのは、神様でしょう。彼は小さい頃キリスト教の幼稚園に通っていました。そこで神様は彼の心に本当に小さな種を蒔きました。そしてその種はしばらくはじっとしていました。そして何十年もたった今日、その芽が出てきたのです。それはとっても不思議な出来事です。心の中にずっと秘められてきた種が芽吹いたのです。芽吹く時期やきっかけは人それぞれです。神様の働きです。それは本人の頑張りを超えたものです。命の神秘、神様の神秘、感動のスタートです。このバプテスマは清められ聖なる存在になる儀式ではありません。人より一つ上のランクになる儀式ではありません。完全な人になる儀式でもありません。バプテスマを受けてもまだ私たちと同じ様に何かが足りない人間です。欠けのある人間のままです。

だからこそ、これからが大事です。これから、神様からの光と栄養をたっぷり受けて続けてください。そして少しずつで良い、太くて大きな木になって欲しいのです。この教会の先輩方のようなどっしりとした樹齢何十年の大木のような信仰を持って欲しいのです。神様は、きっとそのように導いてくださるでしょう。あなたがさらに豊かな実りをつけるように導くでしょう。みんながあなたの歩みを見守り、支え、祈っています。本当におめでとうございます。

今日は収穫に感謝しながら聖書を読みたいと思います。そしてこの時を「私が」恵まれていることに感謝するのではなく「誰かと」この恵みを感謝し、分かち合う時にしたいと思っています。私一人が味わうのではなく、共に味わいたいのです。共に生きてゆきたい、互いと神様に感謝しながら生きてゆきたいと思います。今日は感謝と分かち合いを聖書から読んで行きましょう。 

今日はマタイによる福音書19章16~30節までをお読みいただきました。今日はある金持ちの青年の話です。

伝統的にこの個所は所有の放棄の命令と読まれてきました。カトリックの修道院はこの聖句を元に発展します。完全な形での所有の放棄を求めて、人里離れた場所にこもって自給自足の生活を実践しました。何も持たずに生きる、それはなんと素晴らしい生活でしょうか。でもすべての人がそれをできるわけではありませんでした。この方法は人間を二つに分けてしまいました。それは完全に所有を放棄した人と、そうでない普通の人です。所有を放棄した人はその生活を続ければよいでしょう。しかし普通の人はどうしたらよいかわからないのです。所有を放棄できない普通の人はどうこの個所を受け止めたら良いのでしょうか?

私たちはどのように読みましょう?私たちは完全に富を放棄することはできません。でもそれを特別な人がする、すごいことで私には関係のない事とは考えたくありません。私たちは所有と放棄の間を生きなければなりません。そうです。所有と放棄の間の「分かち合う」を軸にこの物語を読んで行きたいのです。

ある時、金持ちの青年がいました。彼はとても神様の教えに忠実に生きた人でした。そして彼にはたくさんのものがありました。お金、きっとそれは家柄の良さから来たものでしょう。性格、若さ、健康、家族との良好な関係、掟を守る心の強さ、容姿や体格、コミュニケーション能力、高収入、高学歴、高身長・・・。たくさんの才能と環境に恵まれてきた人です。今風に言えばハイスペック男子でしょうか。

もちろん彼自身が頑張りもあるでしょう。彼の「そういうことはみな守ってきました」という発言からはあふれる自信が伝わってきます。ちょっと自慢もあるかもしれません。誰もがこの青年を見て、うらやましいと思ったでしょう。でも彼自身が思ったのです。「自分にはまだ何か欠けている」。自分にまだ何かが足りない。自分の人生を真に豊かにするために、まだ何かが足りないと思ったのです。そしてイエスに、それが何なのかを聞いたのです。

イエスは応えます「持ち物を売り払って、貧しい人々に施しなさい」「それから私に従いなさい」。彼はそれを聞いたときどのような気持ちだったでしょうか。彼は深く悲しみ、その場を去って行きました。たくさんのものを持つ自分に足りないものを、鋭く指摘された彼は何の言葉も残さずに、悲しみながら、黙って立ち去って行ったのです。

そしてイエスは言います。「金持ちが天の国に入るのは、ラクダが針の穴をとおるより難しい」。ペテロや他の弟子たちはこのやりとりを見て驚きました。彼ほどに沢山の才能と、恵まれた環境に生きている人はいない。あの素晴らしい青年が、天の国、神様に近い場所に行くことができないのなら、もはや誰がそこに行けるのだろうか。私たちのような普通の者には到底無理だ。誰が救われるだろうかと思ったのです。

イエスがこの物語で教えていること、みなさんは何だと思うでしょうか?私たちには一切の所有を放棄することはできません。そのような不完全な私たちです。でも私たちは欠けがありながらも少しでもそれに近づく道があります。それが分かち合って生きるという生き方ではないでしょうか?

少し極端な例かもしれませんが、イエスが伝えようとしているのは、分かち合って生きることと言えるでしょう。私たちはどんな風に分かち合いができるでしょうか?分かち合うことができるのはお金だけではありません。

たとえば煮物を隣の家におすそ分けすることも分かち合いです。病院の待合室で、隣の人の話を少し聞いてあげることもそうです。孫の写真を見せ合って笑うこと。一緒に祈ること。不安の中にいる人の話を聞くのも不安を分かち合うことでしょう。どれも神様が喜ばれる分かち合いです。この後のバプテスマの喜びを分かち合います。教会の柿をみんなで食べるのも分かち合いです。私たちは時間、喜びや悲しみ、力、食べ物、才能や経験・・・様々なものを分かち合うことができます。

イエスは青年に「分かち合って生きよう」と勧めました。あなたは恵まれている。でもそれを自分だけのために抱え込むのではなく、誰かに渡せるだろうか?イエスはそう青年に問いかけたのです。お金持ちなのは、自分や家族が頑張ったことかもしれない、でも分かち合うことはできてる?そう問いかけたのではないでしょうか?金持ちの青年はすべての才能と環境を兼ね備えた自分に足りないことを見つけました。それは分かち合うということでした。手にあるものを神様からいただいたものとして、感謝し、分かち合うことが彼にはできなかったのです。本当は、すべてではなくても、その一部でも分かち合うことができたはずです。しかし彼は何も分かち合わず、その場所を黙って去って行きました。

弟子たちは思わず聞きました。あの青年が天の国に入れず、こんな凡人の私たちに何か良いものが、待っているのでしょうか?イエスはまた言います「私のためにたくさんのものを捨てた人は何百倍も報いを受ける」。こうして物語は30節で突然終わってしまいます。私は弟子たちが意味が分からず、ぽかんとした顔をしているのを想像します。

弟子たちが聞いたのは分かち合う先に何が待っているのか?ということでした。イエスは何百倍も報いがあると言います。私たちは信仰のために財産や家族や大切なものを捨てたりはしません。する必要もありません。私たちには何が待っているのでしょうか?

ここでイエスが私たちに示していることは、分かち合ってゆく生き方の中に、よりよいものが待っているということです。分かち合うからこそ大切なものや、家族とのよりよい関係が待っているのです。別の言葉で言えば、私たちは分かち合う時に、家族や血縁を超えた結びつき、仲間が与えられてゆくのです。教会の仲間もそうでしょう。すべてを分かち合う事はできません。でもここでみ言葉や喜びや悲しみを分かち合うとき、新しい家族が与えられます。たくさんの新しい家族、教会のお父さん、教会のお母さん、教会のお姉さんや子ども、孫のような存在が与えられるのです。イエスは、分かち合う時に新しい世界が開かれてゆくと語っています。

感謝し、分かち合う時、私たちが大切にしているものは、もっと輝き出すはずです。私たちがもっと分かち合う時、きっと私たちにはもっとたくさんの仲間が与えられてゆくはずです。私たちはみんなで永遠の命、神様の永遠の愛を分かち合ってゆきましょう。

この個所がみなさんに問うていることは何でしょうか?あなたの大切なものは何ですか?どうか思い起こしてみてください。あなたは何を持っていますか?それにどうやって感謝しますか?そしてあなたが持っているもの、大切にしているもの、喜びや悲しみをどうやって分かち合ってゆくでしょうか?それを分かち合う時、きっと神様はたくさんの恵み、新しい世界を与えてくださるでしょう。すべての財産でなくてもいいのです。何を分かち合って生きることができますか?時間、場所、思い出、信仰、若さ、経験、食べ物・・・。今日、この場で喜びを分かち合いましょう

あなたの欠けは何ですか?私の欠けは何でしょうか?しかし、その欠けにこそ神の愛が注がれるのです。だから私たちは感謝して、分かち合って、ここから歩んでいきましょう。