カテゴリ:原稿と週報



2021/02/28
「ダビデがサウルと話し終えたとき、ヨナタンの魂はダビデの魂に結びつき、ヨナタンは自分自身のようにダビデを愛した」サムエル記上18章1節...
2021/02/21
【はじめに】 本日はこの平塚バプテスト教会の礼拝に招いて下さりありがとうございます。平塚教会の礼拝は、平野先生の就任式と今回で二回目になりますが、平塚パトロールの炊き出しで毎月この教会を訪れており、私にとっては身近な教会に感じております。...
2021/02/14
みなさん、おはようございます。今日もそれぞれの場所からですが、共に礼拝できることに感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。小さい者を大切にする教会です。今日も共に礼拝をしてゆきましょう。...
2021/02/07
みなさん、おはようございます。今日もそれぞれの場所からですが、共に礼拝をおささげしましょう。私たちはこどもを大切にする教会です。子どもたちも見てくれているでしょうか。...
2021/01/31
みなさん、おはようございます。今日もそれぞれの場所からですけれども、互いを感じながら、共に礼拝をしてゆきましょう。私たちは子どもを大切にする教会です。今日も集ってくれているでしょうか。一緒にみ言葉を聞きましょう。...
2021/01/24
みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること感謝です。私たちは子どもを大切にする教会です。子どもたちも一緒に礼拝しているでしょうか。今はこどもや互いの声を聞くことはできませんが、共に礼拝していることを覚えながら礼拝をしましょう。...
2021/01/17
みなさん、おはようございます。今日もそれぞれの場所から共に礼拝をできること、感謝です。日に日にコロナの情報が入ってきて心が休まりませんけれども、今日この短い時間ですが、共に集い、主に心を向けてゆきましょう。今日は子どもたちも集ってくれているでしょうか。私たちは子どもたちを大切にする教会です。今日は声を聞くことができませんが、共に礼拝をしましょう。 今月私たちは協力伝道という事をきっかけに福音を考えています。1回目は国外伝道について佐々木和之さんを挙げて、聖書を読みました。「和解の協力伝道」です。先週はコロナ禍の中でのオンライン礼拝や主の晩餐について各教会の取り組みから考えました。今日は協力伝道の中の「牧師養成(神学教育)」について考えてゆきたいと思います。 一人の牧師を育てることは、一つの教会では難しいことだと思います。いろいろな分野の専門知識や能力を一か所の学校に集め、教えてゆくことが必要だからです。聖書の専門家のみならず、バプテストの専門家、教会の現場の専門家、あるいはカウンセリングの専門家、パワハラ・セクハラの研修など、それぞれ専門とする教師から学ぶ必要があり、一つの教会でそれをカバーするのは不可能です。そういった意味で、神学教育・牧師養成には各個教会の協力が必要です。私たちはそれを神学校献金という形で支えています。 もちろん学びは神学校で終わるわけではありません。牧師になってからこそ、いろいろな失敗や学びがあるのです。私たちの教会が未経験で未熟な牧師を招聘するということも、真の牧師養成に参加しているといえるのではないでしょうか。私の平塚教会での経験は次の教会に活かされるでしょうし、いままでの牧師先生方もこれまでの教会の経験を豊かに活かしてきたでしょう。それが協力伝道です。 今日は私自身が神学校に入学する時のことをお話します。私は6年前に大井バプテスト教会から西南学院大学の神学部に入学をしました。私はまったく覚えていないのですが、大井教会を出発するとき、私が加藤誠先生に何と言ったか「必ずビックになって帰ってきます」と言って、教会を出たらしいのです。何年か経ってから教えてもらいました。 今思うととても恥ずかしいのですが、それは神学校入学前の私らしい言葉かもしれないと思います。私はずっとベンチャー企業に勤めていたので、日夜、成長すること、大きくなることを目指していました。もっと大きく、強くなろう、そんな思いが入学前にはあったのだと思います。実際、私の入学の時の志望動機を見直してみたのですが「キリスト教はもっと人々を導く力があって、社会でもっと評価されるべきだ。本当の価値を伝えたい」と書いてありました。ビックになろうとしていたのでしょう。 しかし神学校で教えられ、学び、気づいたのは真逆の事でした。神学校に通う間、小さいということの大切さを教わったように思います。学べば学ぶほど、知れば知るほど、小ささの中に神様の力が働くことを知りました。学べば学ぶほど、小さい命に目を向ける神様の働き、社会で小さくされている人とこそ神様が共にいることを知るようになりました。 大きくなることよりも、ビックなることよりも、小さいことを大切にしたいと思うようになりました。神様の働きはそこにあるのだと知るようになりました。大きな声を聞くよりも、小さな声を聞くこと。強さよりも弱さを大切にすることを知りました。その意味では、自分がひっくり返されるような4年間だったように思います。 きっとあのまま一つの教会にいてはできない学びをさせてもらいました。そして何より多くの体験によって福音を様々な面から見ることができました。ビックになるという目標は、小さくあり続けようという目標に変えられました。そして小さき者として、小さいことに目を向け、小さい者同士として共に歩むという目標に変えられました。それは今でも続けたい目標です。 今、コロナの時を過ごしているわけですが、その時も小さいことに目を向けたいのです。この時自分の小ささを受け止めたいのです。自分がいかに関わりに支えられていたのかを知りたいのです。また、このコロナに翻弄されて、小さくされている人々を覚えて祈りたいと思うのです。 神学校教育の大切さを私は痛感しています。そしてこれからも神学教育を支えることの大事さを感じます。そして今、これから神学校に通う献身者にもぜひ様々な学びを通じて、小さいものをたくさん見つけて欲しい、そのように願っています。 今日の聖書個所を読んでゆきたいと思いますが、今日の聖書からも、神様は小ささを大事にするお方だということを私は知ります。イエス様は大きさよりも、小ささを選んだお方でした。強さよりも、弱さを選んだお方でした。そこに共にいるお方だった。そのことを見てゆきたいのです。   今日の聖書個所を見てゆきましょう。イエス様はバプテスマのヨハネに洗礼を受けたとあります。少し前の5節には、様々な地域から多くの人がバプテスマのヨハネの「悔い改めよ」という呼びかけに応え、洗礼を受けていました。おそらく多くの人々が集い、列になっていたでしょう。そのようにヨハネからバプテスマを受けました。 イエス様もきっとその列に並んでいたのです。他の人と同じように、悔い改める人々の列に並びました。イエス様は大きさや、強さ、威厳を持たないお方のように見えます。ヨハネの洗礼の活動を見て、悔い改める一人として洗礼を受けたように見えるのです。 イエス・キリストは神の子であるにも関わらず、悔い改めの列に並んでいるのです。私はそこに、へりくだる神の姿があると感じます。これは神がどこにいるのかをよく指し示している物語です。神は大きく、強く、勢力を拡大する場所に共にいてくださるのではありません。 神様は小さな人間たちが、悔い改めて列に並ぶその場所にいたのです。神様は私たちの悔い改めの列に一緒に並んでくださっていたのです。その長い列は大きく強くなるための列ではありませんでした。自分の小ささを知り、それを告白する人々の列でした。小さくされた人を大事にしようとする列でした。そしてそのような小さい者に、神の愛が注がれているということ信じる者の列でした。神様はそれを見逃さず、その列に共に並んでくださったのです。そこに共にいて下さる神がいます。マタイ福音書が繰り返し言う、インマヌエルの神様、我々と共にいる神がそこにおられるのです。 14節ヨハネはイエス様の申し出を何度も断っています。「私にそんな資格はありません」「私の方こそあなたからバプテスマを受けるべき者です」そう断ったのです。しかしイエス様は今、自分がバプテスマを受けるのは「正しい」といってそのバプテスマを受けたのです。 神の子であるイエス様は、自分より劣っているはずの人間からバプテスマを受けたのです。それが神の子という存在です。イエス様は自分を大きくすることよりも、小さな人々と共にいることを選んだお方だということです。 イエス様にとって「正しいこと」とは何だったのでしょうか。それは自分が力をもち、大きくなること、自分の偉大さを証明することではありませんでした。それよりも大事にしたこと、「正しい」としたこと、それは今悔い改めている小さな人々と共に、バプテスマを受けるということでした。それがイエス様にとって「正しいこと」だったのです。 イエス様のバプテスマは小さな人々と共に生きるという、たくさん方法の一つでした。15節「正しいこと」とは、小ささと共にいるということです。その一つが、このバプテスマです。力ある方、大いなる方、神様が、へりくだり、小さきものと連帯し、私たちと共に歩むという象徴がこのバプテスマです。イエス様のへりくだりと連帯がここにあります。小さき者と共にいる神、小ささを大切にする神が、ここに描かれているのです。 そして17節、神の霊もそのように歩むイエス様を「わたしの心に適う者」と言っています。 この後イエス様は宣教の旅を開始しました。しかしイエス様は大都市からその宣教を始めないのです。非効率な地方、ガリラヤから宣教を始めます。大都市にいけばすぐに信者がたくさん集まるのにと思います。神奈川県だったらまず横浜で宣伝するのが効率がよいでしょう。ビックになる近道です。でもイエス様は大都市に行くのではありません。ガリラヤという田舎町から宣教を始め、偶然出会った無学な漁師を最初の弟子にしたのです。そこにも神様の在り方が示されているでしょう。小ささと共にいるということです。 今日のイエス様がバプテスマを受けたという物語、実は後代の人々はこの個所の解釈に相当悩んでいました。なぜ力強き神の子が、それに劣る者から洗礼を受けたのか。偉大なる神にとって都合が悪いと思ったのです。でもだからこそここは大事なことが語られています。この個所はこのように、キリストがへりくだり、悔い改める小さなものと共にいたお方だということが示されているからです。 今日の物語で私たちは自分をバプテスマの列に並ぶ人々にかさねます。イエス様はその私たちの悔い改めの列に共に並んでくださるお方です。小さい者と共にいて下さるお方です。ご自分の大きさよりも、小ささを大事にするお方です。「正しいこと」それは、自分を大きな者とせず、へりくだり、小さい者、弱い者として人々と共に歩んでゆくことです。それが神様にとっての正しさなのではないでしょうか。 今この時、私たちは小さくいたいのです。コロナに振り回される弱い私、神の助けが必要な私を見つけたいのです。ピンチをチャンスに変えるのではなく、ピンチに共にいて下さる神様を見つけたいのです。 そして私たちは小さくされている人々にも目を向けたいのです。コロナに振り回される人々を祈りたいのです。 私は協力伝道の中で、神学教育の中でそれを教えられ、知りました。これからもこの協力伝道が続くことを願っています。小さき者が小さき者と共に生きる歩みが、多くの人々に起こされていくことを願っています。お祈りましょう。
2021/01/10
みなさん、おはようございます。今日もそれぞれの場所からですが、礼拝できることに感謝です。互いを感じながら共に礼拝をしてゆきましょう。子どもたちも集ってくれているでしょうか。...
2021/01/03
みなさん、おはようございます。今日からまたこのように、自宅で献げる礼拝となりました。会うことができない事はとても残念ですが、また再び集うことができるという希望を忘れずに集いましょう。私自身も冬休みを延期しました。楽しみにしていた予定はキャンセルとなって残念なのですが、入学以来学校にいけない学生たち、卒業式がどうなるのか不安な学生たちの気持ちがよく分かったような気がいます。持っていきどころのない思い、くやしさ、焦りがあります。その気持ち、神様に向けてゆきましょう。神様にぶつけてゆきましょう。今年も私たちはこどもを大切にする教会です。また子どもたちも見てくれているでしょうか。子どもたちの声は聞こえませんが、共に礼拝をしましょう。このような状況ですが、今月は「協力伝道」というテーマで1月の4回の宣教を行ってゆきたいと思っています。 私たちはバプテスト連盟に加盟している教会です。バプテストは各個教会主義を大事にしています。それぞれの教会が自分の教会のことを自分で決めるという、当たり前のことを大事にしています。平塚バプテスト教会は、誰からも何かを強制されたりしませんし、従わなければならないという事はありません。すべてを自分たちで考えて、祈って決めます。そのために経済的にも自立しています。よく聞かれるのですが、牧師のお給料やこの会堂の管理をどうしているのですかというと、すべて私たちの献金で賄っています。私たちはそのように自立しています。誰かからの指示ではなく、自分たちで集う礼拝を続けるかどうかを決めています。 そして自立と同時に、孤立しないように、仲間と協力をしています。一つの教会だけではできない事、解決できない問題もあるからです。協力伝道献金という形でそれぞれの教会から献金し、様々な活動に用いられています。平塚教会だけではできないことがあるから、協力をするのです。 その大きな柱は国外伝道、牧師養成、無牧教会の支援です。あるいはこのコロナ禍を乗り切る知恵の分かち合いもそうでしょうか。ひとつひとつの教会では海外に宣教師を送ることもできません。牧師に専門的な教育をすることはできませんし、牧師がいない期間や教会もあります。コロナ対策をどうするか情報共有が必要です。だから協力をしているのです。 私たちはこの時、1カ月をかけて協力伝道について、国外伝道、牧師養成、無牧教会の支援などを一つずつ考えてゆきたいと思います。今日はその中の国外伝道について考えます。 私たち日本バプテスト連盟ではカンボジア、シンガポール、インドネシアに宣教師を派遣しています。そしてルワンダには宣教師ではなく、自分で活動費を集めながら奉仕する国際ミッションボランティア(IMV)として佐々木和之さんを派遣しています。国外伝道は非常に多く資金を必要とします。年間3000万円~4000万円が国外伝道のために使われています。とても各個教会でできる働きではありません。連盟の教会が協力し合って派遣しています。ちょうど今私たちはパネル展を開催中です。「アフリカ・ルワンダで和解と平和のために働く佐々木和之パネル展」です。どうぞ食堂の展示をご覧になって帰ってください。ここには衝撃的な写真もあります。人々が折り重なって亡くなっている写真です。 ルワンダでは1995年、二つの民族の憎しみから虐殺が始まりました。100日間で80万人が犠牲になったと言われています。昨日まで隣で仲良く暮らしていた人が、突如殺しあう関係になってしまったのです。ルワンダは野蛮な人々の住む国ではありません。控えめな人々が穏やかに暮らす国です。 しかしある時期から指導者や、マスメディアの扇動、差別が始まり、虐殺に発展したのです。この虐殺の対象は、大人に限りませんでした。多くの生まれてまもない子どもたちも犠牲になったのです。 この虐殺の原因は、誰の心にもある差別や暴力への誘惑です。遠い国の人の話ではありません。差別と暴力の誘惑は誰の心の中にもあるのです。その証拠に日本人も南京大虐殺や、関東大震災の時の朝鮮人虐殺などをしています。考えるだけで暗い気持ちになります。ルワンダの虐殺は私たちの罪、私たちの暴力性を真正面から提示する事件といえるでしょう。しかし、私たちは協力伝道によって、その闇に一筋の光を見ています。それが佐々木和之さんの働きです。佐々木さんはその二つの民族、人々の和解と平和のために働いています。謝罪すること、償うこと、生活を再建すること、教育を通じた和解と平和の働きを粘り強く行っています。 虐殺は神の導きではありません。人間の弱さ、残酷さ、罪の結果です。しかし神様は私たちに和解してゆく力を与えてくださいました。罪を犯すままにされるのではなく、それを和解する力を神様が下さったのです。私たちはその力を協力伝道によって知るのです。佐々木さんは、人々が虐殺の悲しみ、憎しみを乗り越えて、歩めると信じ活動をしています。生き残った人々が憎しみを超えて、共に生きる道、平和の道を歩めると信じて活動しています。そしてゆっくりですが、少しずつ、現実になってきています。キリストにあるその平和の働きは虐殺後の希望となっています。この和解の出来事は、世界の裏側の出来事ではありません。私たちに和解について問いかける事柄です。私が和解を促されている人がいるだろうか。私たちの国が和解を促されている国があるだろうかということが私たちに問われています。 絶対良くならないと思う関係があるかもしれません。しかし神様は和解の力を与えてくださるお方です。私たちはそれを協力伝道、国外伝道から学んでいるのではないでしょうか。コロナで切れてしまったと思う関係があるかもしれません。しかし神様はつながり続ける力を下さるお方です。人間の罪や欠けの大きさと、それに勝る、神の和解の力を知らされてゆくのが協力伝道なのではないでしょうか。   今日の個所をご一緒に読みしましょう。聖書に書かれているのは幼児虐殺の悲しい物語です。この虐殺は決して神の導きではありません。人間ヘロデ王の残虐行為です。それが聖書の預言を実現させてしまったのです。 このヘロデは残虐な王として歴史に名を残しています。自分の脅威になる親族を片っ端から殺した王様です。妻、兄、伯父、3人の息子。自分の王の座が失われるかもしれないとなると、誰でも殺した王でした。今日の個所でも、次の王がでるという小さな噂で一つの町の2歳以下の子どもが全員殺されたのです。アルケラオスという人も出てきますが、この人もヘロデと同じように残虐だったと言われています。 彼が虐殺を行ったのは、自分をひたすら守るためです。王としての立場を守るためです。そのために邪魔な人間は誰でも殺しました。自分を脅かすものを憎しみ、自分以外の命を物のように扱い、差別しました。人々にとっては禍であったでしょう。 しかし悪者は本当に彼ヘロデだけでしょうか。私は虐殺にいたる心、憎しみや憎悪、差別にかられたときに人間がどのような行動をとるかをルワンダから学んでいます。あるいはコロナ流行で起きた差別からもそう思います。 1995年のあの虐殺の時、多くの市民が虐殺に参加しました。子どもを殺しました。あの虐殺に参加した人、全員がヘロデだったのです。日本人も同じです。南京大虐殺や、関東大震災の朝鮮人虐殺の時、すべての人がヘロデでした。人間は誰しも、ヘロデの残虐さを心に持っているのです。 実際ヘロデはこの虐殺でイエスを殺すことに失敗をしました。しかしその後、イスラエルの人々はイエスを十字架にかけて殺すことに成功しました。イエスの死は、一人の権力者だけでは起きませんでした。イエスの死、十字架は民衆の「殺せ」という扇動された声によって行われたのです。 大勢のヘロデがそこで声をあげ、イエスは殺されたのです。そして私たちも簡単にその群衆の一人、ヘロデになってしまう弱さ、差別する心を持っているのだと思います。私もいつでも、短い期間でヘロデに変わることができてしまうのです。戦争を始めてしまうのです。だからこそ、いつも主イエスから目を離さないでいたいと思うのです。 主イエス・キリストそれは、虐殺をぎりぎりのところで生き残った人、虐殺生存者・災害生存者でした。多くの悲しみを背負い生きた人でした。そして平和を訴えた人でした。ヘロデ王の支配という暗い社会に、虐殺が頻繁に起こる社会に現れた希望でした。そして暴力ではなく、平和を訴えたお方です。憎しみではなく愛を訴えたお方です。復讐ではなく和解を訴えたお方でした。豊かに満たされることを求めると同時に貧しい人にまずそれが起こるように願ったお方でした。 私たちは何とかこの希望が地上で実現してほしいと願います。虐殺はもう二度と起きてほしくないのです、十字架は一度きりで十分なのです。もう誰も犠牲にならないで欲しいと、平和を願うのです。もう二度と誰にもヘロデになってほしくないと思うのです。そして私たち自身のもヘロデになってはいけないと思うのです。 私たちが直接虐殺を直接起こすことはないかもしれません。でも私たち自身が誰かを傷つけることはあるでしょう。自分を守るために、自分の都合を優先させることがあるでしょう。何かを失うのが怖くて、相手に強く出てしまうこと、傷つけてしまうことがあるでしょう。 しかしその中に生まれてきたのが、イエス・キリストなのです。そしてキリストは神に従順にしたがうヨセフによって、その命が守られました。神の言葉を聞き続けることが、命を守ることにつながるのです。そしてイエス・キリストは生き残ったのち、和解と平和を訴えました。暴力に暴力で返すのをやめなさい、剣を捨てなさいと語ったのです。 私たちは生き残った小さな命が平和の礎となってゆくと信じます。そして十字架で犠牲になった命も平和の礎となってゆくと信じるのです。このように協力伝道は、絶対良くならないと思う関係を、和解させてくれる力がキリストにあると教えてくれます。必ずその和解の日は来る。それがすでにルワンダで始まっている、それを見て、信じたいのです。 私たちの協力伝道はキリストの業を証しするためにあります。協力伝道が私たちの罪の大きさと、その中にあるキリストの和解の力強さを証ししています。ひとりではできないことですが、共にその業を担いたいのです。このコロナも一人では乗り越えることができません。互いに励ましあい乗り越えてゆきましょう。そしてこれからもこの協力伝道に加わり続けましょう。お祈りいたします。
2021/01/01
みなさん、あけましておめでとうございます。YouTubeで参加されている方も、あけましておめでとうございます。一年のスタートをこのように礼拝で迎えることができることをうれしく思います。私たちは今年もこどもを大切にする教会です。こどもたちもあけましておめでとうございます。...

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