みなさんおはようございます。今日もご一緒に礼拝できることを神様に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。今日もこども達の声と命の息吹に包まれながら礼拝をしましょう。今日は特に、召天者記念礼拝としてこの礼拝をもちます。神様の前で“命”を思い起こしながら、すでに神様のもとにある仲間たちを、静かに思い出す礼拝です。
みなさんは自分の“命の終わり”を想像したことがありますか?肉体は火葬されて骨になり、お墓に納められます。では肉体以外のものはどうなるのでしょうか?そもそも私たち自身の存在には肉体以外のもの、霊や魂といったものが、あるのでしょうか?
みなさんはもし自分が死んだら、どんなお葬式にしたいですか?たくさんのお友達に囲まれて、お見送りされたいと思う人もいます。ひっそりと家族だけでいい。葬儀なんてしなくてもいいと思う人もいます。
ご遺族や周囲はどうでしょうか?死別の別れと悲しみは長く続くものです。何か区切りとなるものがあった方がよいでしょうか。たくさんの人が葬儀に来て、自分の家族が愛されていたと知ることは大きな慰めになります。一方、ひっそりと家族だけで別れの時をもった方が、慰めとなる場合もあります。もちろん、ご遺族の負担を考えると、葬儀をしないという選択もあるでしょう。その静けさにも深い祈りがあります。いろいろな考え方があります。どれも大事な思いとして、尊重し、受け止めたいと思っています。
キリスト教の葬儀は、ただ亡くなった方を送る儀式ではありません。悲しみの中にあっても、そこには不思議な静けさと温もりがあります。「ありがとう」「また会う日まで」。言葉にならない祈りが満ちてゆく時間です。たとえ悲しみの中でも、そこには感謝と希望が響きます。涙と賛美がひとつになる場所――それが教会の葬儀です。
教会の門の前に、新しい看板を立てました。そこにはこう書きました「ここで、キリスト教式の葬儀ができます」と。私たちの教会ではクリスチャンかどうかに関わらず、地域の方がキリスト教式の葬儀をすることができます。
教会で行うキリスト教の葬儀は、毎週日曜日の礼拝と同じ形式で行われます。今日の礼拝と仏式のお葬式を比較すると、その違いが分かるでしょう。私たちはお線香をあげませんし、お経も唱えません。その代わりに歌を歌います。神様に向けて。心をこめて。葬儀で、慰めと平安を神様に求め、歌を歌います。
そして聖書を読むというのも特徴でしょう。悲しみの別れの中にあって、聖書のことばから、この悲しみのどこに神様の愛があるのかを探します。そして私たちは亡くなった方の命を、神様に感謝します。キリスト教の葬儀には3つの特徴があると言えるでしょう。賛美があり、聖書の言葉があり、祈りがあります。悲しみの中で、神の愛を探す時間――それがキリスト教の葬儀です。
キリスト教は死をどのようにとらえるでしょうか。はっきりとこうなると書いてある箇所は少なく、断定してお伝えできることは多くありません。しかしキリスト教は死をすべての終わりとは考えません。死んでしまっても、すべてがなくなるわけではなく、その存在は神様のもとに帰る、そして永遠に神様のもとにい続けると考えます。そこには先に亡くなった方もおられ、別れた方ともまた会うことができると考えられています。
キリスト教にとって“死は終わり”ではありません。神様が下さった命の旅の“通過点”です。神様によって命が与えられ、地上の人生があり、死があります。そして死の延長線上にも、その先があり、命は続いてゆくのです。神様が地上での生活を導いたように、死の向こうでも神様が導きつづけてくださいます。ずっと永遠に、神の導きのうちにいるのです。変わることなく。それがキリスト教の命のとらえ方です。
神様のまなざしの前には、“生きている者”も“死んだ者”もありません。それはただ“愛される存在”として見つめられています。生きていても、死んでも、何か大きなことができても、何も出来なくても、悪いことばかりをしていても。私たちは神様の愛のうちに生きる者なのです。
神様の愛は変わりません。これは永遠と言えるでしょう。そして永遠は時間の長さだけを表すのではありません。それは関係の深さでもあります。神様の絶えることのない愛が続くのです。キリスト教の葬儀・礼拝も神様のこのような変わらない愛を確認する時です。その愛から慰めを受け取り、神様に祈る場所、それが礼拝、葬儀です。
教会も神様のように、亡くなった方の命と、残された方の涙の両方に、そっと寄り添いたいと思っています。そこにはきっと無宗教よりも大きな慰めがあるでしょう。教会は毎週、神の愛を確認し、心のやすらぎが得られる場所です。もしこの教会で葬儀が出来たなら、きっと神の愛、心のやすらぎをしっかりと感じられるはずです。
私は信者であってもそうでなくても、ぜひみなさんの葬儀を教会でさせていただけませんか?と思っています。ぜひみなさんご自身の葬儀、ご家族のご葬儀をこの教会ですること、考えてみて欲しいです。きっと、神様の元に帰り、永遠に神様の愛の中にいることを強く感じることができるはずです。
今日の聖書箇所を読みましょう。聖書から生きること、死ぬこと、そしてその後のことを考えます。マルコによる福音書12章18節~27節までをお読みいただきました。
難しいことが書かれています。ゆっくり紐解きましょう。イエスはサドカイ派という人から挑戦を受けています。それは人間は死んだらどうなるのか?という問いです。サドカイ派の人たちは18節にもあるとおり「死んだら終わり」と考えていました。彼らにとって、死後の世界は“無”でした。現代の私たちにも、似た考えを持つ人がいるかもしれません。そしてそれに加えてサドカイ派の人々は、まさか死者が生き返ることなどないと思っていました。もしそんな風に人間が生き返ったら、誰が誰と夫婦になるのか、社会が大混乱するではないかと考えました。だからサドカイ派の人々は人間というのは、死んだら終わり、その存在は消えてなくなるのだと主張しました。
イエスはそれになんと応えるでしょうか?27節でイエスは「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神だ」と言います。イエスもやはり、死んだらその存在は終わりだと思ったのでしょうか。神様とは生きている人間にのみ関係する方で、死んだ人には関係しない方なのでしょうか。イエスもこのように言っているように聞こえます。
しかしゆっくり読むと違うということに気が付きます。26節には「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」という言葉があります。アブラハム、イサク、ヤコブとは聖書に登場する、有名なご先祖にあたる人です。もちろん彼らはもうすでに、数千年前に地上の生涯を終え、死んでしまった人々です。イエスは、神様とはすでに地上の生涯を終えたアブラハム、イサク、ヤコブの神であると言っています。
つまりイエスが言っているのはこうです。神様は、生きている者の神様だ。そしてイエスはアブラハム、イサク、ヤコブは死んでいないのだと考えています。あのご先祖は、神様のもとで今も生きているのだというのです。
イエスは言われました。「彼らは今も、生きている」神の愛のうちに。そして神に愛され、大切にされ続けているのだ。そう、人の命は生きていても、死んでしまっても終わることなく続くのだ。神様のもとで永遠に生き、大切にされるのだ。死んで終わりだと思うな。それは大きな思い違いだ。と言っているのです。このように人は神のもとで、永遠の愛のもとで生かされ続けてゆくのです。みなさんはこのような死生観、宗教観をどう思うでしょうか?
私は自分の命をそこまで受け取り、大切にしてくれる方がいることをとても嬉しく思います。死んでしまっても、その先にも良いものが待っている。死は怖いですが、そのことを少し楽しみにも思います。みなさんはどうでしょうか?
今日はたくさんの方の写真を飾っています。この方たちは地上での生涯を終えた人たちです。地上での生涯は死を迎え終わりました。しかしこの方たちにイエスが伝えている確かな事。それはこの方たちは、神のもとでずっと生きているということです。
確かに地上での命は終わりました。一人一人の人生にはうれしい事も苦労もたくさんあったでしょう。そして今は、神様のもとにあって、生きています。そして神様はずっとその存在を大切に思い、愛し続けています。
私たちはそれを、永遠の愛と呼びます。神の愛が命を超えて続く、その愛を。神様は生死にかかわらず、能力や地位に関わらず、ずっとあなたの存在を、永遠に大切にし続けお方なのです。あなたは死んでも、なお愛のうちに生きる者として、神様の愛のもとに生きるようになるのです。今日の聖書の個所はあなたの命をそのように語っています。
この写真の方々も深くて永遠の神の愛を感じて、満たされているでしょう。
そして私たちはその永遠の愛を、死んでしまった後だけではなく、生きている今もたくさん感じることができるはずです。礼拝の時も、葬儀の時も、賛美をするときも、静かに祈るときも。神様の永遠の愛を感じることができるはずです。愛する人を思い出すたびに、その人を通して神の愛を感じることがある。それも永遠の愛の証です。
みなさんは地上の命が終わったらどうなると思いますか?神様は今もあなたを愛し、死を越えても、その愛は途切れることがありません。そのような永遠の愛が本当にあると思いますか?あって欲しいと思いますか?永遠の愛の中に生きたいと思いますか?私はすでにあなたの命が神様の永遠の愛のうちにあると信じています。
1分間静かな時をもちます。心の中に浮かぶ言葉を、カードに書いてみてください。神への思いを、そっと形にしてみてください。
