2026/08/02
みなさん、おはようございます。今日もこうして大人もこどもも共に礼拝できること、神様に感謝をいたします。6月・7月は信仰告白について考えてきました。8月からは平和について、みなさんと考えてゆきたいと思います。特にルワンダで和解と平和のために働く、佐々木和之さんの活動に注目をして、福音とは何か?聖書がどのように私たちに新しい生き方を示しているのかを見てゆきたいと思います。 今月のテーマは“平和”を身近なところから考えてみたいと思います。私たちは、顔も見たくない、一緒に食事などしたくもないという人はいるでしょうか?誰しも様々な過去があり、傷があるものです。そのような人がいてもおかしなことではありません。でも今日はそれを不思議な力で乗り越えたというお話をします。 アフリカ・ルワンダでは1994年に大量虐殺がありました。ルワンダにはもともとあいまいな境界線しか持たない、ツチ族とフツ族という民族集団が住んでいました。しかし植民地支配の時代にベルギーによって明確化され、分断政策がとられました。この分断が火種となり、1994年、市民による市民の虐殺が始まりました。80万人もの人が虐殺されたと言われています。 佐々木和之さんはそのルワンダに行き、平和構築の活動をしてきました。今日はその活動の中でも「和解と癒しのセミナー」での出来事を紹介します。和解と癒しのセミナーでは、被害者側だった人、加害者側だった人が一つの場所に集まり、出会います。被害者の傷の告白と、加害者の罪の告白が行われます。考えるだけでも緊張感が伝わってくる場面です。 このセミナーの目的は加害者に罰を加えることではありません。私たちは薄々気付いています。加害者を罰するだけでは、被害者の本当の救いにはならないということを。またセミナーでは被害者に赦しなさいと強制することもありません。このセミナーは、被害者と加害者の双方が、どうすればもう一度安心して共に生きて行けるかどうかを探すことが目的です。そのためにはまず加害者が被害者の傷の重さに触れることが必要です。そして被害者が加害者の罪の告白を聞くことが必要です。 このセミナーに参加した、被害者のロランスさんという女性のエピソードを紹介します。彼女は虐殺で14人いた子どものうち13人が殺されてしまった女性です。彼女はセミナーでその悲痛な体験について涙ながらに語りました。 私たちの社会だったら加害者に対してどう接するでしょうか?しかし彼女はなんと、虐殺犯として刑務所に拘留されていたある囚人のために食べ物を届け始めました。どうしてその加害者側に立つ人に食べ物を届けることができるでしょうか? 刑務所に差し入れをするきっかけは、ロランスさんが、ある“夢”を見たからです。その夢はある囚人が裸で刑務所につながれているという夢でした。そしてどうしてもその夢は彼女の頭から離れませんでした。そして彼女は次第に、その夢は神様からの呼びかけであると理解するようになりました。そうして彼女は虐殺犯に差し入れを始めたのです。 やがてこの男性は病気が理由で、刑務所から釈放されることになりました。釈放されたその男性は彼女を頼り、家を訪ねます。数日間、彼女は自分の家に招きました。世話をしました。そして食卓を共にしたというのです。みなさんには加害者側の人と共に食卓を囲む、こんな行動を理解できますか? 私たちには理解し難い行動ではないでしょうか?まさか虐殺犯と食卓を共にするなんて。でも彼女にはそれができました、何かに押し出されるようにして。彼女は、それを神様の導きと信じて行動しました。そして彼女はその行動によって心に平安を得たと語ったのです。 しかし和解は簡単ではありません。彼女が食卓を共にした男性はまだ、虐殺当時のことについては沈黙を続けているそうです。彼女たちは和解には至っていません。まだその途上にあるでしょう。 ルワンダでは私たちの理解を超えるような出来事が起きています。佐々木さんはそれを聞き取り、和解は難しいが、始まりつつあるということを伝えています。 この話を聞きながら私はある聖書の箇所を思い出しました。聖書にも分断からの和解の物語が登場します。聖書の和解の物語を読んで行きましょう。 今日は創世記43章24~34節をお読みいただきました。創世記のヨセフ物語の一場面です。ある時12人兄弟がいました。一番父から可愛がられていたのが、ヨセフでした。兄弟たちはヨセフをねたんでいました。この兄弟には分断と亀裂がありました。その分断は、親の偏った関わり方によって作られた分断です。 兄弟たちはある日、ヨセフを殺そうとします。そして荒野に空いた大きな穴に突き落としたのです。11人の兄弟は彼がそのまま死ぬだろうと思って、そこを立ち去りました。しかしその数十年後、兄弟たちに再会の時がきます。人間の悪の企てが、神様によって善へと変えられる出来事が起きたのです。 ヨセフはエジプトで出世し、王に並ぶものとなっていました。そこに、飢饉に見舞われたボロボロの兄弟たちが、食べものを分けて欲しいと訪ねて来ました。被害者と加害者がここで出会います。ヨセフは自分を殺そうとした者への憎しみと、自分の兄弟への親しみの両方を感じたはずです。ヨセフの心は揺れます。そしてヨセフは葛藤の中であることを決めました。それはまず食卓を共にするということでした。涙の和解はまだ起きていません。赦しの言葉もありません。でもまず共なる食卓があったのです。そして彼はさらにたくさんの食料を持ち帰らせたともあります。 このあとも様々な葛藤が続きますが、やがてヨセフは自分はかつてあなたが殺そうとした兄弟だと、自らの傷を告白し、兄弟との関係の回復が始まってゆきました。 この食卓は和解への長い道のりのスタートと言える食卓だったのではないでしょうか?そしてこの物語には人間に起こる和解の葛藤が描かれているのではないでしょうか?被害者の葛藤があります。自分がどれほど苦しい思いをしてきたのか、いつそれを打ち明けようかという葛藤があります。そしてその人と人の間に驚くべき和解が起きてゆくのです。それは人間だけで起こされたのではありません。それは神様の物語として聖書に記されているのです。神様がもう一度向き合わせ、和解を起こすのです。 ヨセフの物語にもあるように、またロランスさんの体験にもあるとおり、和解は簡単なことではありません。でもそれは神様の力によって起きる可能性があるのです。神様によって関係が修復されていくのです。傷つけた人と、傷つけられた人が出会い直し、共に生きようとする、ルワンダではそのことが少しずつ起きてきているのです。 このようにして神様は分断された人々の間に立ち、再び出会わせ、また共に生きようとさせているのです。 私たちと平和について考えましょう。私たちにも分断があります。修復が想像できない関係があります。でも神様は諦めていません。神様によって少しずつ、驚くべき和解が起きてゆくのです。 私たちの周りでどんな和解が起きてゆくでしょうか?あなたは起きて欲しいと思う和解はありますか?私たちの家庭で、教会で、地域で。 少し世界に目を向けてみます。戦争をし合っている国を見て、きっと何年も、何十年も戦争をして殺し合ったことを忘れず、憎しみが続くのだろうと想像します。でも私は、きっと憎しみ合ってゆくだけではないという希望も持っています。傷ついた人と、傷つけられた人が出会い直し、共に生きて行ける世界が、もう静かに始まっているのです。和解とはこのように、忘れることではなく、もう一度出会い直すことなのかもしれません。 みなさんも考えてみてください。私たちは、分断のあるあの人ともう一度出会い直し、対話することができるでしょうか?今の自分達ではできないかもしれません。でも神様がその出会いへ招いておられるのかもしれません。 私たちはこれから主の晩餐を持ちます。イエスは敵と言われるような人々と一緒に食事をしたことを思い出します。神様が出会わせ、共に食卓を囲んだのです。そのことを記念してこの食事を持ちましょう。そして今日のヨセフと兄弟たちの涙の食卓、ロランスさんの食卓も思い出します。その食卓では、起こらないはずの和解を神様が起こしてくださいました。神様の導きによる和解が、私たちの世界にも起こることを願います。そしていつの日か、起こらないはずの食卓が、私たちの人生にも備えられることを願いながら、このパンをいただきましょう。
2026/08/02
2026/07/26
みなさん、おはようございます。今日もこうして大人もこどもも共に礼拝をできること、神様に感謝をいたします。6月・7月と私たちは教会の信仰告白について一緒に考えて来ました。今日でこの信仰告白のシリーズは最後です。神について、イエスについて、聖霊について。みなさんの心の中に、何かひとつでも残った言葉はあったでしょうか。そして今日は最後に、聖書について考えます。 みなさんは何かに迷った時、何を頼りにするでしょうか。家族の言葉でしょうか。自分の経験でしょうか。インターネットでしょうか。私たちクリスチャンはよく「聖書」だと言います。でも、その聖書とはいったいどんな本なのでしょうか? 他の宗教には、お筆先という考え方があります。神の言葉をそのまま書き記したという理解です。では聖書もそうなのでしょうか。キリスト教の聖書はそのように「神様の言葉を直接書き留めたもの」ではありません。では一体どんなものなのだろうかというのが今日の問いです。 信仰告白には「聖書は神の霊感を受けて書かれた」とあります。霊感の霊とは神様の見えない力のことです。聖書はその霊の力を受けて書かれたのです。しかし御筆先とは違います。神様から心にインスピレーションを受けた人間が、喜びや悲しみ、葛藤の中で書いたのが聖書です。それが人間が霊感を受けて書かれたという意味でしょう。 だから聖書には人間らしさが残っています。だからこそ私たちは聖書に共感できるのかもしれません。 聖書の人間らしさとは、例えば聖書には、ある人がそれを書き写す際に、分かりづらいと思った聖書の箇所に、注釈を付け足すということがありました。これこれはこういう意味であると。 それは写した人の考えや、時代の考えが反映された付け足しでした。そして、そういう付け足しはいつの間にか、聖書の一部となり、また書き写されてゆきました。このように聖書は神様と人間の共同作業によって生まれた書物だと言えるかもしれません。 なぜこんな話をするのかと言うと、それは聖書を軽く見るためではありません。むしろ、どのように大切に読むかを考えたいからです。 一方、私たちとは別の理解をするキリスト教のグループもあります。逐語霊感説という言葉を聞いたことがあるでしょうか?逐語霊感説によると、聖書は一言一句、神様からの指示を受けて書かれたものだと理解します。多くの場合、信仰告白に「聖書は誤りなき神のみ言葉である」という表記がされます。聖書は神が一言一句、与えたものだから、限界や誤りはないという信仰を持っています。 私たちは聖書を、霊感を受けた“神様と人間の共同作業で書かれたもの”であると理解し、別のグループは“まったく誤りの無いもの”と理解しています。 この違いは小さく見えて、大きな違いを生みます。私たちは聖書をどのように規範とするか?という違いが生まれるのです。そしてそれは、わたしたちの生き方を問いかけています。みなさんは聖書はどちらだと思うでしょうか?“神様と人間の共同作業”または“まったく誤りの無いもの”。では実際に、聖書をどう読み、どう生きるかが問われている例を見てみましょう。 今日はⅠコリント14章34~36節までをお読みいただきました。ここには教会で女性は黙っていなさいと書いてあります。この聖書箇所はイエスのずっと後の時代の弟子が、聖書に書き加えた言葉ではないかとも言われている箇所です。 なぜそういわれるのでしょうか?イエスのそばには多くの女性がいました。十字架の下にも女性たちがいました。復活を最初に知らされたのも女性たちでした。聖書にはイエスに従った、たくさんの女性が登場します。だからもちろん、教会は女性が中心でした。 そんな聖書の中に「女性は教会で黙っていなさい」という言葉が出てきます。みなさんはどう感じるでしょうか。 そしてこの箇所は女性が中心だった、女性の声が大きかった時代から、男性中心に移行する時代背景の中で書き加えられた箇所でした。時代を経るごとにイエスには無かった考え方が生まれてきました。教会の中心は男性に移行してゆきました。その時代の考えが聖書に加えられたとも言われています。 だからこそこの「教会で女性は黙っていなさい」という箇所は現代にそのまま適用することは慎重になるべき箇所でしょう。でも信仰告白には聖書は私たちの信仰生活の規範だと書いてあります。この聖書箇所を私たちの教会はどのように規範にしているでしょうか? 司会をする人、奏楽をする人、役員を担う人、その多くが女性です。すると私は立ち止まって考えてしまいます。聖書は規範だと言うけれど、規範とは何だろうか?聖書とは何だろうか?と。 先ほどご紹介した、逐語霊感説の立場に立つ教会は、この箇所を根拠として、女性が牧師になったり、宣教したりすることを禁止しています。 でも私たちの教会はそうではありません。たとえ聖書に女性は黙っていなさいと書いてあったとしても、私たちはそれを規範としないと決断します。なぜなら私たちは、イエスが示した神の愛が、女性を沈黙させるものではないと信じているからです。私たちは聖書をいつもそのように、慎重に向かい合う存在としているのです。 ある人は聖書は人生の教科書なのだと言います。そういう意味で規範なのでしょうか?ただ私にとって聖書は正しい答えが書いてあって、それ通りに生きる、聖書はそのようなマニュアルではありません。なぜ私がそう思うかというと、これだけ多様な人々に、ひとつの正解があると思えないからです。キリスト教を学んで答えが出たかというと、そうでもありませんでした。次の問いがまた出てくるのです。 私にとって聖書は人生の問題集のような存在だと感じています。聖書にはたくさんの問いがあります。なぜ苦しいのか?なぜうまくいかないのか?答えのでない、人間の悩みがそのまま記されている箇所がたくさんあります。 学校の問題集には答えがあります。でも人生の問題には、答えがありません。そして答えはひとつではなく、いくつもある、一人一人違う場合もあります。このように聖書は一人一人がどう生きるかを問いかけています。 もし聖書にこう書いてあるからこうすべきだと生きることができるなら、はっきりしていてわかりやすい生き方となるでしょう。女はだめだと。 でもそうしません。聖書はそういうものではないと信じているからです。私は聖書の問いの中に留まりたいのです。そしてみなさんと一緒に考えたいのです。神様は私たちに考えることを委ねているのかもしれません。 一体何が私たちの規範なのでしょうか?私は長い間、この問いを考えてきました。聖書なのか、教会なのか、牧師なのか? 何が私たちの規範なのか。私は信仰告白にその大切な手がかりがあると思います。それは、聖書は“すべての人間の救いを啓示する”ものだという言葉です。私はこの「すべての人間の救いを啓示する」という言葉から聖書を読み解きたいと思っています。 私たちの信仰告白によれば、規範とするだけではなく、すべての人の救いの啓示と理解するのです。イエスが示したすべての人々への愛から照らし合わせて考えるのです。 たとえ女性が牧師になれないと聖書にはっきり書いてあったとしても、私たちは全ての人の救いの視点から考えます。そして女性やあらゆる性の人が牧師になることを積極的に考えるべきだと思います。イエス・キリストの教えた“すべての人の救い”に照らし合わせて聖書を受け取ってゆきたいのです。 聖書によって、誰かが排除される、女性だから、障害があるから、外国人だから、性のあり方が違うから、貧しいから、学歴がないからと下に見られたりすることがあるなら、それはすべての人の救いではなくなってしまいます。私にとって、すべての人の救いとは、誰も神様から見捨てられないということです。誰かが聖書によって教会から締め出されるなら、私は立ち止まって考えたいのです。神様の愛の外に置かれる人は、一人もいないということです。 もちろん聖書をそのように、人間を通して語られたものとして読むことに課題があるでしょう。自分の好きな個所を都合よく解釈をするという問題も生まれてくるでしょう。 では、みなさんはどうやって聖書を理解するでしょうか?私が受けている問いは、聖書はどのような意味で唯一の規範なのかどうかという問いです? みなさんにとって聖書の言葉はどのような意味を持っているでしょうか?聖書は答えを与える本でしょうか。それとも問いを与える本でしょうか。私にとって聖書は私たちに答えを押し付ける本ではありません。 聖書を開くたびに、神は私にこう問いかけます。「あなたはどう生きるのか?」そして神様は、その問いの中を共に歩いてくださるのではないでしょうか。
2026/07/19
私たちの人生は唯一の神様が3つの方向から包んでいます。私たちは父、子、聖霊によって、囲まれて生きています。命を創造する神、愛を地上で実現してみせた神、風のように力を与える神が私たちを囲んでいるのです。私たちはそのように神様の3つの方向に囲まれて生かされているのです。
2026/07/12
ルカによる福音書4章16~30節。イエスの信仰告白は、地上に生きる人たちの救いとなることだった。イエスの地上歩みにも目を向けよう。
2026/07/05
みなさん、おはようございます。今日も神様に呼び集められて、大人もこどもも一緒に礼拝できること、神様に感謝します。今月と来月は私たちの信仰告白について考えています。...
2026/06/28
私たちは平和をあきらめない。平和を求めてゆく者も不完全で欠けがある。でも神様が共にいて、平和を実現してくださる。
2026/06/21
救いとは、私たちが神を見つけることよりも、神が私たちを見つけることなのかもしれません。ザアカイを見ると、救いは交換条件ではないようです。まず先に、愛がある。まず先に、招きがある。信仰告白の言葉で言えば、それは神の愛と恵みです。
2026/06/14
教会の信仰告白には「私たちは神に呼び集められた者の群れである」とあります。私たちは孤立せずに、支えないながら、生きてゆきましょう。
2026/06/07
私たちの教会の信仰告白によれば、バプテスマと主の晩餐につよいこだわりをもっています。みなさんの信仰や生き方にはどんなこだわりがありますか?こだわりを持って生きる大切さを感じます。

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