みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること、神様に感謝をいたします。私たちはこどもの声がする教会です。今日もこどもたちの声を聞きながら礼拝をしましょう。
今月は教会とSDGsという不思議な組み合わせを見つめています。でもこの17個の目標は単なる目標ではなく、わたしたちにとっては17個の“祈り”です。
今日はSDGsの中の10番「人や国の不平等をなくそう」について考えます。SDGsは個人や国だけに行動を求めるものではありません。特に企業には環境、社会、統治の3の責任が問われています。これは頭文字をとってESG経営やESG投資などと呼ばれます。企業が経営や投資を行う時には、ただ利益が生まれるかどうかという基準だけではなく、環境を壊すビジネスではないか、社会に貢献する事業かどうかを考慮して経営や投資をすることが求められています。
企業はただ利益追求をすること、自分たちの企業が大きくなることだけを考えていてはいけないのです。例えば工場を経営する企業であっても、それを運ぶ人、売る人、買う人、ゴミ、環境や社会に良いものに目を注ごうという考え方です。環境を壊したり、社会問題を起こしたりして、誰かの涙の上に、お金を積み上げていないか――それを問うのです。SDGsの達成につながる大事な視点です。
聖書はこういったSDGsあるいはESGについて何か言っているだろうか?今日はタラントンのたとえから考えたいと思います。
聖書を読みましょう。今日はマタイによる福音書25章14~30節をお読みいただきました。あるとき大金持ちがいました。大金持ちは贅沢な旅にでることにしました。そして3人の僕を呼び出します。3人と面接をし、それぞれの能力を見極め、それぞれに資産を預けることにしました。1タラントンは6000日分の給与に相当します。人間が約20年分働いたの収入です。当時の寿命から考えると生涯賃金ともでも言える金額だったでしょう。自分が一生働いてようやく1タラントンでした。このお金持ちは8タラントンを3人に預けました。
僕たちはお金を預かりました。主人からな何も指示がありません。しかし、僕はそれを受け取った瞬間に分かりました。私はこのお金を増やすことを期待されている。主人が戻ってくるまでにこの預かったお金をもっと増やしていないといけない。できないと追い出される。そう察して、すぐに資産運用を始めました。
主人はどれくらいの期間、旅に出たのでしょうか?数か月?それとも数年?贅沢旅行から戻ってきました。そして主人は戻ってきて僕たちの運用実績を確認します。3人のうち2人の資産は倍増していた。「すばらしい」「よくやった」主人は喜びました。そしてもっとたくさん与えました「何をすればいいか言わなくてもわかるな?」
しかし一人は風変わりな僕でした。その僕はなんと1タラントを丸ごと、土の中に埋めていたのです。増えることも減ることもありませんでした。主人は怒りました。「何をしているのだ!銀行にでも預けておけば、少しは増えたものを!この愚か者!」「こいつにはもう何も与える必要はない。外の暗闇に追い出せ。そこで泣いていろ!」
物語は、あっけなく途切れます。
さて、この個所は教会では長らく、スチュワードシップ月間に語られる箇所でした。伝統的に、このタラントンの教えは、私に与えられたお金や才能を活かすことが大事であると教えられてきました。教会は「あなたの中に眠るものを、土の中に眠らせないで使いなさい」と教えてきました。お金を持っていたらささげよう。時間や体力があったら教会のために奉仕しよう。献金しよう、良い信者になるための勧めとして語られていました。資本主義の発展にも貢献したみ言葉でもあります。でも今日はSDGsの視点で読みたいと思います。
1タラントを1億円としましょう。みなさんは5億円あったら何に使いますか?2億円、1億円あったらどうですか?ただし5億円渡されて、暗に増やせと言われたらどうでしょうか?10億円にしろと言われたらどうでしょうか?
僕たちはまさにそのような状況でした。5億円を渡されて、短期間で10億にするにはどうしたらいいか考えたのです。しかし、どう考えても数年間ではまっとうな方法で5億円を10億円にすることはできません。当時そんな博打のようなお金儲けができるのは、例えば貿易でした。リスクは高いですが利益率は非常に高かったのです。そして身近にある利回りの良い投資は不動産投資でした。
もともと律法では土地の売買を禁じていましたが、現実には抜け道を使って取引が行われていました。災害や戦争の混乱の中で、土地は安く買いたたかれました。貧しい農民は今日の生活のために嗣業の土地を手放さざるを得なかったのです。僕たちはおそらくこのような不動産投資で利益をだしていました。5億円預かった僕はおそらく、すぐに買えるだけの土地を、ありったけ買いあさりました。お見事、投資は大成功。資産は10億円。贅沢旅行から帰ってきた主人は大喜び。もっと増やしてこーいと言って、もっとたくさんのお金を受け取りました。
でもこれでいいのでしょうか?これはSDGSな持続的な社会でしょうか?土地を安く買いたたかれた人がいました。先祖から受け継いだ嗣業の土地を、災害や戦争で失った人がいました。そのような何も手元になくなって、イエスに従おうとした人が大勢いました。イエスの弟子たちは、自分の農地を持たない貧しい者ばかりでした。増やす資産の無い人でした。イエスはそのようにいつも貧しい人と共にいました。でもイエスはこのような資産の倍増を見習うべき話として語ったのでしょうか?
イエスは多くのたとえで、金持ちと貧しいものの逆転を語っていました。にもかかわらず、この物語を持っているお金を増やすことが良い事だと受け取ってよいのでしょうか。もっと持続可能な方法で読みましょう。環境・社会・ガバナンスの視点で見直しましょう。二人の僕がしたのは貧困ビジネスでした。それは搾取、抑圧、格差、不平等の拡大に加担する商売でした。29節、このようにして貧しいものと富める者の格差が拡大されていくとは、そのとおりです。聞いている貧しい民衆はどう思ったでしょうか?自分もそういうやつに土地を買いたたかれた。悔しいと思ったに違いありません。
しかし、物語の僕の中にひとり、変わった人間がいました。彼は預かった1億円を土に埋めたのです。土に埋めても何にもなりません。銀行の方がマシです。でも銀行といっても、当時の銀行はいまのような健全な経営をしている銀行では多くありません。今でいう高利貸しです。結局、銀行に預けてもそれを元手に誰かがか誰かをむさぼったのです。どこにお金をもっていっても、人々を苦しめる元手になったのです。彼は勇気ある決断をしました。倫理的で持続可能な判断。それは、どこにも使わない。それを土に埋める。そんな決断でした。
それは搾取への静かな反逆でした。周りの人間はやりたい放題の金儲けをしています。自分の利益だけを求めて、商売をしています。でも私は嫌だ。それに抵抗する。自分の利益だけを求めるやり方をやめたのです。彼は汗をかきながら大きな穴を掘り始める。それは不平等と格差、搾取に抵抗する穴掘り。誰にもわからない様にその金を隠す。お金を埋めて、人々から土地を奪う方法をとらなかった。そのように誰も傷つかない方法を考えて穴を掘ったのです。
彼はどうなったでしょう。案の定、贅沢旅行から帰ってきた主人に、ののしられ、追い出されてしまいました。愚かです。彼は追い出され、自分の土地を持たない農民と同じように困窮する者になりました。彼は追い出された。歯を食いしばった。それでも止まらない涙が頬を伝った。他の人みたいに自分だけいい思いをすればよかったのに。でもそれは、彼が選んだ人生だった。人々と共に歯を食いしばり、共に涙する、それを彼は選んだのです。
私たちは、主人が神で、良い信徒とは5タラントンを10タラントンに増やす信徒。持っているものを土に埋めるのは、何もしない信徒。そう理解してきました。でもそれ以外の読み方はありますか?
14節にはこの例え話は天の国のたとえだとあります。天の国はこんな風に頑張った人が入る場所なのですか?もっているものを増やした人がいくところが、天の国ですか?
私たちが今まで見てきた物語からはそうではありません。天の国は持っている人も持っていない人も、すべての人が受け入れられる場所だったはず。むしろ増やしたくても、増やす元手もない人、増やしようがない人、何も持たない者が招かれる場所ではありませんでしたか?
この物語で、すべての人が受け入れられる場所を目指したのは誰か。それはこの3人目の僕ではないでしょうか。彼は人と共に生きる道を選んだのです。そして暗闇の中で、共に歯ぎしりしながら、共に涙し、共にもがいて生きたのです。天の国はそのような共感共苦の中にあるのではないでしょうか?
物語に結末は書いてありません。私たちがすべきことも書いてありません。私たちはこの物語からどうやって生きるべきでしょうか。私たちに何ができるでしょうか?少なくとも誰かを苦しめるお金の増やし方はしたくない。誰かの涙の上に立つなら、そのお金はいらない。お金を増やすことよりももっと大事なものがある。もっているものを誰か、困っている人、仲間のために使いたい。みんなの希望につながるなら減ってもいい。それが天の国なのではないのでしょうか。あなたなら、どう生きるでしょうか?
それぞれにこのみ言葉を思い巡らせる時を持ちましょう。1分間の黙想の
