【全文】「この先に待っている神」マタイ28章1節~10節

みなさん、おはようございます。またイースターおめでとうございます。たくさんの方と共に、この礼拝に集い、礼拝できること本当にうれしく思います。私たちはこどもを大切にする教会です。今日も一緒に礼拝をしてゆきましょう。

私たちはしばらく、マタイ福音書からみ言葉を聞いていますが、この福音書は「インマヌエル」「神は私たちとともにいる」ということを大切にしている福音書です。はじまりの1章と、最後の28章に同じ「神は私たちと共にいる」という言葉が出てきて、「神が共にいる」という言葉で福音書が囲い込まれています。

マタイ福音書は、神様は私たちと共にいる、そう語っています。しかしもちろん聖書はそれ以外にも神様の様々な姿を語っています。神様はいつも私たちと共にいる、でもそれだけではない神様の姿が豊かに書かれています。

例えば、神様は私たちの先にいる、先で待っているとも書かれています。私はこの神様の姿が好きです。苦しいとき、悲しいときに一緒にいてくださる神様という姿も好きですが、神様は私たちがこれから向かう場所に、先におられ、待っているという姿も好きです。

特に今、神様のこの姿を大切にしたいと思います。コロナ禍の中で、一体どこに神様がいるかわからなくなってしまう時です。神様が一緒にいるという実感が特に持てないコロナ禍の中にいます。新しい年度が始まりますが、この先が見通せない時にいます。教会もすべての行事が思うようにできるかどうかわかりませんし、それよりも学校や人生のイベントが予定通りできるのかどうか、この先全く分からなくなってしまっています。

でも神様は今ここに、私たちと共におられる方です。そして、神様は私たちが向かうその先で待っておられるお方です。先が見通せない中で、何が起こるか不安の中で、神様は先に待っておられます。先に待っている神様の姿、それは今の私たちにとって何より大きな希望ではないでしょうか。先行きの見えない私たちの行く先に、必ず主は待ってくださっているのです。

今日は神様はいつも私たちと共におられるということと同時に、神様は私たちが向かう場所に先に行って待っておられる方だということを見てゆきたいと思います。そして待っておられるからこそ、私たちは不安で、迷い悩みながらもその先に向かうことができるのだということ、安心して歩んで良いのだということ、礼拝しながら歩もうということを聖書に聞いてゆきたいと思います。今日の聖書の個所を一緒に読んでゆきましょう。 

 

今日の場面は、十字架の後の場面です。男性の弟子たちはイエス様の十字架が恐ろしくなり逃げだしました。そして十字架の姿に絶望し、家にこもり、人と会うのをやめてしまったのです。

しかし最後まで従い続けた女性たちは、外へと向かいます。墓に行き、死んだイエス様の体を確認しようとしました。そしてその墓で天使の声を聞いたのです。5節~7節の言葉です。

6節で天使は「見なさい」といいます。しかし厳密に言うと、彼女たちが実際に「見た」のかどうかは書かれていません。天使に見よといわれ、女性たちがイエス様が置いてあった場所にいなくなっているのを「見た」とは書いていないのです。

ここでこの女性たちはこの目で見たから信じたのではなく、み言葉がそのように語っているのを「聞いた」から信じたと言えるでしょう。それは私たちも同じです。私たちは空の墓を見たわけではありませんが、この信仰をいただいています。信仰を持つとはそのようなことなのでしょう。見たかどうか、体験したかどうかではないのです。そのみ言葉を「聞いて」信じるかどうかなのです。ですからどうやって遺体がなくなったのか、どうやって体が復活するのかということはここでは全く問題になっていません。

天使たちの言葉に戻ります。天使は「イエス様はここにはいない。ガリラヤに先にいる」と言います。彼女たちは8節、仲間に伝えるように告げられ、恐れと喜び半々のまま、急いで走りだしました。イエス様はこのように、行く先で待っておられる方なのだと天使が告げています。

しかし、イエス様はなぜガリラヤにいるのでしょうか。なぜエルサレムではなく、わざわざガリラヤに行くのでしょうか。エルサレムとガリラヤの距離は100㎞以上あったといわれます。

ガリラヤとは弟子たちの生まれた自宅がある場所でした。弟子たちの日常生活がそこにありました。今はエルサレムにいますが、自分の職業、住所、親族が暮らす街、それがガリラヤでした。

そして弟子たちにとってガリラヤとは、イエス様と一緒に過ごした場所でもありました。様々な奇跡や、教えを聞き、共に日常を過ごした場所だったのです。

イエス様にとってもガリラヤはそのような日常の生活を送った場所でした。そこでは直接民衆の生活に関わりながら、触れながら、み言葉を語ることができた場所でした。

イエス様はとどまる場所に、そのような日常の場所を選ぶお方なのです。イエス様は自分のそして、弟子たちの日常に、先に、戻ってゆかれるお方です。イスラエルの中心都市、神殿のあるエルサレムではなく、日常を過ごした場所に、イエス様は先に、戻られるのです。

天使たちは、それを追うように促します。女性たちに、他の仲間や弟子たちと一緒にイエス様を追いかけるようにと、派遣するのです。これが先に待っている神です。

女性たちは弟子たちにこのことを告げるため急ぎます。すると途中でガリラヤで待っているはずのイエス様に出会ったのです。ここでは「いつも共にいる神」と、「先に待っている神」が交互に現れます。

彼女らはイエス様と出会ったその場所で拝みました。イエス様に出会い、礼拝をしたということです。彼女たちは礼拝をはさみながら、他の弟子たちに、人々にイエス様を伝えようとしたのです。

エス様はこの途中で、恐れるな、行け、告げろ、待っているといわれました。その不安な道で、恐れないこと、しっかりと前に進むこと、神様の言葉を皆に告げることを勧めています。そしてその先に待っているというのです。神様はここにいます。神様はその途中にいます。神様は行く先で待っています。

イエス様はこのように彼女たちに姿を現し、礼拝を起こし、人々を励まし、送り出すお方なのです。

今日はイースターです。私たちも死んだはずのイエス様がもう一度私たちに現れることを祝うその礼拝の時をもっています。私たちもこの物語の中にいる共同体です。私たちもこの女性、弟子たちの一人一人です。私たちもここまでの受難節で十字架を覚え、そして今日礼拝しています。私たちの戻るガリラヤとはどこでしょうか。それはきっと私たちの日常でしょう。

それぞれの日常に先に、派遣された先にイエス様がおられます。神様がそこで待っておられます。私たちが礼拝から戻る先、家庭に、職場に、あの場所に、イエス様が今日も先に待っていてくださっているのです。そしてもちろん今日、今神様はここにも共におられます。

私たちも今日、それぞれのガリラヤに戻ります。恐れと喜びを抱えながらでしょう。あの日常があります。でも神様は弱気になりながら進んでいく道のりを共におられ、励ましてくださるお方です。私たちは神様の足にしがみつくように礼拝をしながら、歩んでゆきましょう。すぐにはたどり着けないかもしれませんが、礼拝しながらそこに向かってゆきましょう。そしてそれぞれの向かう先で必ず神様が待っていてくださいます。

神様は私たちが毎日を過ごす、あの場所に、今日も先におられるお方です。私たちより前に、先に、早く、それぞれの場所におられるお方です。そしてその途中にもおられ、礼拝に招いてくださるお方です。

私たちは神様が待っていると知るとき、先が見通せなくとも安心してそこに向かうことができるでしょう。悩み悲しみながら向かうのでもよいのです。その途中にも神様は必ず現れ、私たちを励まし、礼拝をさせてくださるでしょう。そして私たちの向かう先に必ず神様はおられます。

私はこの神様の姿も好きです。いつも共にいるとはよく聞く姿です。でも私たちの行く先にもすでに待っているという姿にも、私は希望を見ます。私たちは戸惑いながら生きるけれども、ときどき神様はここにいないと思うようなことに出会うけれども、でも行く先に必ず神様は待っている。もうすでに待っている。その希望をもって歩みたいと思います。神様は共にいるという喜びと同時に、神様は私たちの向かう先にすでにおられるという喜びをも知りましょう。

そして、これから私たちは主の晩餐をもちます。イエス様は十字架にかかる前に、悲しみがこれからあるがイエス様と共にいたことを覚えているようにと言われ、パンと杯を分けられました。

私たちは今日悲しみ、苦しみの中にも神様が共におられることを覚えて、このパンと杯を食べたいと思います。

そして他の福音書によれば、復活後にイエス様と食事をしたことが記録されています。その食事のことも覚えたいと思います。イエス様は復活された後にも、弟子たちと食事を共にしました。そのパンと杯を今日いただくのです。主イエスがいつも共にいてくださる、主イエスが私たちの向かう場所に先に待っていてくださる、そしてそこでまた共に食事をしてくださる、そのことを覚えながら、この杯とパンをいただきましょう。お祈りいたします。