「バプテストのヨハネ」 マタイによる福音書3章1節~12節

エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、 罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。

マタイによる福音書3章5~6節

 

「教会」というテーマで宣教をしています。私たちはキリスト教のバプテスト主義の教会です。バプテスト教会は自由と平等と民主主義を大切にする教会です。教会員全員、あるいは今日初めてきた人もみんな平等に尊重される教会です。教会の中に上下ありません。自分たちの教会の事は本部が決めるのではなく、自分たちで決めます。教会の全員が一人一票を持ち、民主主義的に運営されています。私たちの教会は様々な面で、平等、自由、民主主義を大切にしています。

歴史的にバプテストは17世紀にイギリスで発祥し、アメリカを経由して日本に伝わってきました。直接にバプテスマのヨハネとバプテストがつながっているわけではありません。しかし、私はバプテスマのヨハネとバプテストにはたくさんの共通点があると思います。彼もバプテストだったのではないかと私は思います。今日はヨハネが大事にしたバプテスマと平等さということを見てゆきたいと思います。

今日の箇所を読みましょう。今日はバプテスマのヨハネをバプテストのヨハネと呼びます。ヨハネ以前からバプテスマは行われており、それは穢れを取り払うために何回でも受けてよく、自分で水に潜るものというものでした。しかしこのヨハネのバプテスマは、1回限りで、罪の告白を伴う、これまでとは全く違う特徴を持ったバプテスマでした。私たちのバプテスマとの共通点が多くあります。

このバプテストのヨハネのバプテスマ。ここには平等というテーマが含まれていると思います。なぜならそれは、穢れた者だけが受けるのではなく、全員が受けるべきものとされたからです。特に宗教的なエリートに向けて、厳しく語っています。自分たちを誇らないようにと厳しく伝えています。

バプテストのヨハネは神の前に全員が等しく罪人であるということにおいて、平等だと主張しています。だからこそ全員が、その罪の告白と信仰の告白、そしてバプテスマが必要だというのです。バプテストのヨハネも現代のバプテストと同じく、神の前における平等を訴える者でした。全員平等に罪人であり、全員が決定的な再スタートをせよと主張したのがバプテストのヨハネだったのではないでしょうか。

すでにバプテスマを受けた方々はすでに新しい生き方をスタートしている方です。生き方の転換がすでにそこからはじまっています。もう一度それぞれに自分の信仰を確認しましょう。これからバプテスマを受けたいと思っている方、この教会に加わりたいと思っている方がいるでしょうか。一緒に新しい生き方のスタートを切りたいと願っています。ふさわしくなったらバプテスマを受けるのでもありません。今のあなたからスタートしてほしいのです。