【全文】「神の性平等宣言」ガラテヤの信徒への手紙3章26節~28節

みなさん、おはようございます。今日もそれぞれの場所からですが、共に礼拝できることに感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。小さい者を大切にする教会です。今日も共に礼拝をしてゆきましょう。

今月私たちは男女平等と、性的少数者について聖書に聞いています。難しいテーマでしょう。1カ月の中ではとても私たちは理解することはできないでしょう。でもこれをきっかけに、私たちは様々なことを考えるスタートにできればと思います。

私たちは男女平等を目指します。社会の中で、教会の中で、家庭の中で女性が役割を押し付けられたり、役割を奪われたりすることに反対をします。男女あらゆる性の人が、平等に役割を持ってゆくことを願っています。特にコロナ禍の中では、女性の貧困や行き詰まりが指摘されています。女性に安定した職業が与えらないからです。もちろん教会もこの女性差別と無縁ではありません。特に女性牧師について向き合う必要があります。

平塚バプテスト教会はアメリカ南部バプテストからの多大な支援を受けて設立された教会です。これまでの多くの経済的支援、そして宣教師などの人的な支援を受けてきました。

しかし2000年を区切りに日本バプテスト連盟とアメリカ南部バプテストは別々の方向性に進むことになりました。そのもっとも大きな原因だったのは女性牧師についての考え方の違いでした。

南部バプテストが2000年に出した信仰告白ではこのように宣言されています「男性も女性も教会に仕える賜物を与えられているが、牧師の職は聖書によって資格づけられた通り、男性のみに限定されている。」(Ⅰペテロ5:1~4)。つまりアメリカの南部バプテストの教会は女性は牧師になれない、なってはいけないと決めたのです。

これは当時日本で大変な衝撃をもって受け止められました。アメリカから来ている女性牧師・宣教師であった人々はすべて解任され、帰国するように求められました。

もちろん日本のバプテストはこの姿勢に反対し、アメリカとは別の道を歩むことにしました。私たちは男女、性に関わらず牧師となることができると考えたからです。アメリカから来ていた女性牧師たちは中にはその後も日本に残って牧師として活動を続ける方もいました。

しかし、私たちはそれまでアメリカから様々な影響を受けてきました。そして日本の中でも女性を牧師としないという姿勢は確かにありました。女性は牧師としてではなく、牧師夫人として献身することが求められた時代がありました。そしていまなお女性牧師の比率は13%と非常に低い比率です。

私たちにはもしかすると今でも、牧師といえば、家族を持った男性。牧師の妻といえば教会のことや牧師のアシスタントをする人という考えが根強く残っているかもしれません。性による役割分担を当然とする考えは私たちの中にも残っています。

私たちはアメリカ南部バプテストを批判しますが、それだけではとどまりません。私たちもそれに影響を受け、そのような姿勢でいた、いるのです。

私たちは男女の間に、あらゆる性の間に起こる差別からの解放を目指す教会でありたいと思います。神様はそのような性による差別を否定される方だと私たちは信じます。だからこそ教会も、家庭も、社会も、男女とあらゆる性の人が平等に社会に活躍できることを目指してゆきたいのです。

日本バプテスト連盟は、今日のガラテヤ書3章28節に立ち、このような性差別に反対を表明しています。日本バプテスト連盟が出している宣言にはこのようにあります。「私たちは、私たちの間に様々な違いがあることを、イエス・キリストの福音ゆえに喜び、尊びます。しかしその違いに優劣をつけ、力の差として利用し、支配・被支配の関係性を生じさせる時、あらゆる差別が起こります」

性によって差別をしない、聖書は男女、あらゆる性の平等を語っているのだ、そのように告白がされていますし、それは私たちの信仰と同じでしょう。私たちは性によって役割を決めない教会です。

今日はそのことをこのガラテヤの信徒への手紙からいただいていきましょう。男性も女性も、あらゆる性の人々が神様の前に、あるいは社会の中において平等に生き、働く。聖書がそのことを宣言しているということを見てゆきましょう。私たちの身近、内側に、性による差別はまだまだたくさんあります。しかし神様が男女の、あらゆる性の平等を宣言しているということを見てゆきましょう。

 

 

今日はガラテヤの信徒への手紙ですが、パウロが手紙を送ったこのガラテヤの教会には分断と差別が起ころうとしていました。特に問題となっていたのは、神様はユダヤ人以外も救うのかということでした。

つまりユダヤ人以外、外国人は神様の救い・恵み・守りを受けることができないという人がいたのです。いまの私たちからは想像できない考えかもしれませんが、それは外国人差別と似たものと言うことができるでしょう。神様の救いはユダヤ人のみに起こる、外国人にはないと考える人がいたのです。

そのように二つに分断した人々へパウロは言いました26節「あなた方は皆、神の子だ」と。外国人も含めて全員に対して「全員、神様の子どもです」と呼びかけたのです。すべてに人に対して「神の子」として語り掛けたのです。

そしてパウロはガラテヤに3つの差別があることを挙げています。これは今の社会にも通じる3つの差別です。民族的差別、社会的差別、性差別の3つです。

民族的差別はイメージしやすいでしょうか。たとえば宗教や人種や地域に関する差別です。日本で言えば在日朝鮮民族への差別が民族的差別と言えるでしょう。人種や民族によって差別をしようとすることに、聖書は反対をしています。

もうひとつの差別は奴隷か自由人かという差別です。社会的差別といえるでしょう。それはたとえば職業や身分に関する差別です。日本でいうなら非正規社員への差別的な扱いが挙げられるでしょう。正規も非正規もないということです。

そして三つめは今月取り上げている性別による差別、性差別です。男か女かによっておこる差別、不平等です。おそらく、性による差別がすでにガラテヤ教会の中で起きていたからこそ、このような言葉が出てきたのでしょう。性による差別、それは男と女のゆがんだ力関係です。パウロは女は男に従い、男を補助するという関係を否定しています。男性が優先されることを否定しています。

3つまとめて考えるなら、自国民の身分の高い男性が、より神様に近いと考えていた人々がいたのでしょうか。外国人の身分の低い女性が神様から一番遠いと考えたのでしょうか。現代でも実際はこのような現実にあるかもしれません。平等に見えてもいざ災害、感染症が起きると、一番に追い詰められてゆくのはこのような人々です。

しかし聖書はどの民族か、どのような身分か、性別がどうかは神の前で一切関係ないと教えています。パウロはそのような、ゆがめられた関係性に反対をしています。パウロはその差別は必要ない、必ず終わると宣言しているのです。

そしてその時にパウロが繰り返し強調しているのは、それがキリスト・イエスによって起こるのだということです。私たちのゆがんだ関係はキリストによって、本来の姿へと回復されてゆくのだと言っているのです。私たちの平等は、神の子キリスト・イエスを根拠としているのだということを繰り返しています。

私たちの中には今なお性による差別が多くありますが、その差別は私たちが神様から力をいただいてこそ、乗り越えてゆけるということです。神様が、私たちの中に平等に向けた力を、与えてくださるのです。

私たちは神様の前に平等です。教会の中で平等です。そしてそれは教会の中にとどまりません。その平等は社会や家庭の中に広がってゆくのです。私たちが派遣されてゆく先、社会や家庭にも様々な課題があるでしょう。そこでも私たちはすべての人が平等であるということを確認してゆきたいのです。神様に聞き続けてゆきたいのです。

そして28節には「男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」とあります。私たちは一つだということが強調されています。もともと分断された二つのものが、一つになるのではありません。神様の下に、それはもともと一つのものだったということです。一つに“なる”のではなく、“もともと皆で一つ”だったのです。私たちは差別を超えて、必ずひとつに戻ることができるということです。

それは私たちが分かちがたく共同体として結びついているということを示しています。それは、ひとつの体であるともいえるかもしれません。

聖書はキリストによって差別は終わると宣言し、キリストにある平等が宣言されています。私たちの社会や教会にはまだまだ見えない差別、性差別、格差が存在します。私たちにも、なおガラテヤの教会と同じように分断と差別があるはずです。しかし私たちのその差別のただ中に、神の平等宣言が響きわたっています。

神様は性の平等を宣言しておられます。男、女、あらゆる性の人が神様の前に平等に恵みを受けてゆくと語っています。性に関わらず、神様に応答し、働くように招かれています。

私たちはこの神様の言葉を歩みましょう。この教会で、そして家庭で、そして社会全体のゆがんだ関係が、神様の平等に戻されてゆくように祈り、働いてゆきましょう。お祈りいたします。