「低きに生まれる神」マルコによる福音書1章1~13節

神の子イエス・キリストの福音の初め。マルコによる福音書1章1節

 

「総合公園の柵、小さい子は見えない。上から見せろと言われる。確かにしゃがんでみると全然見えない。見えないという声、立ったままでは分からない。」入院中のKさんが書いた詩です。同じものでも他の人には見え方がまったく違うものです。見えないという人の声を聞き、しゃがんで見るのは大事なことです。

福音書も4つそれぞれ視点が違います。マルコ福音書にはベツレヘムも、博士も、羊飼いも、系図も出てこないのです。イエス様誕生の経緯にあまり興味がなかったとも言えるでしょう。それぞれの視点で記載が異なることは、豊かな事です。

そして私はどの福音書にも一貫している共通点があると思います。それは救い主イエス・キリストが弱い、小さい、中心から外れた場所に生まれたということです。人々の期待する場所とは違う場所に、生まれたということです。マルコはそれを、イエス様が「ガリラヤのナザレから来た」という言葉で表しています。

洗礼者ヨハネはバプテスマを受けて、救い主を待つようにと促しています。そのバプテスマは悔い改めのバプテスマと呼ばれています。よくキリスト教では「悔い改める」と言いますが、悪いことを反省し、もう二度としませんと考えるのが、悔い改めではありません。悔い改めとは見る視点を変えることです。しゃがんで見ることです。自分と異なる視点に立つことが悔い改めなのです

イエス様も悔い改めのバプテスマの列に加わったとあります。イエス様も視点を変えようとしたのです。私たちと同じ目線、低い目線になろうとされたのです。イエス様は雲の上から人間を見て、教えたのではありませんでした。水の流れる、もっとも低い場所に、自分の居場所を、自分の視点を変えたのです。そしてイエス様がバプテスマを受けると、10節天が裂けて「愛する子、心にかなう者」と聞こえたとあります。高い場所から、低い場所に身を移した者、視点を移した者こそ「神の愛する子、心にかなう者」なのです。イエス様はまさに、そのようなお方です。

1節を見ましょう。そこには「福音の初め」とあります。マルコの言う、福音のはじまりとはこのことでした。イエス様が無名小さな村から来た事、悔い改めに向けた、つまり視線を低くするバプテスマを受けたこと、私たちと共にその列に一緒に並んでくださったこと、それがイエス様の福音、私たちの「福音の初め」なのです。

神様は、私たちの思う身分の高い、近寄ることのできない場所に生まれるのではありませんでした。私たちと共に、地上に生まれ、バプテスマを受け、試練のあったお方でした。それは高い場所にではなく、低い場所に生まれた神と言えるでしょう。

来週はクリスマス礼拝を迎えます。私たちも悔い改めましょう。物事をしゃがんで見てみましょう。そのようにして、低きに生まれる神、主イエス・キリストが来るのを共に待ちましょう。お祈りします。

 

「差別を超える神」マルコによる福音書7章1~13節

 

こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。

また、これと同じようなことをたくさん行っている。マルコ7章13節

 

私たちはバプテストというグループの教会です。全身で水に浸かる(全浸礼)という洗礼の形式に強いこだわりを持っています。しかしどの宗教を信仰し、確信があったとしても、自分の信じる宗教的行為の有無によって、人を清いとか、汚れていると言うのは大きな間違いです。実は宗教はその熱心さゆえに、そのような差別を起こしやすく、キリスト教こそ多くの差別を生み出してきました。

聖書によれば、神様はみんなの命を尊いものとして創られたはずです。だからすべての命は等しく、尊いのです。宗教や、出身、国籍、肌の色、性、障がいに関わらず、すべて神様が造った命です。だから私たちは命に優劣をつけない、差別しないのです。今日はこの個所から、神様は差別をしないお方であること。命に優劣をつけないお方であることを見てゆきたいと思います。

ユダヤ教の人々は宗教的な理由で手をよく洗います。汚れに触れたかもしれないので、身の清めが必要なのです。これ自体を形式主義だと批判するつもりはありません。私たちのバプテスマもかなり不思議な習慣ですから、互いに尊重したいと思います。しかし私たちが注意したいのは背景にある差別の問題です。

このような手を洗うという「言い伝え」はイスラエル中心地エルサレムのエリート学者が編み出した規定です。そしてエリート学者は1節にあるとおり、各地を巡回し「指導」してまわったのです。これをしないと汚れた者だと指導したのです。

この宗教的熱心は差別に近いものです。汚れをはらうということが、神様に向き合う自らの姿勢という意味を超えて、他者を「汚れた者」とする差別へと発展するのです。このような差別はキリスト教の歴史の中ではユダヤ人虐殺に発展しました。

イエス様は今日の箇所で、どちらが優秀か、どちらが清いかという視点を変えるように促し、差別に反対したお方でした。汚れや差別ではなく、10節父や母、他者への慈しみに目を向けるようにと語っているのです。

私が今日箇所から思い起こしたクリスマスは、イエス様の誕生は聖なる場所で起きたことではないということです。イエス様が生まれたのは聖なる場所ではなく、汚れていると言われる場所、人間が住む場所ではない家畜小屋、差別のただなかだったのです。そしてイエス様はいつも汚れていると差別された人の真ん中におられました。イエス様の最後は十字架刑というもっとも汚れた死に方だったのです。それは私たちのクリスマスのイメージとは逆かもしれません。

でも神は人々から避けられ、劣っていると言われ、触りたくないと差別されるそこに生まれたのです。それがクリスマスの出来事です。本当にイエス様がおられるのは、きっとみなから汚れていると差別される、そこではないでしょうか。そして私の中の差別をする気持ち、そこに神様は来られるのではないでしょうか。このように神様は差別の中に生まれ、差別を超えてゆくお方です。お祈りします。

 

「クリスマスと終末の希望」マルコによる福音書13章24~37節

気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。マルコによる福音書13章33節

 

今日からアドベントです。私たちのクリスマスは毎年規則正しく12月25日に来ます。しかしイエス様の誕生以前は、いつ起こるかわからず、何百年も待ち、ある日突然、それは起きたのです。これは私たちのクリスマスとは大きく違います。

私たちにとってのクリスマスは、「やがて」必ず来るものです。そして私たちにとっては2000年前に「すでに」来たものです。私たちはこの二つ「すでに」と「やがて」を祝っています。イエス様は「すでに」私たちと共にいる、そしてまた「やがて」私たちに生まれて下さる、それが私たちのクリスマスです。

そして終末も同じように、「すでに」あるものであり「やがて」来るものです。私たちはクリスマスを待ち望むことを始めました。それと同じように私たちは終末も待ち望みます。今日はそのことを覚えてゆきたいと思います。

終末思想とは、イエス様が再び地上に現れる時に、世界が終わりを迎えるという考えです。中世では終末の時、クリスチャンは天国へ、ノンクリスチャンは地獄へ振り分けられ、地獄に落ちると永遠に罰を受け続けると考えられました。しかし私たちは信仰告白11にあるように終末を恐怖の瞬間ではなく、希望の時と考えます。

イエス様が来るという出来事の1回目はクリスマスであり、それは希望でした。そして2回目が終末の時です。そして2回目も希望の時となるはずです。

終末の時とはこの不完全な世界が、ゆがんだ世界が完全なものへと完成する時です。私たちはそこに、希望を持つのです。どんなにこの世界が不完全で、どんなに私の人生に苦痛があっても、いつか必ず終わりが来る、いつか必ず完成する時が来る、希望の時が来るのです。それが私たちの終末の希望です。

その日付を知りたいと願うでしょう。しかし日付は知らない方がよいのかもしれません。息の長い、日付の無い希望こそが私たちを励ますのです。今ではないけど「やがて」この世界が完成する、希望の時が来る、それが私たちの終末の希望です。

どこか終末を待つということは、クリスマスを待つことに似ているでしょう。32節から門番のたとえがあります。神様から責任と役割を託された僕は、そこで互いに平和に、愛し合う役割を与えられて誠実に、あきらめず、いつまでも待つようにと言われたのです。目を覚まし、しっかりとこの世界を見るのです。

そして終末とクリスマスは「すでに」来ているという点でも共通します。2000年前イエス様が来られたときから終末は始まっているのです。「すでに」クリスマスが始まっているように、終末も「すでに」始まりつつあるのです。イエス様が私たちと共におられるということにおいてです。

私たちには苦しい人生の中でも必ず「やがて」来る希望があります。そして今「すでに」ある希望がきっとあるでしょう。「すでに」来ている希望に感謝をしましょう。そして「やがて」来るその希望を共に待ちましょう。

 

「福音のためのバザー」マルコ10章18節~31節

「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」  マルコ福音書10章34~35節

 

キリスト教は全財産を寄付することを求めません。ご自分の財産はご自分のために使ってください。しかし、その財産があなただけの力によって築いたものかも考えて下さい。きっとそれは誰かに支えられ、受け取ることができたものでしょう。だとしたら、それを自分のためだけではなく、誰かのために献げ、返したいと思うものではないでしょうか。それは最近話題になる、所得の再分配とも通じると思います。

今日はこのあとバザーの準備をします。地域から集まった、もともと私たちのものではなかった物がそこで売られます。もともと私たちのものではなかったので、この収益も私たちのものとはせず、世界や地域のために寄付されます。「返す」といった方が近いでしょうか。これは再分配の交わりです。教会は福音のためにバザーを行います。売り、分かち合い、従うという福音のために、このバザーをしています。今日はそのことを聖書から聞いてゆきましょう。

金持ちの男がいました。当時は身分や格差が固定されていた時代です。金持ちであり続けたのは大きな土地を持ち、そこで農民を不当に安く働かせ、大きな利益を得たからでしょう。その財産は本当は、貧しく暮らしている人に返さなければいけないものでした。1日の命を守るのがやっとという貧しい人々の中で、金持ちが求めたのは17節「永遠の命」でした。イエス様はその金持ちに命令します。21節「従う前にまず、すべての財産を売り払い、貧しい人々に与えるように 」と。イエス様は金持ちに、貧しい人々から巻き上げた財産を返すように命令をしました。再分配するようにと命令をしたのです。しかしこの金持ちにはそれができませんでした。自分が持っている財産は自分の物だと考え、再分配を拒否したのです。

この話は富を独占する者の話です。聖書は、自らの財産は自らの力によってのみで作られ、自分のためだけに使うものだという考えを批判しているのでしょう。その財産は本当は分かち合い、返さなくてはいけないものだと語っているのです。

そしてイエス様はそれをできない人間の弱さ、罪もよくご存じです。25節「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」とは財産を自分のものだとしか考えられず、分かち合えない難しさを表しています。イエス様は財産を手放すことの難しさ、分かち合うことの難しさ、富を独占する人の罪、搾取を生む世界の罪を鋭く語っておられます。いかにそれが人間にとって難しい問題であるかを示しているのでしょう。

必要としている人と分かち合う、返す、それは難しいことです。27節「人間にできることではない」のでしょう。しかし同時に27節「神にはできる。神はなんでもできる」お方です。その福音を聞いた私たちは、きっと何かを分かち合うことができるはずです。イエス様の命令は、21節に3つあります。売り払いなさい、与えなさい、従いなさいです。私たちはともに売り、与え、イエス様に従ってゆきましょう。

 

「こどもを大切にする教会」マルコ10章13節~16節

 

「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」マルコ10章14~15節

 

私たちはこどもを大切にする教会です。しかし教会にとってメリットが多いから、こどもを大切にするのではありません。こどもを大切にするとは、一人前ではない、半人前の人、誰かの世話が必要な人を大切にするということです。人の役に立つことができない存在を、誰かに頼らないと生きてゆけない人を、教会は大切にするということです。それがこどもを大切にする教会です。

教会は誰かの助けが必要な人を大切にします。教会は生活に困っている人、障がいをもっている人、誰かに頼りたい人、一人では生きていけない人を大切にします。私たち一人一人は誰かに頼り、甘え、助けを必要とする、こどものような一人です。私たちは全員こどもです。助けを必要とし、それを受け入れる存在です。

今日の箇所は、私たちにこどもの様に、神の国を受けとめるようにと語っています。自分が誰かの助けを必要な者である、神なしでは立つことができない、そのような者に神の国が来ると語っています。今日の箇所を読みましょう。

聖書の時代、こどもは厳しい環境で生きなければなりませんでした。親や周りの大人はそのようなこどもたちに、イエス様に少しでも触れてほしい、そう願って、連れて来てたのでしょう。大人たちの温かいまなざしが伝わってきます。しかし13節の後半を見ると、弟子たちは怒っています。弟子たちの態度はま大人の気持ちを踏みにじるものでした。そしてこども自身も拒絶され、傷ついたでしょう。弟子たちはなぜ怒ったのでしょうか。自分がそばにいるイエス様は簡単に近づけない人なのだ、特別な人しか近寄れないのだと言っているように私には聞こえます。そしてそんな場面にイエス様が登場します。彼らを受け止め、抱きしめてくださるのです。

今日の箇所によれば、こどものようではなくては、神の国には入ることができません。神の国は何かができる人、他の人より優秀で、生産性が高い人、特別な人が入るのではないのです。こどものように、誰かを頼り、弱く、社会で小さくされた人こそが、神の国に入る、聖書はそう語っているのです。イエス様は頑張った順に救われていくという、私たちの常識を全く逆転させて語っています。私たちも何もできない、一人では生きていけない、こどものように生きるようにと勧められています。

こどもが親や大人に頼るように、私たちも神様や他者に頼って生きるのです。そのような歩みの上に、神の国が訪れるのです。私たちは神様に頼り、仲間に頼ります。それは私たちが、一人で生きなくていいということを示すでしょう。

私たちはこどもを大切にする教会です。誰かに頼る人を大切にする教会です。私たちは誰かに頼るこどものような人が集まる教会です。でもそこに神の国が始まるのです。私たちは神と互いを、なくてはならない存在として大切にする教会です。