【全文】「地域に仕える教会」マタイによる福音書19章1節~12節

あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。

マタイによる福音書23章11節

 

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝をできること感謝です。こどもたちも集ってくれています。声を聴きながら共に礼拝をしてゆきましょう。

私たちはイースターの後から「地域と福音」というテーマでみ言葉を聞いてきました。今日がこの「地域と福音」というテーマの最終回です。シェルターを通じて、神様は家になってくださるお方だということ。パトロールを通じて神様は訪ねてくださるお方だということ。炊き出しを通じて神様は私たちを食事に招いているということ。そしてこひつじ食堂を通じて、相互関係の中に教会があることと、教会が具体的な必要に応えることを読んできました。どのようにお感じになったでしょうか? 

振り返ると、教会の平日の様子ばかりを話したような気がします。もしかして毎週日曜日に長く通ってきた教会員の方々にとって疎外感を感じるテーマだったかもしれません。でも、この教会が一番大切にしているのは紛れもなく礼拝です。ここからすべての活動をスタートしています。私たちは一緒にスタートしています。私たちは礼拝共同体です。

そして同時に今回は、私たちの教会は礼拝だけをしている場所ではないということもよく知ることができました。教会には平日もたくさんの人が出入りしていることを知りました。今日はこひつじひろばについて、少し全体をまとめながら考えたいと思います。

教会は毎週木曜日10:30~12:00、教会の裏側にある「こひつじ館」を「こひつじひろば」として開放しています。誰でも使える無料の子育てスペースです。近所の保護者とこどもたちがぞろぞろと集っています。おもちゃや滑り台があって、こどもたちが自由に遊んでいますし、ここでお母さん同士が友達になっています。帰りにデニーズに行ったり、お互いの家で遊んだりと、お友達作りの場となっています。

この「こひつじひろば」の特徴はプログラムがまったくない「自由遊び」という点です。他にも似た場所がありますが、そこでは絵本を読んだり、保育士さんが来て相談に乗ったりするケースも多いようです。でも、ここにはプログラムはありません。のんびり子育てや世間話をするのが「こひつじひろば」の特徴です。そしてもう一つの特徴は公共施設以外で行われているのは、市内でこの平塚バプテスト教会だけということです。

このことはとりわけコロナ禍の中で、地域に必要とされることになりました。公共施設はのきなみ使用ができなくなる中で「こひつじひろば」は庭を使ったり、会堂のこどもスペースを使ったりして続けることができました。「ここしかやってない」という声も聴きました。多くの人がこどもを遊ばせる場所として、ここを必要として集いました。

こひつじひろばの活動や、特徴、あるいはその他の地域活動は、私たちが地域とどう関わろうとしているのか、どのように隣人になろうとしているのかをよく表していると思います。私たちは地域の必要に応えているということです。そしてそこでは何かを教えるのではなく、保護者の感じた子育ての喜びや楽しさ、そして苦労話を聞くばかりです。でも私はその教会の関わり方が良いと思っています。

教会は地域との関係を上下関係でとらえず、教える側、提供する側、救う側になるのではなく、対等な相互関係としてとらえて活動をしているとうことです。私たちの地域活動は、必要に応えてゆくこと、人々の声を聞いてゆくことを、大切にしているといえるでしょう。

今日の聖書箇所を読みますが、私はこの個所から教会と地域の関係、そして私たちの在り方について教えられるような気がします。教会は地域に、教える側、提供する側ばかりになるのではなく、地域の必要に応えてゆく場所、仕えていく場所になってゆこうということを見てゆきたいと思います。神様が教会は地域に必要に応え、仕えなさい。そして具体的に働きないと私たちに語り掛けていることを聞いてゆきたいと思います。

 

 

今日の聖書箇所を読みましょう。今日の箇所でイエス様は宗教指導者に対して、人々との関わり方を批判しています。伝統的なユダヤの人々は今も、祈るときに聖句の入った小箱を頭につける習慣が今でもあります。しかし宗教指導者の中にはこの箱を大きくしたり、服の裾を長くしたりする人がいました。これは宗教指導者と一般民衆を一目で見分けることができる、差がはっきりするということにつながりました。

イエス様が批判しているのは、宗教指導者が、私は一般民衆とは違うのだとアピールすることです。着る者や身に着けるもの人々と変えるということには、上下の意識があったでしょう。見た目の違いは、私は上、あなたは下であるという、宗教指導者と民衆の上下をはっきりさせるものとなりました。宗教指導者と民衆が対等ではなくなってしまっている、イエス様はその関係を批判したのです。

これは誰への批判でしょうか。愚かで律法主義に凝り固まったユダヤ人への批判という理解を超えてゆきましょう。私たちは地域と福音というテーマの中でこの福音を聞いています。その時、私は私たちのキリスト教の教会をこの宗教指導者たちに重ねます。ユダヤ教への批判ではなく、キリスト教の教会への批判としてこの個所をとらえたいのです。教会は地域と上下関係にあるのではない、対等で相互的な関係にあると、私はここから聞きます。教会は人々の上に立とうとするなと聞きます。

私たちもこのこと、十分に気を付けなければいけません。教会はどこか上から目線になってしまうことがあります。私が真理を知っていて、あなたは真理を知らない。教会は光、この世は闇。教会はそのような上下関係で他者との関係をとらえてしまうことがあります。この批判をキリスト教、私たちの教会の批判として受け取りたいのです。教会と人々が対等で相互的な関係であることをイエス様は語ったのだと私は思います。

そしてイエス様は続けてもう一つ批判をしています。宗教指導者は教えていることは正しいが、指を一本も動かさないという批判です。よくキリスト教は信仰義認ですと言われることがあるでしょうか。神様は何か良いことをしたかどうかというよりも、心・信仰があるかどうかを大事にしていますよと教会は語ってきました。

もちろんそれは大事なことです。イエス様も教えは守りなさいと言っています。しかし聖書は「行為よりも信仰が大事」とばかり語っているわけではありません。特にマタイ福音書では行為・実行を大事にするという箇所が多くみられます。教えや心の持ち方だけではなく、行動に移すことが重要だと語る場面が多いのです。今日の箇所もその一つです。教える、学ぶだけで実行しない者になってはいけないということです。

イエス様はここで私たちの教会の姿について、二つの批判をしています。上下関係になるなということ、そして実行しない者になるなということです。

イエス様は「上下関係になるな」「行動しない者になるな」という2つの禁止の命令と共に、こうなりなさいという命令も合わせて語ります。11節で「仕える者になりなさい」と言っています。これは地域活動のテーマとなる言葉でしょう。聖書の言葉(ギリシャ語)では仕えることを「ディアコニア」と言います。この「ディアコニア」は地域と教会の関係を考えるときによく出てくる言葉です。仕える(ディアコニア)はもともと食事を運ぶという意味です。お盆を持って食べ物を運ぶイメージです。それは多くの場合、奴隷、身分の低い者が担う仕事でした。

ですから仕えなさいとは、こうです。教会が地域から尊敬される教えを語るだけではなく、一緒になって働きなさいということです。もちろん語っていくことも大事だと言っています。しかしそれと同時に、必要なものを必要な人に一緒に届けてゆくこと、みんなで必要なものを運ぶことをイエス様は「仕えなさい」という言葉で求めておられます。

それはこの禁止の命令に沿って考えるなら、ただ提供する、上から下に提供されるのではないはずです。むしろそれが逆転されるような、教会が下とも思えるような、対等な関係で必要に応えてゆくこと、それが仕えるということです。

イエス様は教会は地域に教える場所、指導する場所である以上に、人々に仕えることを大事にしなさいと教えられています。一目置かれることよりも、これまでの上下の逆転するような、上下のなくなっていくような、そんな教会になりなさいというのが「仕えなさい」という意味でしょう。教会と地域が対等になる、地域に連帯する教会になってゆきなさいとここで語られているでしょう。

そして必要に応えることも大事なことです。教えるだけ、社会を批判するだけ、救いを語るだけではいけないとイエス様は語ります。対等な関係で具体的な必要に応えてゆくこと、私たちの活動によってそれを表してゆくことを勧めています。そのことがイエス様の「仕えなさい」という言葉の意味でしょう。

私たちは対等な関係でありましょう。教会の中のわたしたち同士が対等な関係でありましょう。そして、私たちはこの信仰と共に、具体的な活動も大事にしてゆきましょう。私たちは福音のみ言葉を土台として、これらの活動を行います。「仕えなさい」という言葉が土台に活動をしてゆきましょう。

地域と福音というテーマで聖書を読んできました。私たちは人々の声を聴き、一緒によい世界を実現してゆくことを願います。そのようにして地域の人々と一緒に歩むのです。そのようにして私たちは「隣人」となってゆくことができるのです。地域のために祈り、対等な関係として地域と出会う、地域の必要に応えてゆく。仕えてゆく、そこから必ず福音が聞こえてくるはずです。地域に仕えましょう、そして互いに仕えましょう。地域のために祈りましょう。そして互いのために祈りましょう。お祈りします。