「神と野獣」マルコ1章12~15節

 

イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。

マルコ1章13節

 

受難節の40日間、転入会やバプテスマの準備を始める方を特に歓迎する期間としたちと思います。私たちにとって仲間ができることは心強いものです。私たちの交わりは相手を変えることが目的ではありません。ただ共にいること、助け合う事、祈りあうことが目的です。私たちは誰かに自分と同じになれということ、自分の一部になれということ、その力が戦争を引き起こすことを知っています。ロシアのウクライナ侵略はまさにそのような戦争でしょう。

私たちはそうではありません。私たちはそれぞれを大切にします。そして私たちはたとえ分かり合えない、自分に都合が悪い、敵と思える、そんな人とも、共に生きる道を探したいのです。み言葉がいつもそれを励ましてくれます。私たちは違っていても共に生きる、そのことを今日、み言葉から聞いてゆきたいと思います。

今日の聖書箇所を見ましょう。マタイ、ルカにはなく、マルコにだけに記載があることがあります。それは40日間「野獣と共にいた」ということです。マルコによれば、イエス様はサタンと野獣をやっつけたのではありません。40日間「野獣と一緒におられた」のです。ここから示されていることはイエス様がこの期間、自分を傷つける、自分の敵、悪者と思える者と一緒に過ごしたということです。

イエス様は15節で「神の国は近づいた」と言っています。「神の国」の反対は「私の国」といえるでしょう。私がすべてを思い通りに支配できる、それが私の国です。私たちはそのような場所を求めているのではありません。イエス様が言う「神の国」とは異なる者が一緒にいることなのです。自分と自分の敵と思える者が、争わず同時に一緒にいることが神の国なのです。

教会は地域活動を通じて、様々な人、自分たちとは違う人と出会っています。でもその出会い自体が大事です。教会は相手を変え、打ち倒すのではありません。多少居心地が悪くとも、共にいるということが私たちの役割、地域協働なのです。

世界も同じです。相手を自分の一部としようとし、都合の悪い者を殺そうとする戦争が起きています。私たちは敵をやっつけるのではない世界を求めています。居心地の悪い隣人とも共に生きること、それが神の国です。

最後に、私たち自身をイエス様に敵対する者、私たち自身を野獣とする読み方もできるでしょう。私たちこそイエス様に従うことができず、傷つけあっている者、私たちこそ野獣なのです。しかし神様はそんな野獣を殺し、罰するのではありません。神様は野獣である私と一緒にいて下さるお方なのです。そしてその場所を神の国としてくださるのです。

今週も私たちはそれぞれの場所へと派遣をされ、それぞれの荒野で、違う他者と出会い、苦労し、共に過ごします。そのようにして、それぞれの場所を神の国としてゆきましょう。神様は必ず共にいて下さいます。お祈りします。