カテゴリ:礼拝メッセージ2016



2017/03/26
信仰の父アブラムは、「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい」との主の言葉を聞いたとき、住み慣れたハランの町を出で立った。森有正(フランス文学者)はこのことを「アブラハム自身の内心の深いうながしに応じて自分で出かけた」と著書の中で書いている。そして、「内心のうながし」によって歩みだした歩みの中での経験こそがその人の信仰を形づくっていくという。アブラハムの信仰はまさにそのようにして形づくられた。  彼は主の示されるまま旅に出て、カナンの地を通って、「シケムの所、モレのテレビンの木のもとに着いた」。しかし、そこにはすでに先住民カナン人が住んでいた。戸惑う彼に主はご自身を現し、「わたしはあなたの子孫にこの地を与える」と約束された。しかし、アブラムにとって現実は厳しく、この約束の言葉は受け入れがたいものであった。そこで彼はさらに南へと旅を進めた。もはやこの旅は神の示すものではなく、彼の旅路であった。最初は神の言葉に聞き従って出発したのであるが、現実の厳しさのゆえに、終わりにはおのが道を歩み出す。これは信仰する者が出会う危機ではないかと思う。神の言葉は現実の世界から出たものではなく、神の可能性の上に立ち、神のみ心によって語られるものである。そこに神の言葉を聞く者のつまずきがある。どんなときにも、神のゆえに、神の言葉を何よりも確かなものとして信頼して生きていくところに信仰する者の生き方がある。  信仰の父と呼ばれるアブラムにして、この迷いと失敗があったのである。私たちもしばしばこの誤りを犯しやすい。しかし、アブラムは行く先々で、主のために祭壇を築き主の名を呼んでいる。それは神を礼拝することである。そして、そこには、「主よ、ここでよいのですか。ここがあなたの与えて下さる地なのですか」という問いが含まれていたのではないか。神の促しを聞き取って行こうとするアブラハムの信仰が見て取れる。神に問い、関係を否定しないところで生きるアブラム。  そのようなアブラムを主は離しません。そして、主のみ手はアブラムを離さなかったように、私たちを離したまわない。恵まんとして選びたまいし主のかいなは常に不信の徒を引き寄せ、恵みのみ翼のもとにはぐくみたもう。すべてをしのぐ圧倒的な神の恵み、そのゆえに、何ものも恐れずに、信じることを得させて下さいと祈り求めていくことこそ、私どものつとめである。
2017/03/19
神様は模範的な教会を用いられたのではなく、このコリントの教会のような、いわば劣等生のような教会を用いられた。私たち劣った者一人ひとりに対しても同様である。私たちは自己の弱さ、つまらなさに泣くとき、私たちが生きているのではなく、神様に生かされ用いられているのだと信じることが肝要である。私が仮に三つしか出来なくてもよい。神様がお用いになるときには、三も十も結局同じになってしまうからだ。なぜなら、神様は三の者にも十の者にも、無限大をプラスして下さるのだから、答えは同じなのである。だから、自分は三だけしか出来ないことを恥じる必要はない。いや、むしろ三を全力あげて出し尽くしていくところに、神様の働きがあらわれるのである。  この手紙の特徴は「慰めの神」について書かれてあることである。この数節に「慰め」という語が、10回も用いられている。神様の豊かな慰めが、苦闘するパウロの上にいかに満ちあふれていたかがうかがえる。どのような患難にあっても、神様の慰めが満ちあふれていたのだ。そして、神様はパウロに、その受けた同じ慰めをもって他の苦しむ人々を慰める力を与えて下さった。神様の慰めは、その人一人にとどまっているものではなく、その人を通して他にも働きかける。そして、この慰めの浸透しえない患難はないのである。ただし、パウロたちの受けている苦難は、いわば、キリストの苦難にあずかることなのだが、これはまた、ただちに、キリストにある慰めにあずかることでもあった。キリストとの苦難の共同、そして、慰めへの共同参与である。そのように、教会はいわば苦難の共同体であり、慰めの共同体である。  パウロが心血を注いで牧会したコリントの教会は、パウロから背いていた。なんでもない人が反対しても、さほど気にならないが、愛して育てていった者から背かれることは、どうにも許しがたく、つらく悲しいことである。このどこにも慰めを求めることの出来ない孤独の中で、パウロは慰めに満ちた神様を知ったのである。  その神様はいつも私たちのかたわらにいてくだる。神様が共にいて下さることが「神の慰め」でもある。「インマヌエル、アーメン」。
2017/03/12
種まく人のたとえ話は、神のみ言葉を人々に説くことによって、人々の心に神の国を築こうとするイエス様の目的が語られている。イエス様の教えの中に、またそれに答える人々の応答の中に存在するものとして、神の国を示している。「神の国は、実にあなたがたのただ中にある」(ルカ17:21)。...
2017/03/05
イエスは、このたとえ話を「自分を正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対して」語られた(9節)。登場するのは、一人はファリサイ派の人、もう一人は徴税人である。...
2017/02/26
「コヘレトの言葉」には、人生の知恵が語られている。ある神学者は「聖書の知恵は、一種の人生への応援歌である」と言っている。...
2017/02/19
イエスは「失われたものを尋ねだ」される(10節)。しかし、この物語で、最初に行動するのはザアカイである。イエスがエリコの町に来られることを聞き、見たいと思って行くが、人々から邪魔をされる。すると、今度はいちじく桑の木に登って、イエスを見ようとする。ザアカイの熱意と一途さがここにある。しかし、それ以上に彼のゆがんだ屈折した思いが感じられる。ルカ18:35~43に登場する目の見えない人は、通り過ぎるイエスに大声ではっきりと「わたしをあわれんで下さい」と助け求める。しかし、ザアカイは木の上から隠れて見るという行動しかとれない。ここに「失われたものの」姿を見る。  イエスはザアカイのように隠れて見ようとする人にも、同じように関わってくださる。イエスはザアカイの名前を呼ばれた。「今日、あなたの家に泊まることにしているから」(5節)とイエスの方から、ザアカイに強く迫られた。これは、「わたしはあなたの家に泊まらなければならない」という意味であり、彼の家に泊まることが神による救いの計画を表わしている。煮え切らない態度のザアカイでさえ、イエスは尋ねだされたのである。  そして、尋ね出された人には救いが来るのである(9節)。イエスを家に迎え入れたザアカイは大変喜び、悔い改めて、当時の法、慣習をも越える弁償を約束した。ここで意味深いのは、イエスはザアカイの仕事やその仕事ぶりについて何も言ってないことである。パリサイ人、律法学者であれば、取税人という仕事を捨てるよう要求しただろう。しかし、イエスは何も言われない。イエスは弁償のことさえ触れずに、ただザアカイの家族と共に食事をされただけである。そのイエスの深い愛に、ザアカイはまことの救いを見出したのである。ザアカイは真の悔い改めをもって、イエス・キリストにある救いを見出し、人生を生き直す方向転換をした。自分の名を呼び、自分をそのままで見つめて下さるイエスを知り、イエスと共に生きる決心をした。「悔い改めは人生の方向転換であって、人生からの脱走ではない」(レングストルフ)。  ここに、一人の人を見る神の愛のまなざしを見ることができる。ザアカイという一人の失われた者が、新しく正しい生き方に自分から進んで出ていったのは、イエスが彼を信頼されたからである。イエスは私たちにもまた、アブラハムの子である、神様から愛されている者であるというまなざしで見ておられる。私たちもそのように愛されている者として、愛する者へと変えられ、そのように人を見ていき信頼する者とさせてくださるよう祈りつつ励みたい。
2016/05/04
この申命記法は、礼拝をささげる場所についての戒めから始まる。6章4-5節に語られていたように、心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして主を愛することは、まず礼拝において実現されねばならない。...