2020/08/09
私たちは8月「平和」をテーマに礼拝をしています。今日は東アフリカにあるルワンダ共和国で和解の働きをされている佐々木和之さんの報告「ウブムエ」を元に、聖書から平和を聞いてゆきたいと思います。...
2020/08/08
みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝が出来る事に感謝です。私たちは子どもを大切にする教会です。共に、子どもの声を聴きながら礼拝をしましょう。そして私たちは8月、平和をテーマに礼拝をしています。先週は「平和の食べ物」平和を求めながら、イエス様を求めながら、食べ物と生きる道を求めてゆこう、それがシャロームにつながるという事を話しました。今日はアフリカのルワンダ共和国で和解の働きをされている佐々木和之さんの報告を元に、聖書から平和を聞いてゆきたいと思います。 佐々木和之さんは東アフリカにあるルワンダ共和国で、和解のプロジェクトをすすめています。ルワンダは東アフリカにある、小さな国です。95%がクリスチャンというキリスト教国です。しかし1994年ルワンダでは大虐殺事件がありました。100日間で80万人、人口の約一割が殺される大虐殺事件が起こりました。きっかけは大統領の暗殺でしが、虐殺の背景には植民地時代に植え付けられた分断と差別と憎悪がありました。 分断と差別は一般市民が、一般市民を殺す、隣人が隣人を殺すという虐殺事件を生みました。26年前の出来事です。虐殺が収束した後、ルワンダの社会や地域が元の状態に戻ることは容易ではありません。市民による虐殺によって、多くの市民が刑務所に入りました。街に残されたのは、虐殺から生き残り傷ついた被害者と、家族が虐殺に加わったという加害者の家族でした。 元々農民だった人々は簡単に引っ越すわけにはいきません。虐殺後もなおも被害者と加害者の家族が隣に住むということも多くありました。 被害者と加害者。もう共に生きる、助け合って生きると言うことは本来できない関係です。しかし今ルワンダでは両者がどのように共に生きるかを模索しています。多くの人々がまだ平和を探し求めています。そしてその中で和解と平和のために働いているのが、佐々木和之さんです。彼は洋光台バプテスト教会の教会員でもあります。 私は佐々木和之さんを支援する会の事務局の仕事を引き受けている関係で、皆様にも会報「ウブムエ」をお配りします。ぜひ支援の輪に入って下さい。今日はこの中から一つのエピソードウムチョ・ニャンザの支援をご紹介します。 ウムチョ・ニャンザとは虐殺事件の生存被害者である女性たちと加害者を夫に持つ女性たちが共に働く女性協働グループです。ブックカバーを購入されたことのある方も多いいでしょう。被害者と加害者の家族が同じスペースで、協力して、物を作り、それを売り、自分達の生活を再建しようとしています。もちろん様々な葛藤があります。しかし分断され、殺し合った過去を超えて、ともに生き、一致し、生活を再建しようと働いているグループです。その活動を支援しています。ウブムエには、コロナの中でどのようにウムチョ・ニャンザ―のメンバーが一致し、助け合ったが報告をされています。1ページ目の右下です。 “夫が虐殺加害者として刑務所にいるエレナさんは、普段なら他の人の農地で働くことで生活の糧を得ています。彼女は、ロックダウンが始まってから仕事がなくなり、子どもたちに食べさせる食料も尽き、途方にくれた時の様子を語りました。女性たちの何人かは、ウィルス感染の恐怖、生活の困窮、いつ状況が良くなるのか全く分からないことから来る不安の中で、絶望しかかったというのでした。しかし、彼女たちはその苦境を生き延びました。勇気を出して助け合うことによって。ロックダウン導入から 10 日が過ぎた頃、グループの世話役たちが電話で連絡を取り合い、銀行に預けてあった運営資金から、日本円で 2,300 円に相当するお金をそれぞれの口座に振り込むことを決めたのでした。女性たちは、携帯電話で伝言ゲームのようにその朗報を一人、また一人と伝えていきました。電話が不通になっていた仲間には、警察に拘束されないように、裏道を通って仲間の女性の家まで行って伝えたのです。その時の苦労話を複数の女性たちがユーモラスな語り口で笑顔を見せながら話してくれました。そして、昨日集った全ての女性たちが、そのお金を手にしたときの喜びと感謝、「一緒に働いてきて良かった」と心の底から感じたことを語っていました。” 被害者と加害者が分断を超えて一致し、共に働き、お金を分かち合い「一緒に働いてきてよかった」と感じたと言うのです。佐々木さんはこのことを次の様に考察しています。3ページです。 “この苦境がただ過ぎ去ることを待ち望むことからは本当の希望は見えてきません。また、以前の日常を取り戻すことが希望であってはならないとも思います。今日一日、私が出会うお一人お一人と、どんな形であれ共に希望を見出していくこと。その希望を紡ぐ営みに具体的に関わり、今、祈り行動していくことが大切なのです。そして、やがてコロナ禍を生き延びた時に、その方々との関係がより強く愛に満ちたものになっていることを心から願います。そこからしか、コロナ後にあるべき社会を創る営みは始まらないのではないでしょうか。” このことはコロナだけではなく、虐殺の被害者と加害者の関係も含めた言葉だと思います。憎しみ合った二人が、引き離された二人が、それが無かったことの様に過ごすことが、平和、希望ではありません。困難の後に、二人の関係がより強く愛に満ちたものになっている関係を求めたいのです。 この会報のタイトルは「ウブムエ」と言います。「ウブムエ」はルワンダ語で「一致」「調和」「和」を表す言葉です。この会報のタイトルが事柄を良く表しているのではないでしょうか。私たちにも様々な分断があります。コロナや、外出自粛や、差別や民族や国境。私たちはその隔てを超えて、その隔てを乗り越えて、関係がより強く愛に満ちた者になってゆく、一致、「ウブムエ」をしたいのです。困難があっても、いえ困難があるからこそ、もっと大きな希望があると期待して、「ウブムエ」して歩みだしたいのです。 そこにはイエス様が必ず一緒にいて下さいます。力を与えて下さいます。イエス様がまず私たちと共に生き、私たちとの一致し、ウブムエして下さいました。私たちと神様の間を、イエス様が乗り越えて来て下さり、私たちの元に来てくださったのです。そのことを今日の個所から聞いてゆきたいのです。私とイエス様が強い関係にある、一致し、ウブムエして下さっている、そのことを見てゆきたいのです。 今日の聖書の個所を見ましょう。イエス様は今日の個所44節で、父が私を遣わしたと言っています。イエス様が神様の言葉を伝える者であること、その意味でイエス様が神様と等しい方であるということです。 そして神様の元に行く方法を教えてくださっています。それは、神様が私たちを引き寄せて下さるかどうかです。神様の元にいること、神様と一致し、ウブムエする事、それは神様が起こすことです。私たちが行くのではありません。何かをすれば行けるのではありません。神様が私たちを招き、一致・ウブムエして下さるのです。私たちは神様の招きに応えるだけで良いのです。 48節、イエス様は私はパンだ。そして私の肉を食べなさいと言います。私たちは主の晩餐を毎月していました。あのパンはイエス様の肉だというのです。小さいブドウジュース、あれはイエス様の血だというのです。もちろん私が持ち上げて祈ると何かが起こって変化するというわけではありません。あれを食べると不老長寿・不死身の体、病気が治ったりするわけではありません。 このパンを食べるとどうなるのでしょうか?56節にはこうあります。「いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる」ことになるのです。これを食べるとイエス様の中にいるような体験、イエス様が中にいるような体験、そんな一致、そう「ウブムエ」が起こるというのです。 58節そのパンは普通の食べ物とは違います。モーセたちが荒野で食べた食糧としてのパンとは違います。それは小さいけれど、イエス様、神様との一致・ウブムエを私たちに教えてくれるパンなのです。それを食べると57節「私を食べる者は、私によって生きる」のです。イエス様の体を、肉を食べて頂くとき、私たちはイエス様によって生きる者になります。すぐに分断してしまう人間が、そのパンを頂く事によって、神様の内に生きるようになり、神様との一致を体験するのです。そしてそれは他者との一致への体験へと広がってゆくのです。 永遠の命、それは不老長寿・不死身の体ではありません。それは殺し合わない命です。ずっと共に生き続けようとする命です。永遠に傷つけ合わない命です。その命は、一致はイエス様が私たちと一致、ウブムエして下さっていることから始まるのです。 あのパンを食べるという事、それはイエス様との一致、ウブムエの体験です。その一致を通じて、私たちには互いに一致をしてゆく者とされるのです。分断を超えて、平和を生きる者とされるのです。 53節にある「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない」とはそのようなことです。イエス様が与えるパン、その一致のパン、ウブムエのパンは、51節、世を活かすためのパンです。一人だけではない、世全体を活かすパンなのです。 このようにイエス様のパンは命のパン、平和のパン、一致のパンなのです。イエス様は私たちと一致をしてくださる、ウブムエして下さるお方です。だから私たちもお互いに一致ができるはずです。どんなに違いがあって、どんなに強い憎しみがあって、どんなに困難があっても、どんな過去があっても、それにまさる希望、一致、ウブムエを神様が必ず用意して下さっているのです。イエス様は私たちの壁と分断を壊し、一つにしてくださる。ウブムエさせて下さるのです。 私たちの世界と日常には分断が多くあります。日本と韓国、中国とアメリカ、富裕層と貧困層、私とあの人、あの人とあの人。でも私たちは必ず一致、「ウブムエ」できるはずです。平和が実現できるはずです。イエス様の肉を頂き、祈り、行動をしてゆきましょう。お祈りします。
2020/08/02
 みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝をできること、うれしく思います。今日は平和祈念礼拝です。今日から8月いっぱい、平和をテーマに宣教をしてゆきたいと思います。今日も子ども達が集ってくれました。子ども達がのびのびといられることは平和の象徴です。平和のない場所に、こどもの笑顔やこどもの笑い声はありません。こどもを大切にする教会は平和を大事する教会でもあると思います。子ども達と共に、声を聞きながら平和を願い、礼拝をしてゆきましょう。 聖書のいう平和、それは単に戦争のない状態をいうのではありません。平和とはヘブライ語でシャロームです。この話は繰り返ししようと思いますが、聖書の平和・シャロームとは丸です。完全な丸が平和の状態です。しかし世界は今、大きく歪んでいます。戦争によって歪んでいます。そして戦争ではなくても、同じ様に構造として世界は大きなゆがみを抱えています。格差や差別が世界中に起こり、美しい〇を描くはずの世界は歪みだらけです。 そのような世界でシャロームとは、図のように、高い場所と低い場所が均等になり、きれいな丸になってゆくことです。飛び出ているものは元に戻され、押し込められているところは引き上げられるのがシャロームです。その押し込められ、低くされている場所には十字架があります。イエス様の力は、低くされたその一番下から元に戻そうと働き、完全な丸にしようとします。その動き・運動がシャロームです。それが十字架の働きです。聖書の平和、それは戦争がないだけではなく、小さくされた人に神様の力が働くことによって、すべての人々が等しく豊かに生きる事、それが聖書の平和・シャロームです。 今日は平和祈念礼拝ですが賛美は出来なくても応答賛美の時にフランシスコの「平和の祈り」という賛美の奏楽をしてはどうかと提案をいただきました。コロナの関係で賛美は許されませんが、後ほど心の中でこの賛美を歌いましょう。いくつか翻訳がありますが、次のような歌詞です。 主よ、わたしをあなたの平和の道具としてください。 憎しみのある所に、愛を置かせてください。 侮辱のある所に、許しを置かせてください。 分裂のある所に、和合を置かせてください。 誤りのある所に、真実を置かせてください。 疑いのある所に、信頼を置かせてください。 絶望のある所に、希望を置かせてください。 闇のある所に、あなたの光を置かせてください。 悲しみのある所に、喜びを置かせてください。 主よ、慰められるよりも慰め、理解されるより理解し、愛されるよりも愛することを求めさせてください。 なぜならば、与えることで人は受け取り、忘れられることで人は見出し、許すことで人は許され、死ぬことで人は永遠の命に復活するからです。 この平和の祈りを見てもわかるように、小さくされた場所に、憎しみ、侮辱、分裂、そのような小さくされた人々のいる場所に神様の力が働き、平和・シャローム・完全な丸になるように願う祈りがここでも繰り返されています。 平和は戦争がないことだけではありません。しかしもちろん私たちは戦争がもっとも平和を崩すことだということを知っています。日本は80年前、世界のシャローム・平和を大きく壊しました。日本は自分たちの繁栄だけを求めて、アジアに進出・侵略を始めました。自分達だけがこの〇からとび出ようとしました。アジアの国々・人々を侵略し、搾取し、利用し、押し込めることで、自分たちだけが繁栄をしようとしたのです。 繁栄を求める事自体は悪い事ではありません。ただ、誰かを犠牲にして、押し込めてそれをしようとすること、自分だけが繁栄をしようとすること、それは平和を生みません。私たちはアジアに大きな憎しみと侮辱と絶望をもたらしました。 私たちは8月ひと月、主にある平和を知ろうとしています。いままた日本は75年前の反省を忘れようとしています。世界も忘れようとしています。自分たちの国だけ繁栄すればいいと考えるとどうなるか、私たちは知っていたはずです。しかし世界は、日本はまた自国優先主義へと向かおうとしています。平和憲法を持つ日本、戦争への反省を繰り返してきた日本。その私たちは、世界の平和、シャロームを実現の歩みを進める事はできるのでしょうか。経済力のある日本が足を引っ張り合う様な過度な国際競争を止め、世界が等しく発展し、置き去りや犠牲を生まない世界の形成を訴える事ができるでしょうか。武力によって世界を変えようとしないこと。そしてそれに断固反対するという声を挙げることができるでしょうか。 そこに必要なものは、何でしょうか。私たちに必要とされるのは、シャロームの丸の下から世界を見る事です。イエス・キリストの十字架から世界を見る事、十字架から平和を考える事です。そして平和のためにできる事をそれぞれがしてゆくことです。それが神様に求められていくことです。 今日の聖書個所を読みましょう。6章には5000人の給食、パンが配られる奇跡が描かれています。イエス様は食事を大事にされたお方です。イエス様は食べものや着るものは次元が低いもので、精神的な豊かさを優先されたお方だということではありません。それは食べ物がたくさんある、世界のごく一部の人の考え方です。十字架からこの物語を見たいのです。 イエス様は飢える人々の食事の必要に応えるお方です。人は宗教だけでは生きていけません。食べ物と飲み物が必要です。イエス様はそんな人間の胃袋を満腹にしてくださるお方です。がっちり胃袋を抑えるお方です。そしてあまり物までしっかり集めなさいとまで語り、食べ物を大事にするお方です。 しかし、人間のパンへの願い、食べ物への願いはバランスを崩しやすいものです。その食べ物は、恵みのパン、奇跡のパン、感謝のパン、分かち合いのパン、一致を確認するパンでした。それこそまさに完全な丸をイメージする、平和のパンであったはずです。しかし人間はそのパンを自分勝手に理解してしまう時があります。 人々の中には「あの人はパンをくれる」と欲望のまなざしを向ける人がいたのです。彼らはパンをくれる人を探します。探し求めます。探しているのはパンです。恵み・奇跡・感謝・分かち合い、しるし、イエス・キリストを探しているのではありませんでした。ただ自分の欲望を満たすことを求め、自らの繁栄を求め、舟を出し、イエスを探していたのです。そのような自分だけの繁栄や自分だけの欲望を満たすことは平和、シャロームを生み出すことではありません。そのように舟を出す姿は、日本がアジアに侵略戦争として舟を出すのと同じ発想です。 イエス様はこのような独善的な欲望を批判します。27節「朽ちる食べ物のためではなく、永遠の命にいたる食べ物のために働きなさい」と言います。 イエス様は食べ物には、朽ちる食べ物と、永遠の命に至る食べ物があると言います。どちらも同じ食べ物です。しかしそれは追い求め方、あるいは動機、用い方によって、滅びにも、永遠の命にもなるというのです。自らの欲望と繁栄を求めて舟を出すとき、その食べ物は必ず滅びへと向かいます。それは朽ちるものとなります。誰かを犠牲にして、押し込めてそれを得ようとするとき、自分だけ繁栄をしようとするとき、それは絶対に平和を生みません。そのように食べ物を求める時、繁栄を求める時、そこに起こるのは戦争と貧困と格差と差別です。 私は平和を求めつつ、パンを求めてゆきたいと願うのです。それこそがパンではなくイエス・キリストを探すということではないでしょうか。イエス様は私たちに5000人が一緒にパンを食べる奇跡を通じて、神の恵みの大きさを教えてくださいます。欲望が満たされる喜びではなく、みんな神様のめぐみによって生かされていることを教えてくれます。これを食べ、命を大切に生きなさいと教えてくれます。これは神様の恵みです。命と食べ物は自分のものにするだけではなく、天からのものとして分かち合いなさいと教えてくれるのです。私たちが求めるもの、それはそのように恵みと感謝を呼び起こす食べ物です。平和の食べ物です。イエス様は私たちに、このように永遠の命、平和を求めなさいと語るのです。 自分の食べ物を追いかけるのではなく、イエス・キリストの姿を、生き方を追いかけなさい、それが永遠の命に至る道であり、それが平和を作り出すのだというのです。 それが、イエス様の歩み、朽ちない食べ物、永遠に無くならない、平和・シャロームの食べ物、永遠の命にいたるものです。それはイエス様の歩みと生き方を知る事から始まります。イエス様がどのように生きられたのかを知ることから、平和は始まるのです。 平和・シャロームはイエス様が低く、小さくされている場所にいたことを知ることからはじまります。平和はイエス様がこの丸のへこんだ部分の一番下にいたことを、十字架にかかられたことを知るところから始まるのです。 その視点から平和の歩みを起こすことが、永遠の命、朽ちない世界につながってゆくのです。すべての人々が活き活きと輝く世界、それが十字架から始まるのです。 できれば今日私たちは主の晩餐をぜひともしたかったのですが、今日はそうすることができません。しかし私たちそれぞれ、イエス様から今日、永遠に朽ちないパン、私たちの心にいただきましょう。 私たちがパンを頂くのは、自分だけのため、自分の満足のためではありません。そのことをよく吟味して食べたいのです。私たちは世界の平和・シャロームを願ってイエス様のパンを食べ、永遠の命を頂きたいのです。また主の晩餐に預かれること、平和の食べ物を囲むことが出来る事を願っています。お祈りいたします。
2020/08/02
 聖書のいう平和、それは単に戦争のない状態をいうのではありません。平和とはヘブライ語でシャロームです。シャロームとは丸です。完全な丸が平和の状態です。しかし世界は今、大きく歪んでいます。戦争だけではなく、構造として世界は大きなゆがみを抱えています。格差や差別が世界中に起こり、美しい〇を描くはずの世界は歪みだらけです。...
2020/07/26
みなさんおはようございます。今日も共に礼拝出来る事、その神様の招きに感謝します。共に集うことができることを嬉しく思います。また今日も子ども達が集ってくれています。私たちは子ども達を大切にする教会です。共に礼拝をしてゆきましょう。...
2020/07/26
1990年頃バプテスト連盟全体では500の教会と5万人の信者が目標とされました。教会を作る方法としては「母教会主義」が取られました。平塚教会も90年代この流れの中で1993年6月小田原伝道所を開設します。...
2020/07/24
2020/07/19
みなさん、おはようございます。本日も共に礼拝をできること感謝です。すでにお伝えしたとおり、徐々に通常の礼拝に戻そうとしていた最中ですが、今日からまた礼拝を短縮版に戻すこととなりました。コロナに振り回され、疲れてしまう毎日ですが、そんな時こそ変わらない神様のみ言葉から力をいただいてゆきましょう。今日も子ども達が一緒に礼拝に集ってくれています。平塚バプテスト教会はこどもを大切にする教会です。互いの命を感じながら、礼拝をしましょう。子どもを連れて来たお母さん、おじいちゃんも、自分の子どもの声が気になることがあると思いますが、大丈夫です。一緒に礼拝をしましょう。 先週から3回にわたって、平塚バプテスト教会が70周年を迎えたということについて考えたいと思っています。いろいろ資料を掘り返したり、インタビューをしたりしています。みなさんにも原稿の依頼をしますので、どうぞ言葉を寄せください。資料を見ながら私は70年間、神様の力がこの教会におよび、建てられ続けて来たこと、その栄光の歴史を探していました。年表を見て、どのような恵みがあったのかを70年間という視点で振り返っていました。たとえば70年間で10個教会のトピックを挙げるとしたら、創立、宣教師、幼稚園、土地問題、小田原伝道所、梶井牧師招聘(バプテスト)、礼拝堂工事、信仰告白作成、こひつじ館建設、コロナのことになると思います。 しかし振り返ると70年間、いい事、栄光ばかりではなかった、いろいろな苦労があったことを知ります。特に私が注目しているのは、幼稚園と小田原伝道所についてです。記録からはそうは書いていなくても、そこから痛みを感じとります。 先日お二人の方に幼稚園閉鎖の歴史についてヒアリングをしました。幼稚園閉鎖、それは残念な出来事でした。当時の執事会の記録によりますと、1978年12月31日に初代牧師・長尾三二先生が天に召されました。その後2月に川上牧師が着任されます。しかし、4月からの附属紫苑幼稚園の運営を誰がどのように担っていくのかで混乱が起きています。英才教育の教育方針を引き継いで主任、長尾牧師のご親族に委ねていくのか、それとも新しい人に依頼してゆくのか。その対立は新入園児の保護者を巻き込んで深まってゆきます。そして結局、幼稚園の先生全員が退職をしてゆくことになります。その分断は、教会にも及びました。長尾先生のご家族が平塚バプテスト教会を去ることになってしまったのです。何とか幼稚園は続きましたが、結局8年後に休園、さらに2年後閉園となりました。平塚教会にはそのような歴史があります。 当時対立したお互いが、守ろうとしたものは何だったのでしょうか。そこで教会が示されたことは何だったのでしょうか。当時そこにいない私は、断片的な報告から想像するしかありません。しかし、確かに教会を去る人がおり、幼稚園は閉園してしまいました。痛みが残り、その痛みの癒しは終わったわけではありません。 教会は幼稚園を通じて、この地域に福音を伝えて行こうとしました。あるいは地域の子どもたちの成長を願いました。そのスピリッツは素晴らしいと思いますし、こひつじ館、子どもを大切にするという形で今も受けつがれていると思います。しかし思う様にはいかなかったのです。記憶・記録からは、大きな課題を前に教会は無力で、分裂の危機の前に教会は無力だったようにさえ感じます。礼拝出席者数も目に見えて減少したでしょう。 教会が幼稚園に関わる問題で混乱することは、決して珍しい事ではありません。平塚教会はこの事の前に無力で、分裂し、教会が閉じてしまう可能性も十分にあったでしょう。しかし教会は続きました。その後も確かに礼拝が続き、教会は続いたのです。 このような状況でも教会が続いたこと、そこには不思議な力が働いたと言えると思います。教会が死んでしまうかもしれない時、神様の息吹が降り注ぎ、教会は残りました。そこにはもちろん牧師や先輩者の頑張りがありました。「人の言葉に惑わされない」という堅い意志、一致しようという思いがありました。しかし何よりも、神様がこの教会に命を与えるという決断をされたからこそ、この教会は続きました。この教会を残すと神様が決断されたのです。すべての人が、神様の言葉を聞くために、神の子イエス・キリストを信じるために、神様はこの教会を建て続けることを選ばれたのです。 教会の70年の歴史、そこには確かに「無力さ」がしっかりと刻まれています。そして同時に、そこに確かに神が働き続けたことも刻まれています。栄光ばかりではない平塚バプテスト教会、でもそこに神様の力が注ぎました。私はその在り方が好きです。「弱い時こそ強い」それを体現している存在として、この教会は立ち続けているのだと思います。   さて今日の聖書の個所を見てゆきましょう。今日の個所はベトサダの池の話の直後の個所です。イエス様は38年間立ち上がることのできない、立ち上がる力のない人を癒したのです。その力強さに皆が驚きました。しかし、イエス様ははっきりと言います。今日の個所の、19節後半です。「自分からは何事もできない」と「自分には力がない、能力が無い」ということを語ります。自分は無力だというのです。 しかしイエス様は、その無力の中に神様が働き、神様の業が起こっていると話します。20節に、神様はイエスさまを愛して、自分の力をイエス様に与え、それを示すとあるとおりです。神様は力の無い場所を愛するお方です。神様は弱いもの、無力な者を愛し、力が注がれるお方です。それによって大きな業が地上に起こる。私たちにとって驚くような出来事が起こるのです。 21節、それはまるで、死者に命が与えられるような出来事です。もう終わった、ばらばらになってしまったと思っていたものが、もう一度息を吹き返す出来事です。神様からの命を受けて、もう一度一つのものとして働きを始める、起き上がる出来事です。 そのような出来事が、イエス様が選んだ場所に起こります。それは23節、すべての人が父を敬い、子を敬うために起こります。この地上の誰かのためではなく、すべての人のためです。全ての人が神様とイエスを敬うようなるためです。敬うとは、評価するという意味です。その本当の価値を知り、大切なものであるということ、従う価値のあるものであると知ることです。その本当の価値を知らせるために神様の業が起こるのです。 24節、私の言葉を聞いてとあります。神様の言葉を聞く、それは無力の中で神様の言葉を聞くということです。無力の中で神様の言葉を聞くその時、命が輝き出すのです。死んでしまったよう見えた場所に、命が湧きおこるのです。無力さは断罪され、切り捨てられ、強い者が生き残るのではありません。弱い者、無力な者こそ、神様の言葉を聞き、命が湧き起こされるのです。 そこでは25節、死んでしまった様に見える人、その無力さの中に神の声が響き渡るという出来事、その時が来る、その時は来ます。それは今がその時です。弱い私たちがその言葉を聞く時、私たちは生きるようになる、私たちの無力の中に神様の力が今、与えられるのです。それは今起こることです。 28・29節、驚いてはならないとありますが、私たちはそれに驚くでしょう。死んでしまった心に、終わってしまったと思う場所に、無力さの中に、神様の声が響きます。その時は善い行いをした人も悪い行いをした人も等しく、神様の力をいただくのです。そしてもう一度、そこから出てくる、新しくスタートができるのです。 30節もう一度イエス様は繰り返しています。「わたしは自分では何もできない」と。イエス様ですら、自分では何もできない、神の力が働いて、御心が実現されるのだと言います。私たちも、もちろん同じはずです。私たちは無力です。でもそこに神の力が働くのです。私たちが70年間頑張ったのではありません。神様が70年間、無力な私たちに力を与えてくれたのです。それが私たちの歴史です。 31節イエス様は自分を証し、賞賛することはしません。イエス様は自分の歴史を賞賛することはしないのです。36節、人はさまざまな評価をするでしょう。証言をするでしょう。しかし無力なイエス様に力が与えられ、成し遂げられたこと、そのものが一番の証しだとおっしゃいます。 今日の個所、神様の力、それは「わたしは自分では何もできない」という無力なイエス様に働くということをみてきました。私たちも同じでしょう。 私たち自身では何もできないかもしれません。現実に、コロナに振り回されるばかりです。でもそこに神様が働くのです。私たちは70年間を賞賛したい思いがあります。でも強い時ばかりではありません。教会の歴史には傷があり、無力さがあります。でも、それでも私たちの教会が70年間立ち続けた事、今も立ち続けている事、それこそがイエス様が行っている業そのものです。この教会が今日もここに存在することこそが、イエス様の力を証ししているのではないでしょうか。 平塚バプテスト教会は70周年を迎えました。この教会をもっと大きく、もっと力強い、もっと影響力のある教会に成長させてゆきましょうとは言いません。これからも私たちは、70年間そうであったように、無力な群れでありましょう。現実に振り回される、無力な人間の集まりでありましょう。そしてそこにこそ神様の力を求めてゆきましょう。 私たちは世に派遣されます。そしてそうする度に躓いて、右往左往して、分断の危機に悩むかもしれません。でも、それでも歩む教会でいましょう。それでいいのです。その中でこそ、そのような弱い中、無力さを覚える時にこそ、何よりも確かで、真実な神様が豊かに働くのではないでしょうか。この教会の70年間はそのような歩みだったのではないでしょうか。 そして私たち一人ひとりの歩みも、そのような歩みだったのではないでしょうか。これからもそのような歩みであるのではないでしょうか。お祈りいたします。
2020/07/19
70年の歴史の中で幼稚園の閉鎖、それは残念な出来事でした。当時の記録によりますと、1978年12月に初代牧師・長尾三二先生が天に召された後、附属紫苑幼稚園の運営を誰がどのように担っていくのかで混乱が起きています。英才教育の方針を引き継ぐのか、それとも新しい人に依頼してゆくのか。その対立は新入園児の保護者を巻き込んで深まってゆきます。そして結局、幼稚園教諭全員の退職につながります。その分断は、教会にも及びました。長尾先生のご家族が教会を去ることになってしまいました。何とか幼稚園は続きましたが、結局幼稚園は8年後に休園、さらに2年後閉園となりました。平塚教会にはそのような歴史があります。 このような状況でも教会が続いたのは、そこに不思議な力が働いたからでしょう。教会が死んでしまうかもしれない時、神様の息吹が降り注ぎ、教会は残りました。そこにはもちろん牧師や奉仕者の頑張りがありました。しかし何よりも、神様がこの教会に命を与えるという決断により、この教会は続きました。すべての人が、神様の言葉を聞くために、神の子イエス・キリストを信じるために、神様がこの教会を建て続けると決めたのです。 教会の70年の歴史、そこには確かに「無力さ」が刻まれています。そして同時に、そこに確かに神が働き続けたことが刻まれています。栄光だけではない平塚バプテスト教会、でもそこに神様の力が注いだのです。 今日の聖書個所を見ましょう。イエス様は38年間立ち上がることのできない、立ち上がる力のない人を癒したのです。その力強さに皆が驚きました。しかし、イエス様ははっきりと言います。19節後半です。「自分からは何事もできない」と。自分は無力だというのです。 21節、それはまるで、死者に命が与えられるような出来事です。もう終わったと思っていたものが、もう一度息を吹き返す出来事です。24節、それは無力の中で神様の言葉を聞くということです。無力の中で神様の言葉を聞くその時、命が輝き出すのです。無力さは断罪され、切り捨てられ、強い者が生き残るのではありません。弱い者、無力な者こそ、神様の言葉を聞き、命が湧き起こされるのです。25節、無力さの中に神の声が響き渡る時、今がその時です。私たちの無力の中に神様の力が今、与えられるのです。 教会の歴史には無力さがあります。でも、それでも私たちの教会が70年間立ち続けた事、それこそがイエス様が行っている業そのものです。この教会が今日もここに存在することこそが、イエス様の力の証しです。 平塚バプテスト教会は70周年を迎えました。私はこの教会をもっと力強い教会に成長させてゆきましょうとは言いません。これからも私たちは、70年間そうであったように、無力な群れでありましょう。そしてそこに神様の力を求めてゆきましょう。そのような弱い中、無力さを覚える時にこそ、何よりも確かで、真実な神様が豊かに働くのではないでしょうか。

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