2020/11/23
今月も第四金曜日、11月27日(金)17時から「こひつじ食堂」がオープンします。 おとなも、こどももどうぞご利用ください。大人300円、こども100円です。 「さんまの炊き込みご飯」と「たっぷりの副菜」でみなさんをお待ちしています。 ※お金がない人は受付で相談してください。 ※メニューは変更になる場合があります。
2020/11/22
みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝をささげることができ、感謝です。私たちは子どもを大切にする教会です。共に礼拝をしてゆきましょう。...
2020/11/22
私たちの教会には生活困窮者のためのシェルターを持っています(場所は非公開)。今日出会った人をシェルターに泊めるのは、正直言って心配です。しかしそうしなければ、その方は野宿という危険な夜を過ごすことになります。本当は事情をよく聞いてからお泊めしたいのですが、疲れ果てている人に、一から事情を教えて欲しいというのは酷です。利用される方の多くは、安心するのか部屋に入ってすぐに眠ります。翌朝、着る物や食べる物を必要に応じて渡しています。 私たちがこの支援をするのは、困っている人を助けるためです。なぜ人を助けるのか、そこに目的は必要ありません。神様が造った命を守ること、助けることが目的だからです。私たちは礼拝参加などを条件にしていません。私たちは何かと引き換えに支援するではありません。 私がこの支援をするときに大事にしているのは、必ずこの方に神様の力が働いて、道が開けてゆくはずと信じて支援をするということです。多くの人は諦めや疲れを覚えてこの教会を訪ねます。でもその方の中に必ず神様の力が、必ず働くと信頼し、この支援を続けています。 きっと神様を知る方法は、聖書を読むことだけではないでしょう。そのような人との出会い、関係を通じても、神様はご自分の力を私たちにお示しになるのです。私たちはそのような人との出会いを大切にしましょう。 今日の個所にも生活困窮者が登場します。35節、ある人はこの人にできる限りの世話をしました。自らの危険を冒して助けたのです。おそらく支援を受けた人は、心身ともに休息の時間を得て、そこを旅立ちました。そして住居を提供した人は、何の見返りも求めませんでした。 私はこの物語から2つのことが大事だと思います。一つは住居を貸した側はあらゆる見返りを求めていなかったということです。もしかして助けたら、信者になってくれるかもしれないと思って助けたのではないということです。目的は助けることそのものだったのです。それは愛とも言い換えることができるでしょう。目的は愛そのものでした。愛を使って何かをしようとするのではなく、愛そのものが目的でした。 もう一つこの物語で大事なことは、私たちはどのように神様に出会うのかという問題です。私たちは聖書のみ言葉によってのみ神様と出会うわけではなく、困っている人との出会いの中で、神様に出会うのです。 この二つ、見返りを求めない事、神と出会う事は私たちのすべての活動に言えることでしょう。こひつじ食堂、こひつじひろば、サロン虹、炊き出しやバザー。教会にメリットがあるからやるわけではありません。今日の聖書の中の、助けた彼と同じです。ただ神の命のために私たちは働きます そして私たちは教会の中でこそ愛し合いましょう。痛み悲しみを共に祈りあいましょう。そこで神様との出会いが起こされるでしょう。そして必ず神様がすべての人に力を与えてくださるはずです。
2020/11/15
いま日本では少年法の厳罰化が議論されています。未成年の犯罪にも大人と同じ罰を与えようという議論です。少年犯罪が増加・凶悪化しているわけありません。むしろ減少し続け戦後最低を更新しています。罪を犯した未成年はまだ発達段階にある人間です。成長の途中に犯した罪には罰を与えるだけではなく、様々な教育や支援が求められているはずです。人との温かい関わり、私たちの言葉で言い換えるなら「罰」よりも「愛」が必要とされます。 罪を犯す少年に、罰を強化するのではなく、もう一度命の大切さを知り、共に生きることを選びたいと思うのです。だって人は生まれ変われるではないですか。罰せられるのではなく愛されることを知ることがどれほど大きな力になるのか、私たちは知っているではありませんか。 神様は敵と思えるような人さえも愛しなさいといいます。そして誰よりも神様ご自身がそのようなお方です。神様は条件を付けずに人を愛するお方です。そのことをもう一度、今日の聖書個所からいただきます。 そもそも、殴られない様にするには、相手の言うことに従えばよいのです。無言で従えば殴られることはありません。しかし間違っていると思う相手に反対を表明する時、殴られるのです。この個所は、善と悪をしっかりと見極め、殴られるとしても、悪に毅然とした態度をとるように求めているのです。 私たちは殴られ続けても、悪をうやむやにするのではありません。社会から悪をなくすために、毅然と立ちたいのです。イエス様はあらゆる暴力と罪に毅然と立ち続けることを私たちに教えているのです。 しかし聖書の要求はさらに私たちに厳しく迫ってきます。続く44節には「敵を愛しなさい」とあります。私たちは自分や誰かを殴る人を大切にすることができるでしょうか。家族とでさえ、教会の仲間とでさえ、傷つけ合ってしまうことのある私たちです。私たちの隣人だけでも愛するのが大変なのに、どうして敵を愛することなどできるでしょうか。 でも一つだけ確かなことがあります。それは、神様は隣人も敵もどちらも愛するお方だということです。神様が愛する範囲は、もはや隣人であることを超えてしまっているのです。神様は敵か味方か関係なしに、すべての人を愛し、大切にされるお方です。私たちに敵を愛せという以前に、そもそも神様が敵を愛しているお方なのです。神様の愛は一切の条件が無いのです。それが無条件の愛です。45節、太陽が人々を等しく照らすように。 私たち人間はいつも条件付きの愛の中にいます。しかしそれでも私たちは無条件の愛にむけて歩みを始めたいのです。今日神様の愛を頂いて、今週もすべての人を愛する、大切にするその歩みを始めたいのです。特に敵、苦手と思う人をもう一度愛する、大切にするチャレンジを今週したいのです。 イエス様はまさに地上でその歩みをされたお方でした。十字架の上でも、人々を愛し続け、暴力に十字架で向きあわれたお方だったのです。
2020/11/12
みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝を持つことができること、感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日も子どもたちと共に礼拝をしましょう。...
2020/11/08
みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝をできること、うれしく思います。私たちは子どもたちを大切にする教会です。特に今日は子どもたちを祝福する時をこの後に持ちます。大切にする子どもたちの成長は私たちにとってとてもうれしいことです。一緒に礼拝をしましょう。...
2020/11/08
バプテスマってなに?洗礼ってなに?
2020/11/01
みなさん、おはようございます。今日も礼拝に共に集うことができ感謝です。今日は召天者記念礼拝の時を持ちます。私たちが主のもとに送った仲間たちを覚えてこの礼拝を持ちましょう。そして死を悼むと同時に、残された私たちがどのように生きるのかが今日、問われています。そのことも覚えながらみ言葉に聞いてゆきましょう。...
2020/11/01
今日は召天者記念礼拝です。私は以前、小さな病院でアルバイトをしていました。そこで感じたのは病院は患者さんが死を迎えた後、できることがほとんどない、無力だということです。病院では死をもってその人との関係が終わるのです。あるときクリスチャンの方が入院されました。病室にはいつも讃美歌が流れ、私も時にはベッドの横で祈ったりしました。その後亡くなりましたが、不思議とその死への無力感が和らいだように感じました。祈りは、死への無力感に対し不思議な力を与えてくれるようです。 この地上の命は死んだら終わりかもしれません。でも私たちの神様の下にある命という関係は、死んでしまったら終わりというものではありません。私たちは生きていても、そしてたとえ死んでしまっても、祈りの関係の中にいます。そして誰よりも神様が私たちの地上の命を愛し、祈って下さっています。たとえ死に、地上の命を終えたとしても、神様の愛は変わりません。永遠に続くのです。今日はそのことを聖書から分かち合いたいと思います。 今日の個所、イエス様の友人が病の中にあります。しかしなんと2日間も訪問を延期したのです。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」と。 これは関係は死で終わりではないということを示します。死で終わらずに、その先に神様との関係が続いているということを示しています。死によっても神様との関係は終わらず、神様に愛され続けるのです。 イエス様は死で関係を終わらせず、関係を持とうとするお方です。だからイエス様はラザロが死んだ後に尋ねたのです。イエス様は死を眠りと表現します。死をすべての終わりではなく、眠っている間のように、関係は続くのだと言うます。イエス様はすでに死んだ者にこそ関わる姿によって、死後も神様との関係が続くということを伝えました。 死者に関わり続けるのが神様です。生きている時と変わらぬ愛で、亡くなった方たちを包んでいる、それが神様です。そして今日、私たちもこの同じ愛の内に全員がいます。生きる私たちもその一人です。生前の姿や生死さえ問わず、神様は愛し、会いに来られるお方です。これが無条件の愛です。 聖書を読み進めてゆくと、この後イエス様ご自身が死ぬことになります。でも私たちはイエス様が死んで終わりではなかったということを知っています。イエス様がご自身の十字架をもって、死がすべての終わりではない、神様の愛はずっと続くのだと示したのです。 今日私たちは召天者記念礼拝に集ったのは、この死を忘れないでいるためです。神様の愛は、病の中でも、たとえ死んでしまっても変わらずに続きます。だからこそ私たちも神様に変わらず祈りを続けてゆきたいのです。十字架の死が終わりではなく始まりであったように、私たちも共主イエスの十字架から日々を出発したいのです。
2020/10/25
みなさんおはようございます。今日も共に礼拝ができること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。子どもたちとともに礼拝をしてゆきましょう。...

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