この申命記法は、礼拝をささげる場所についての戒めから始まる。6章4-5節に語られていたように、心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして主を愛することは、まず礼拝において実現されねばならない。
さらに今日の12章でモーセが主張しているのは、偶像礼拝の行われる祭壇を単に破壊することではなく、「主が…選ばれる場所、すなわち主の住まいを尋ね、そこへ行きなさい」(5節)という積極的な姿勢である。ここで大切なことは、礼拝は人間の考えや感情、好みによって成り立つのか、それとも主の選びによって成り立つのかということである。5節が教えていることは、礼拝は主の選びと熱意によって成り立つということである。人間がどんなに熱心に礼拝をささげようと、それが自己中心の考えや情熱によってなされるものであれば、それは主に喜ばれる礼拝ではありえない。申命記の律法を書き記した人々は、人間がいかに自分が正しいと思うようにふるまい(8節)、自分の好きな場所で礼拝をささげようとする者であるか(13節)を知っていた。その悔い改めを踏まえ、主が選ばれる場所、主の住まいを尋ね求め、「主が見て良いとし、正しいとされる事を行う」(28節)よう申命記は命じているのである。
この「主の住まい」とは、歴史的に見ればエルサレム神殿を指している。しかし、後に主イエスは「あなたがたが、この山でも、またエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。……神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまことをもって礼拝すべきである」(ヨハネ4:21,24)と言われた。主イエスに出会った私たちにとって、「主の住まいを尋ね求める」とは、狭い意味での礼拝の場所ではなく、「霊とまことをもって礼拝する」ということである。詩編22:3に「けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます」(新改訳)とあるように、どんな場所や状況にいたとしても、私たちが霊とまことをもって賛美し礼拝をささげる時、主はその私たちの心からの賛美のあるところを住まいとしてくださるのである。
こうしてモーセは、心を尽くして主を礼拝すべきことを三度、繰り返し語る。その中でやはり三度繰り返されているのは、礼拝において、家族だけではなく、奴隷や土地を持たないレビ人と共に主の祝福を喜び祝いなさいという命令である。礼拝は、個人で捧げるものではなくレビ人や奴隷と共にみんなで喜び祝うものなのである。それは天の国で共に祝う終末の祝宴の先取りでもあるだろう(ルカ13:29)。キリストを通して新しい命に入れられた者は皆、新しいイスラエル、神の民の一員、民族・国籍・年齢・性別・職業・個性など互いに違う者が、共に主を喜び祝うのである。高い所(キリスト以外のものにより頼む傲慢な心)が取り除かれ、皆で心を尽くして主を賛美し、主の恵みを受けたお互いを喜び大切にする姿、それが「主の選ばれた場所」であり、真の礼拝なのである。