みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること神様に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。私たちは未来でもこどもの声がする教会でありたいと願っています。未来の地球のこどもたちのことも思い描きながら礼拝を献げましょう。
招きの詞では創世記1章をお読みいただきました。神様は創世記1章で創造された天と地を見て「良し」されました。聖書の最初のページには、神様が光と天と生き物を創造し「良し」と喜んだ場面が記されています。その「良い世界」は、今どんな姿になっているでしょうか?神様はまだこの地球を「良し」と思っているでしょうか?
今月、私たちは「聖書とSDGs」という少し不思議な組み合わせを見つめています。SDGsは「誰も取り残さない」ための17の目標です。さまざまにある課題の解決目標です。でも今月このテーマで聖書を読み始めてから、私にはそれが目標やゴールではなく、祈りに聞こえるようになりました。SDGsは17の祈り。①貧困がなくなりますように、②飢餓がなくなりますように、③健康と福祉がすべての人にありますように・・・。地球に住むすべての人が私たち一人一人と共に生きることができるように。私たちは世界が、持続可能な世界となりますように。SDGsは17の祈りです。今日はこの17の祈りすべてにまたがる気候変動について考えてゆきたいと思います。
あの三角の窓を見てください。やわらかな光が差し込む、あの古い窓です。75年前から変わらない窓です。最近、この窓から雨が吹き込んでくるようになりました。かつては、そんなこと、なかったかもしれません。しかしゲリラ豪雨、線状降水帯など、強い雨と風が吹くとあそこから雨が吹き込んできます。古い建物にいると、地球の変化を肌で感じるものです。私の住む家も、もう築60年を超えました。雨音が強くなるたびに、少し不安になります。弱い建物にいると、地球の変化を身近な不安として感じられます。
とはいえ日本では防災が進み、地域全体としてはある程度の備えができるようになりました。それによって私たちは今のところ、気候変動に対処することができている様です。しかし世界を見渡すと、そのような設備を持つことができない国がたくさんあります。洪水の対策ができず、川を氾濫するままにせざるをえない国、豪雨が来ると予想できない国がたくさんあります。古くて脆弱な建物に住む私にとって、強い雨は大きな脅威です。そしてそれと同じ様に、強い雨は途上国の人々にとって大きな脅威です。気候変動の影響を特に受けるのは、そのような災害に十分備えることのできない、途上国の人々です。気候変動は私たち先進国にとっては、今のところ対処できるものかもしれませんが、途上国にとっては取返しのつかないダメージを与えるものなのです。
ここに、大きな逆説があります。気候変動の原因は先進国にあるにも関わらず、苦しむのは途上国であるという逆説です。原因となる先進国は対処でき、原因ではない途上国は対処できないという逆説です。この問題は今CO2排出量が多い国に責任があるはずです。CO2排出量第5位の私たちにも責任があるはずです。
私たちはつい、必要のない電気を消さずにいること、ありませんか?神様は、その姿を見てどう感じておられるでしょうか。「良し」としているでしょうか?私たちクリスチャンの生き方は清く正しくニコニコ生きることではありません。気候変動は私たちが世界の隣人とどう向き合うかという問いかけです。私たちは世界の隣人を愛することの具体的行動としてCO2削減ができるかどうかが、問われています。そのことを見つめながら今日の聖書を読みましょう
今日はマタイによる福音書22章33~40節をお読みいただきました。33節には群衆という言葉があります。大勢の人がイエスに従いました。どんな人がイエスに従ったのでしょうか?
群衆の中にはペテロのように仕事をやめて従った人がいたでしょう。すべての持ち物を売り払って従った人もいたかもしれません。自分の仕事、畑の仕事を終わらせてから従った人もいたかもしれません。しかしこの群衆にはきっと少なくない人数で、本当に何も持たない最も貧しい人が含まれていました。
貧しさの原因は様々にあったはずです。その一つが災害であったことは間違えのないことでしょう。この群衆の中には、災害によって多くのものを失った人がいたはずです。災害を自然災害と呼ぶべきか、人災と呼ぶべきか境界線はいつも曖昧です。その災害は誰かが誰かの家族や財産、未来を直接奪ったわけではありません。今奪ったわけではありません。でも確実に誰かが影響を及ぼし、見知らぬ家族と財産と未来を奪ったのです。
イエスに従ったその群衆の中にはきっと、気候に左右された被災者がたくさんいたはずです。イエスはそのような被災者と共に歩かれたのです。
もちろん聖書には「気候変動」という言葉は登場しません。でも聖書には自然災害によって深い傷を負わされてた人々が多く登場します。創世記のヨセフの家族は7年におよぶ干ばつの影響で、故郷を去らなければなりませんでした。ヨセフの家族は空を見上げて、気候変動がおさまる様に祈ったはずです。ルツ記のルツも干ばつが原因で移住せざるをえないという場面から物語が始まります。士師記のエリヤは干ばつのさなか一人のやもめに救われました。どの時代も、自然の変化の中で最も苦しむのは、いつも貧しい人々でした。
数えきれない人が、自然災害によって人生を変えられ、命を奪われました。聖書にはその気候変動への祈りと物語が、いくつもあります。
もしイエスが、21世紀の気候変動の中におられたら、どんな言葉を語られるでしょうか。今まで雨の降っていた地域に雨が降らなくなる時どんな言葉を語るでしょうか。大型の台風で家を失った人の手を、イエスはどんなふうに取るでしょうか。乾いた大地に立つこどもたちの前で、イエスはどんな祈りを捧げるでしょうか。私はそのイエスの姿を、心の中に描きながら、この世界を見つめていたいのです。
イエスだったらどう祈ったでしょうか?冷房の中にいる人と炎天下にいる人とイエスは両方を見つめたでしょう。イエスの愛と祈りは近くにいる隣人だけではなく、世界の果てにまで及んだはずです。それが神の愛と祈りです。
日本には様々な災害があり、多くの被災者がいます。同じ様に、世界にも気候変動によって家や家族を失っている人がいます。聖書を、他人の物語ではなく、自分の物語として読む――それが私たちの信仰です。聖書の登場人物の中に、自分の顔を見つける。そんな読み方を大切にしたい。その私たちは今どれだけ、気候変動に苦しむ人々を他人事にせず、それは私だと感じることができるでしょうか。
イエスに従う群衆の中に、私がいる。そしてその群衆の中には気候変動に苦しむ仲間がいる。私たちの仲間の人生が気候変動に振り回されている。彼らの出来事を私の仲間の出来事、私の出来事としてとらえることができるでしょうか?私たちがいつも聖書に登場する人物に自分を重ねるように、その人と共感することができるでしょうか?私たちはこの気候変動の時代をどう生き、どう祈るのでしょうか。教会でできること、一人一人の生活でできることはなんでしょうか?
聖書には悲しい物語がたくさんありますが同時にどの話も、苦難の中に神の力が働くということが記されています。聖書を読むのは、絶望を探すためではなく、希望の種を探すためです。未来はあります。人には届かないと思えるゴールがあっても、神が力を与えてくださるのです。
今日の聖書箇所でイエスは私たちにもっとも重要な掟を教えています。どの律法が最も重要でしょうか?という質問にイエスは第1に神を愛しなさいと教えます。そしてそれと並べて2つ目に、隣人を自分の様に愛しなさいと教えました。
隣人とは誰のことでしょうか?隣人とは私たちの側に暮らしている人だけ、目の前にいる人だけではありません。お隣さんだけではありません。地球の裏側で気候変動に苦しむ人も、神様の目からは私たちの隣人です。私たちは自分のことのように、隣人のこととして、地球の裏側でおこる気候変動を祈ることができるでしょうか?
私たちがCO2を出さない様にするのは、節電をするのは、電気代の節約のためだけではないはずです。自分のためだけではないはずです。それは世界の仲間、世界の裏側の隣人への愛。私たちは隣人愛の問題として気候変動を考えたいのです。
私たちが小さなスイッチを切る、その一瞬に、愛が宿るのです。私たちは、スイッチを切るとき、神の声を聞いているでしょうか。あなたは「私の小さな行動が、遠くの隣人を守る」と信じることができるでしょうか。紙を再利用する。そんな小さな工夫にも、神を愛し隣人を思う心が宿ります。教会やそれぞれの場所からできる祈りや行動を想像してみてください。隣人を愛するとは、隣人の未来を守ることでもあります。
私たちの世界に生きる仲間は、共に神の子どもです。イエスに従う群衆の一人です。隣人を愛するように、手を取り合うように。地球の人々とも、共に生きてゆきましょう。
心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。隣人を愛しなさい。律法全体と預言者はこの二つの掟に基づいている。
神の造られたこの地球と、共に歩みたい。そう願いながら、今日も17の祈りを祈りましょう。1分間の黙想の時を持ちます。