【全文】「希望を持ち続ける教会」マタイによる福音書12章14節~21節

彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない。異邦人は彼の名に望みをかける。

マタイによる福音書12章20~21節

 

みなさん、おはようございます。今日も共に集って礼拝ができること感謝です。こどもたちも集まってくれています。私たちはこどもを大切にする教会です。こどもたちの声を聞きながら礼拝を持ちましょう。今日はバプテストリーにお湯をためてみました。給湯器が壊れているので、電気湯沸かし器を使っています。無事にお湯がたまるようです。

バプテスマとは神様を信じるという信仰を告白した後、この中に全身を沈める儀式です。教会は私たちの信仰に加わってくださる人が起こされることをいつも祈っています。どうぞ中をご覧になってください。

今日はペンテコステ礼拝です。ペンテコステとは「50日目」を意味するギリシャ語です。使徒言行録2章によれば、イエス様の復活の50日目に弟子たちに聖霊が下り、それぞれの言葉で信仰を語りだした、信仰の告白が起こったということが記録されています。それが教会のスタートでした。聖霊が弟子たちに下ったとき、信仰の告白が始まった時、ペンテコステから教会が始まったのです。

聖霊が下り、告白が始まり、教会が始まったのですが、この聖霊とは一体何でしょうか。聖霊とは妖精ではありません。小さな羽の生えた小人とは違います。聖霊とは目に見えないけれども、たしかに神様が働いている、その力です。人を動かす力。信仰を告白させる力です。

私たちはよく「信仰を決心する」と言いますが、厳密にいえば信仰は自分で持つと決めるものではありません。人間の力だけではそれは起こらないのです。信仰は見えない聖霊の働きかけによってこそ起こります。そして見えない聖霊の力によってこそ、私は信じていると告白することができます。聖霊とはそのように働きます。人を動かし、信仰を告白させるのが聖霊です。この聖霊の力を受けて、教会は始まりました。そして今も聖霊の力を受けて教会は立っています。

今日このペンテコステ礼拝からの1か月「教会」ということをテーマに宣教をしてゆければと思っています。また一緒に考えてゆきましょう。今日は聖霊によって力づけられている教会についてみてゆきましょう。

教会のことについて最近感じていることがあります。それはこのコロナの状況にもかかわらず、なぜだか教会の中で「感謝です」という言葉が以前にもましてよく聞くようになったということです。社会の状況を見れば、ちっとも感謝できるような状況にない中で、それでもなぜか教会の中では「感謝です」という言葉が交わされています。教会では自然な会話ですが、脇からそのような会話を見ていると、本当に不思議な集いに思います。

礼拝が再開して交し合う挨拶も「集まれたことに感謝」という会話でした。みんなそれぞれに、あんなに大変で、寂しいかったのに「感謝です」と言葉を交わしています。それを聞いてとても心が安らぎます。皆さんから、これによってたくさん学んだ、知らされた、そしてまた「感謝だね」と言葉が行き交っています。何もそこまで前向きにとらえず、しっかり悲しんだ方がいいように思うときもあります。でも、それほどまでに私たちにとって「感謝だね」という言葉は何気ない挨拶です。

教会はなぜこんなにも、感謝できるのでしょうか。きっとそれは私たちがどんな時でも神様から希望をいただくことができると信じているからです。「しんどいね」と話が始まっても、いつのまにか「感謝だね」と話が終わってゆきます。それはきっと、神様の希望は無くならない、そう信じている信仰があるからでしょう。それは例えばご葬儀でも同じです。どんなに悲しい死の別れがあっても、神様の希望は無くならないと信じる、感謝できる、それが私たちの葬儀です。

ピンチがチャンスになるという話ではありません。ピンチが感謝になるのです。そのようにして、神様にあって希望を持ち続けることができる、それが教会なのでしょう。

その信仰は私が信じると決めたから、決心したから信仰を持っている、信仰が続いているのではありません。いろいろ考えてそう決めたから信仰が続いているのではありません。神様が与えてくださったからこそ、その信仰が起こっています。それを起こす力が聖霊です。聖霊が働いて、私たちはなぜだかピンチで感謝ができるのです。聖霊が私たちに、教会に働くからこそ、私たちはどんなときでも希望を持ち続けることができます。希望はどんな時も絶対になくならないと信じることができるのです。

今日の箇所、イエス様は希望を失っている人々と共にいます。そして自分も命を狙われます。でもそこでもイエス様からの希望は続いていくのだと語られています。私たちはどんなに苦しくとも、神様によって、希望を持ち続けることができるということを見てゆきたいと思います。

 

今日の聖書箇所を読みましょう。今日の箇所の18節を読むと、イエス様がバプテスマを受けた物語を思い出します。バプテスマを受けた時、聖霊が現れて「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」といった場面(マタイ3章17節)です。

イエス様は聖霊の力を受けて活動を始められました。そして聖霊の働きは地上での活動の間もずっと続きました。イエス様も聖霊の力を受けたお方です。そしてイエス様の働きとは弱さを持つ者に寄り添い、福音を告げてゆくということでした。弱っている人々、苦しんでいる人々に希望を与えてゆくということ、なによりもそれがイエス様の働きだったのです。

20節を見るとここには「葦」という言葉あります。葦は細長くすぐに折れてしまう植物です。弱さや、不安定さの象徴です。ここにはさらに傷ついた葦とありますから、今にも折れてしまいそうな状況を示しています。そんな状況を守ってくださるのがイエス様だということです。そして葦にはもうひとつ意味があります。裁判で葦の棒を折るというジェスチャーは被告を死刑とすることを意味するジェスチャーだったそうです。ここにある「彼は葦を折らない」という意味は、弱いものを殺さないという意味です。イエス様は傷ついた葦のように、弱くされている人を守り、殺さないお方だということが示されています。

20節には「くすぶる灯心」という言葉も出てきます。くすぶる灯心とは、ランプの紐が焦げて短くなってしまった様子です。あるいはランプの油が切れかかっている状態です。いつ消えるともわからない弱々しい光です。

ここにある「消す」という言葉はふっと消すというよりも、押し消す、押しつぶすイメージのある言葉です。消えそうなランプを押しつぶす、つまりそれは、力を失っている人、今にも光が消えてしまいそうな人、その小さな希望を絶つ、踏みつぶすことを意味します。最後の小さな希望、最後の力を踏みつぶすこと、それがくすぶる灯心を消すということです。

それをしないイエス様は小さな灯を消さないお方です。イエス様は最後の最後の、燃えかすのような小さな光でも守り、それを消さないお方です。最後の最後まで希望を守り続けてくださるお方です。

イエス様は葦を折らない方、灯火を消さないお方です。傷ついた弱き者、私たちの、消えそうな小さな明かり、希望を守ってくださるお方です。私たちはそれを自分の力ではなく、聖霊の力によって信じます。

私たちは、消えそうに小さな希望でも、それはなくならないと信じます。教会のあの「感謝です」という言葉、それはこの希望に基づいているのではないでしょうか。私たちの希望はどんな時も決して無くならなりません。だから、私たちはどんなときでも感謝ができるのではないでしょうか。必ず守られると、信じることができるから、こんなピンチの時でも教会には感謝の言葉があふれているのではないでしょうか。

21節には「異邦人は彼の名に望みをかける」とあります。ふさわしくないとされた人が、イエス様に望みを置くようになるのです。本当は希望なんか持てない状況にいる、その私たちが、イエス様に望みを置くようになるのです。ピンチを感謝するようになるのです。

私たちはこのようにして、聖霊が働いて、その希望を信じることができます。教会は聖霊が働いてその希望を信じ続ける、持ち続けることができます。私たちはこの不思議な希望の集まりに一人でも多くの方に加わってほしいと願っています。一緒にどんな時も神様の希望に感謝する集いに加わってほしいと祈っています。

すでにその聖霊は一人一人に働き、信仰を言葉にすること、信仰の告白へと導いています。与えられている希望とそれへの感謝を表明するようにと、すべての人を導いています。

今日は特別な聖霊について考える特別な礼拝ですから、ぜひ新しく来られている方にもお伝えします。私たちはこの不思議な希望に、イエス様に望みを置く教会に、一人でも多くの仲間に加わってほしいと願っています。あなたにも聖霊が働き「私はこの希望を信じている」と告白し、バプテスマを受けてほしいと願っています。そしてもしそのお気持ちがある方は、私や信仰の仲間にお示しください。もっとそれがはっきりと与えられるように、一緒に祈ってゆきましょう。

でももちろん今の気持ちも大切にされてください。聖霊が人々に下る前は、イエス様はまだ言いふらさないようにと言いました。自分の中に大切にしておきなさいと言います。そのことも大事なことです。聖霊があなたに注がれるとき、その希望を公にするときが来ます。その時、信仰の告白がきっと起きるでしょう。一緒にその時を待ちましょう。

そして特にすでに信じて信仰を告白しているという方にもお伝えます。信じますという告白は一度きりのものではありません。もう一度信じますという告白が、繰り返し起こされるはずです。イエス様に希望を置くという告白、スタートがもう一度今日、みなさんに起こるはずです。一緒に聖霊を受けて、その歩みを進めましょう。お祈りします。