【全文】「礼拝はみ言葉が中心」ルカによる福音書4章16節~26節

みなさん、おはようございます。今日はようやく集うことができること、この礼拝が実現したこと、心から嬉しく思います。心から主に感謝します。どのように過ごされてきたでしょうか。このコロナの出来事、影響を受けない人は一人もいませんでした。その間の生活や仕事に、ひとりひとりのドラマがあったはずです。つらかったこと、悲しかったこと、見つけた喜び、大切な気づき、生活の変化があったでしょう。ゆっくりと皆さんから聞きたいです。これから少しずつ皆さんと分ちあってゆけたらと思います。礼拝終了後、庭にお茶の準備をします。短い時間ですが、ぜひ交わりを持ちましょう。

私たちはこどもたちを大切にする教会です。今日も子ども達が集まってくれました親子室が狭い、密だということも懸念事項です。子ども達が安全に、三密を避けられるように、一緒に礼拝しお互いの命、存在を感じながら、礼拝できるようにということも検討をしています。一緒にこの礼拝の時を守って行きましょう。

またインターネットでも引き続き配信をしています。この機会、様々な事情で集えない方々の気持ちが本当にわかるようになった私たちです。集えなくても私たちは仲間です。それぞれの場所で礼拝をされている方も、一つの体として共に礼拝をしましょう。今日は礼拝の中心はみ言葉、聖書朗読だということ。そして宣教はその御言葉の実現を見てゆくことなのだということを共に考えたいと思います。

私は外出自粛の中、子どもと絵を描いて遊んだことがありました。自分の行きたい温泉旅館の絵や、妻が昼寝をしている様子を描いたりしていました。私は今はそうでもないのですがが、もともと絵を書くのは大の苦手でした。美的センスが乏しいのです。中学校の美術の成績で10段階で2、5段階なら1をとったことがある。それだけ大の苦手でした。そんな私ですが、絵についてもっとも印象に残る出会いは、ピカソです。

ピカソの絵を最初はまったく理解できませんでした。彼の絵は遠近法が無視され、抽象的になっているのが特徴だそうです。その絵を見ても下手な絵にしか見えないのでした。しかしゲルニカという絵との出会いは衝撃的でした。こういう絵です(絵を見せる)。

この絵を見て、私は直感的に衝撃を感じたのではありません。見ても価値は全く分かりませんでした。しかし、この絵が何を書いたのか、その解説を聞いて、初めて私はその価値を知ったのです。この絵はゲルニカという街で起こった、ナチス・ドイツの無差別爆撃、いわば市民に向けた爆撃を、市民虐殺をモチーフにした絵です。この絵ゲルニカには、無差別爆撃のイメージが描かれているのです。

その解説を手掛かりに、絵を見て想像力を膨らませます。そのような視点でこの絵を見ていると、折れた剣、バラバラになった体、叫ぶ動物たちを見つけることができます。すべての生き物たちの戦争への怒り、悲しみ、恐怖、平和への願いがこの絵から伝わってきます。

この絵から何を受け取るかは人それぞれ違うでしょう。それぞれにイメージが与えられるはずです。そしてイメージすればするほど、この絵に引き込まれていくのです。この絵から何をイメージするかは自由です。この絵をどのように解釈するかも自由です。何がそこに見えるかはそれぞれが感じることです。そこに正解はありません。

しかし私はまったく理解できなかったこの絵を、ほんの小さな解説をきっかけに自分なりに感じる、自分なりに理解をするという事を体験しました。短く小さな解説から絵のイメージが膨み、感動を受けたのです。貴重な解説でした。

もちろん、ここで大事なのはその絵の解説ではなく、絵そのものです。そして絵はこのことを感じてくださいとは書いてありません。その絵は私たちに想像力を求めます。絵があなたはどう受け止めるか、何を感じるかを問いかけてくるのです。

私はこの絵と、絵の解説の関係、聖書と宣教の関係によく似ていると思います。礼拝の中で一番大事なのは、み言葉です。礼拝の中心は紛れもなく、み言葉なのです。聖書のみ言葉が中心なのです。私は宣教の時間でその御言葉の解説のようなことをしています。

私は宣教の中で比較的「ここはこういう意味だ、こうしよう」という結論のようなことをはっきりと言う方でしょう。しかしそれはあくまで助けです。理解の助け、想像力の助け、皆さんがどう思うのかという問いかけです。

礼拝の中で一番大事なのは、誰かの解説よりもみ言葉そのものなのです。ですから皆さんがみ言葉から受けたイメージ、感じたことや問いを、ぜひ大切にしてください。宣教をきっかけに皆さんの中に、それぞれのみ言葉のイメージが残ることを願っています。

そのように礼拝を考える時、礼拝の中で一番大事なのは、宣教の時間という事よりも、聖書に直接触れる時、つまり聖書朗読が礼拝の中で一番大事だという事を感じます。

聖書はかつて一人が一冊ずつ持つというものではありませんでした。手書きで書き写され、会堂で大切に保管された巻物の形が多かったのです。ですから聖書の言葉は、聖書朗読を「聞く」ことによってしか受ける事が出来ませんでした。読むという機会はほとんどありません。会衆にとって聖書朗読を聞くことはとても貴重な機会で、重要なものでした。それはまさしく礼拝の中心、それは礼拝の中でもっとも重要なプログラムでした。

 

ですから当時の礼拝で、聖書朗読の奉仕は最も名誉ある奉仕とされました。教師や旅人など様々な人がその奉仕を任されました。私たちも聖書朗読を当番にしてみてはどうでしょうか。礼拝の中でもっとも重要なのはみ言葉、聖書の言葉です。聖書朗読です。聖書とその朗読が、礼拝の中で一番大事なプログラムなのです。

礼拝で一番長く時間を取るのは宣教ですし、聖書には一人で読んでもわからない部分がたくさんあります。そんな時私たちは礼拝の中心はこの宣教の時間だと感じることもあるかもしれません。しかしやはり礼拝の中で一番大事なのはみ言葉、聖書朗読の時です。

宣教とは「み言葉の僕」です。私はそのように理解して宣教します。宣教とは聖書のみ言葉を分かち合うものでなければなりません。その中心が話す自分や誰か人間や、誰かの体験であってはなりません。宣教はみ言葉を中心としてされるのです。

礼拝の中心は宣教ではなく、み言葉、聖書朗読です。礼拝は聖書講演会、聖書勉強会ではありません。どちらかといえば聖書を聞く会、聖書を読む会なのです。み言葉の意味がわかるか、わからないか、それが礼拝の善し悪しの基準ではありません。わからなくても、寝てても、聞いていなくても、神の言葉は神の言葉に変わりはありません。み言葉がある限り、それは礼拝なのです。宣教する私自身も、このみ言葉との出会いを大事にしたいと思っています。

もちろん聖書の言葉を理解すること、納得し、自分のものとすることもとても大事なことです。意味が分からない呪文を聞くのではありません。そして宣教は美術の解説と同じではありません。そこに神様の力が働き、神様の力によって、それが生き生き語られる業なのです。

私たちの礼拝はこのように神のみ言葉が中心です。再び集まることが出来た今日、そのことを皆さんと分ちあっておきたいのです。私たちの中心は神様、私たちの礼拝の中心は神様のみ言葉なのです。

今日の聖書の個所を聞きましょう。イエス様は今日の個所で、聖書朗読をされています。イザヤ書です。イエス様も聖書を朗読されたのです。み言葉を中心とされたお方です。会衆もイエス様が聖書を読んだのを、かたずをのんで見守りました。私たちよりもっと集中して聞いたでしょう。そしてイエス様はこのみ言葉について、宣教ともいえる言葉を残します。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」という言葉です。

み言葉、聖書朗読が礼拝の中心です。では宣教とは一体何でしょうか。何を指し示すものなのでしょうか。そのヒントがここにあります。ここでイエス様はみ言葉の実現を指し示しています。イエス様が聖書朗読の後に持たれた宣教、その役割は今日のみ言葉がすでに私たちの中に実現をしているということ、あるいはもうすぐ実現するという事、そのことを確認するということがイエス様の宣教でした。礼拝はみ言葉が中心です。、そしてそのみ言葉が、いま私たちの間でどのように実現をしているのか確認すること、やがて訪れると確信を起こすこと、それが宣教なのです。

今日私たちはまずこのみ言葉をしっかりと聞きましょう。そして私たちにもこのみ言葉がすでに実現したことを、この宣教によって感じてゆきましょう。私たちに実現したこととは何でしょうか。

そうです私たちは2カ月会うことができなかったが、今日私たち一緒に礼拝する、そのことが今日実現したのです。それはまさしく今日の聖書のみ言葉にある通りの出来事でしょう。それは捕らわれていた人が解放されたような出来事です。自宅にいなければならない、自宅に捕らわれていた私たちが解放された出来事。それが今日私たちの礼拝で実現したことです。まだ集うことが出来ない方にもきっとそれが起こります。

今まで会うことができなかった、YOUTUBEでも見ることができなかった、見えなかった、お互い、あの仲間が今日は目の前にいます。今日私たちには見る事が出来なかったことが見える、そのことが実現したのです。

周囲からはもっとも不要不急と思われるのが礼拝です。しかし私たちは不要不急と言われるその抑圧から解放されて、今日集うことが実現したのです。イエス様は今日すでに実現したとおっしゃいます。それは今日私たちにも同じ様に実現したのです。今日私たちに神の業が、実現しました。神様の言葉が実現をしたのです。この礼拝に集えたこと、それが神様の業です。その御言葉の実現なのです。

今日私たちはこの礼拝の中で、このみ言葉を思いめぐらせましょう。礼拝はみ言葉が中心です。そしてこの宣教の時、それぞれにみ言葉のイメージを頂きましょう。

 

お祈りいたします。