【全文】「抑止力か、愛か」マタイによる福音書6章24節

だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。             マタイによる福音書6章24節

 

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること、主に感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。こどもたちと一緒に礼拝をしましょう。そして私たちはこの教会のこどもだけを大切にするのではありません。この地域のこどもを大切にします。そしてさらにこどもの今だけを大切にするのでもありません。こどもたちの未来も大切にしたいのです。こどもたちに平和な世界を渡してゆくことも、私たちが大切にすることのひとつです。今日もこどもたちの声を聞きながら、一緒に礼拝をしてゆきましょう。

先週から平和について考える礼拝を持っています。先週は命は宝、命どぅ宝(ぬちどぅたから)という沖縄の言葉、そして沖縄の歴史の中から、命は神様が造った宝だから殺さない、戦争をしないのだということ。そしてこの礼拝から平和を造る者と変えられてゆきたいということを考えました。今日ももう少し沖縄のことから福音を考えたいと思います。今日は沖縄の今から考えたいと思います。

「沖縄に基地は必要だ」という声は根強くあります。「沖縄には申し訳ないが、やはり抑止力として沖縄に基地が必要だ」と言われます。その時はよく沖縄を中心にした地図を見せて「沖縄からなら、アジアのどこでもすぐに駆け付けられる場所にある、沖縄ならすぐに相手を攻撃できる場所にある」と示され、だから抑止力として沖縄に基地が必要なのだと言われます。

「抑止力」とは相手より強い軍事力を持つことで、相手に攻撃をさせないこと、その力です。強い大きな基地が沖縄にあることで、相手が日本を攻撃してくることがなく、日本全体が平和になるということです。沖縄に基地があるから、近隣諸国は反撃を恐れて好き勝手にすることができず、おとなしくしているのだという考えです。

しかし、私たちキリスト者が目指す世界はこのような世界でしょうか。目指す平和はこのような平和でしょうか。私たちが目指すのは強い軍事力で牽制しあう、抑止力に頼った平和でしょうか。そもそもその「抑止力」には、本当に効果があるのでしょうか。

私たちの周りにも抑止力はあります。犯罪を犯した人は罰を受けます、罰を受けたくないから犯罪をしないというのも抑止力です。でもそれで犯罪がなくなるわけではありません。自分も死んでいい、死刑になってもいいと思って犯罪をする人には、抑止力は一切効果がありません。もちろん、戦争や犯罪を思いとどまらせる一定の効果はあるでしょう。でも私たちはそれを使うかどうか問われています。私たちの人間関係にも抑止力は働いています。

あの人には文句の一言も言いたいけれど、そんなことしたらその何倍も嫌味を言われるのでやめておこう。だからなにも言わない。それも抑止力です。そこでは表立って争いは起きません。でもそれは平和でしょうか。それは平和ではなく、ただ相手を押さえつけているだけです。抑止力で生まれるのは平和ではありません。ただ力で押させつけているだけです。

さらに抑止力は相手より強いということを常に維持しなければならない問題もあります。新しい兵器、基地を作り続けなければ力関係を保つことができないのが抑止力です。世界は本当にこのような仕組みを続けるでしょうか。そしてキリスト教はこの世界の仕組みをこれからも支持するのでしょうか。日本はこれからも沖縄の基地を抑止力として使い続けるのでしょうか。

平和は抑止力によっては生まれません。軍事力によって平和は作ることはできません。平和なように見えて、それは必ずひずみを起こし、次の戦争を起こします。私たちは軍事力によって平和を造り出すことができないのです。

もちろん基地が無くなりさえすれば平和になるかといえば違うでしょう。もっと平和を造っていく働きが大事です。例えば文化的な交流によって、例えば格差をなくすことによって、歴史をよく学ぶことによってです。私たちは一生懸命抑止力を強くすることに力を使うのではなく、そのような平和を造り出すことに力を使いたいと思うのです。

このように軍事力で平和を造ることはできません。私たちは軍事力と平和の両方に仕えることはできないのです。それは今日の聖書箇所にあるように、神と富と両方に仕えることができないのと同じです。私たちは軍事力と平和の両方に仕えることはできません。私たちはどちらによって命を守るのか、ひとつを選ばなくてはならないのです。今日の聖書箇所を読んでゆきましょう。 

 

 

今日の聖書箇所をもう一度読みましょう「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」とあります。

イエス様は二人の主人に仕えることはできないと言っています。神か富かどちらかを選ばないといけないと言っています。クリスチャンは全財産を捨てなさいという意味ではないでしょう。これは私たちの命や関係について語っている言葉です。

このことはまず私たちのお互いの関係において当てはめることができることです。私たちの関係は、特に教会での関係は富や力によって決まるのではありません。お金持ちの人、肩書がある人が偉いわけではありません。教会の中ではあの人はお金持ちであることとか、肩書があることとかはどっちでもいいことです。教会はそれを軽んじます。

それより私たちが大切にする、親しむのは、私たちの関係は神様を中心にした関係だということです。力や富の有無ではなく、神様との親しみの中にある関係を大切にします。だからこそ教会の中では上下がなく、肩の力の抜けた、互いに優しさのある言葉を交わします。私たちはそのように神様の中で関係を造ろうとしています。それが教会の良さではないでしょうか。教会って場所は平和だなって思うのではないでしょうか。

この教会の中で起きていることは私たちの世界でも本当に起きてほしいことです。特に私たち、平和の礼拝を持つとき、私たちの命が何によって守られているのかを、この個所から考えます。

私たちの住む世界は、お金と力がものをいう世界です。お金や力があればたいていの問題は解決することができる世界です。お金があれば武器を揃えることができます、医療も受けることができます。生活が楽になります。健康で長生きができます。だいたいの問題はお金で解決できるのでしょう。

だからこそ私たちの世界は富・お金によって自分を守ることができると錯覚するのでしょう。富が私たちの命を守ると錯覚するのでしょう。軍事力はこの富とよく似ています。それが人よりたくさんあれば自分を守ることができると錯覚するのです。軍事力が他より大きければ自分たちの命は守られると思ってしまうのです。

しかし富・お金・軍事力をいくら自分のもとに集めても、本当の平和は生まれません。相手との関係を造ること、互いの命を守ることはできません。富や力に支えられた平和は、平和に見えても、平和ではないからです。

私たちは富や力が平和を生み出すとは考えません。むしろそれは次の戦争を起こします。私たちは何によって平和を造るのでしょうか。私たちは平和は神の力によって造られると信じます。この教会の中で起きているように、世界も神の愛によって平和が造られると信じます。神の愛こそ平和の源であり、私たちの命を守ると信じます。

私たちははっきり選ばなければいけません。その間はありません。いつでも相手を攻撃できる体制を整えてから握手をするのでは、平和でも愛でもありません。富と力で相手より優位に立とうとすること、相手を押さえつけることは愛でも平和ではありません。抑止力に頼りながら、他者を愛することはできないのです。私たちは抑止力か愛かどちらかを選ばなければいけません。「愛を憎んで抑止力を愛するか、愛に親しんで抑止力を軽んじるか」どちらかなのです。

「抑止力か、愛か」私たちはどちらかを選ぶでしょうか?極端に思える選択が、私たちに迫られているのではないでしょうか。

神様は私たちに富や力による平和ではなく、神の愛による平和を造り出すことを求めておられます。私たちは抑止力、基地を持ったままでは、隣国を愛することができないのです。基地を持ったままでは愛し合うことができないのです。

私たちの教会ではすでに、富と力を軽んじ、愛を選んでします。その選択を世界でもしてゆきたいのです。私たちが互いに愛し合う群れを作るように、互いに愛し合う世界を造ってゆきたいのです。そのためにもう基地をやめたいのです。沖縄に基地が必要ないのです。厚木にも横須賀にも、日本にも、世界にも基地はいらないのです。

私たちは2回にわたって沖縄の歴史と今から平和を考えました。東京・関東からではなく、日本の小さな島、沖縄から日本、そしてキリストを見ると様々なことに気づかされるということがわかります。

私たちは力の強い者、富のある者に親しみ、声を聞くのではありません。基地の存在に苦しむ場所、世界で日本で小さくされている人の声を聞いてゆくことに親しみたいのです。その人々が抑えつけられている力を知り、そこから解放されることを祈り、連帯してゆきたいのです。基地と抑止力ではなく、愛を選びたいのです。お祈りします。