カテゴリ:原稿と週報



2021/05/16
あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。 マタイによる福音書23章11節 みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝をできること感謝です。こどもたちも集ってくれています。声を聴きながら共に礼拝をしてゆきましょう。...
2021/05/09
御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。わたしたちに必要な糧を今日与えてください。マタイによる福音書6章10~11節 みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝ができること、うれしく思います。こどもたちもともに集ってくれました。こどもたちとともに礼拝をしてゆきましょう。...
2021/05/02
イエスは言われた。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」       マタイによる福音書14章16節...
2021/04/25
イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。 マタイによる福音書9章10節...
2021/04/18
みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝をできること、うれしく思います。私たちは子どもを大切にする教会です。こどもと共にこの礼拝をお献げしましょう。私たちはペンテコステまで「地域と福音」ということをテーマにみ言葉を聞いています。特に今月はこの教会がホームレスの方々から気づかされた福音について見てゆきたいと思います。先週は訪ねて下さる神、神様は私たちを訪ねて下さるお方ということをパトロール、また私たち同士が声を掛け合うことから考えました。今日はシェルターの働きから福音を考えてゆきたいと思います。 私たちの教会は住む場所を失った人たちのために、シェルターを運営しています。場所は安全のため非公表です。このシェルターは年に数回ですが利用されています。 今日は利用されたある方のお話をしたいと思います。1年ほど前です、40代の男性が教会を訪ねてこられました。住む場所と所持金を失い、3日間野宿をしている方でした。インターネットでこの教会のことを知り、相談をしたいと、この教会を訪ねてきました。 彼はこれまでの人生から話を聞かせてくれました。一生懸命仕事をしてきた人でした。たくさんの資格を持っていました。彼はずっと寮付きの工場で仕事をしていました。一旦そこでの仕事、契約期間が終わると、彼はいつも次の寮付きの職場を捜していました。そのように働き続け、いろいろな場所に住み、働くのは、充実していたそうです。しかし、今回はなかなか次の仕事を見つけることができませんでした。彼はその期間ネットカフェを転々としていました。そして、とうとう所持金が無くなってしまい、2月の寒い日、初めての野宿を経験しました。とても寒く一睡もできなかったそうです。役所に支援を求めたこともありましたが、窓口で冷たい対応を受け、支援は受けられませんでした。 行き詰まった彼は、自分は社会から必要とされていないと感じたと言います。死にたいと思う様になりました。そして生まれ育った町にあった、海を思い出したそうです。死ぬ前にもう一度、海を見ようと平塚に来たのです。でも彼は死にきれず、教会に助けを求めました。 教会に来た彼は今の苦しみを堰を切ったように私に話をしてくれました。彼は誰かと会話すること自体が久しぶりだったそうです。そしてこんな風に誰かに身の上を話して「助けて欲しい」と言うのも、もちろん初めてでした。 「相談する人がいなくて気が滅入っています」「今ならホームレスが怠けているわけではないことがわかります」そんな思いと身の上を2時間ほど話し続けた後、彼は「今日一日泊めて欲しい」と言いました。もう一日も野宿をするのは嫌だ。今まで誰にも迷惑をかけずに、一人でできるところまでやって来たつもりです。でももう無理です。最後の望みを持って教会に来たんです。自分には誰かの助けが必要なのです。だから今日一泊、泊めて下さい」最後は泣きながら訴えました。 私は彼の宿泊を引き受けることにしました。そして翌朝、一緒に市役所に行き、改めて事情を説明し、自立のための施設に住むことになりました。彼と話していて様々なことを感じました。一番強く感じたのは単純な事です。私たちには家が必要なのだということです。そしてもう一つは、私たちは自分を助けてくれる人、精神的な支えになってくれる人が必要なのだということです。 人は誰も家無しに、そして支え無しに生きることはできません。家の無い人に、助けの無い人に、私たちが出来ることをしてゆくことが、一緒に生きる、共に命を生きるという事につながるのだと思いました。そして、それは彼が私に教えてくれたことだと思います。 教会がこのシェルターの働きを、神様の働きとして担っていくことはとても大切なことだと思います。一泊ですが教会は彼の「家」になれた事、彼が前を向いて、生きようと、神様の働きを少しだけ手伝うことが出来たことをうれしく思います。そしてこのコロナの中で生活に行き詰る人、家を失う人も増えています。家の無い人、助け手の必要な人を覚えたいと思います。 私たちは誰でも具体的に住む家と、心の支えを必要としています。それは何かに困っているかどうかは関係なく、すべての人がそれを必要としています。私は、すべての人にそれが与えられるように、神様に祈り、神様の働きとして、それに関わってゆきたいと思っています。 今日聖書から、神様は家になって下さるお方だということを読んでゆきたいと思います。神様は私たちに家、住む場所、留まる場所を与えて下さるお方です。そして神様は私たちの心の居場所、拠り所となってくださる、その事を見てゆきたいと思います。   今日の個所を改めてみてゆきましょう。2節にはこうあります「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか」この言葉に目が留まります。聖書によれば、神様のところには、私たちが住む家がたくさんあるそうです。そしてもし足りなければ神様はまた作ってくださるそうです。 そしてさらに3節にはこうあります。「行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える」。神様は迎えるための家を作った後、家の無い人を迎えに行って下さるお方です。そしてその家に招き入れてくださるのです。それが神様の働きです。なんと、準備して待っているだけではなく、ここがあなたの家だよと招き、迎えに行って下さるお方だというのです。 私は神様のこの姿に、とても勇気をもらいます。これこそ私たちが実現しようと目指す、すべての人に家があるという世界です。 今この時代こそ、本当に聖書に書いてある通りの出来事が起きて欲しいと願います。今この社会を、神様の示す姿に変えてゆきたいと思います。すべての人に家を、住宅をと、いま切に願います。 住居の無い人のために家があること、もし足りなければ作ること、困っている人を迎えに行って、どうぞここで過ごして下さいと言える世界、本当にそのような世界になって欲しいと願います。 そして教会がそれを少しでも実現できたらと思います。教会は住む場所を失った人を、また住む場所を得るまで、本当に短い期間ですがシェルターをご用意します。大変なことはたくさんありますが、これを神様の働きとして続けてゆきたいと思っています。 神様は私たちに家を用意して下さるお方です。教会はシェルターの働きを小さくとも続けたいと思います。教会はみんなの「家」になりたいのです。教会は泊まる場所の無いときの家になってゆきたいのです。神様が家に迎えて下さるその働きが、私たちの教会のしているシェルターの働きではないでしょうか。 してもちろんこの個所は住む住宅のことだけを言っているのではないという事も見ましょう。神様が私たちに心の家を与えてくださる、心の家になってくださるということもここで示されています。 私たちに必要なのは住宅だけではありません。相談できる人、安心できる場所、心を休めることが出来る場所、心の家となる場所が必要です。 今日ここにいる方の多くの人は住む場所があるでしょう。神様は住む場所を下さると言われてもピンとこないかもしれません。でもたとえ家があったとしても、安心して過ごすことができる場所が無い人は多くいます。私たちがStayHomeしていても、安心できないのと同じです。住宅があれば良いわけではありません。 私たちには住宅と共に、心・魂が安心して過ごせる場所が必要です。私たちには住宅があっても、心の家が必要です。私たちの人生には様々な出来事が起こります。私たちはその時どこかで、人生の寒さをしのぎ、人生の雨風をしのがなければなりません。人生の休息の場所が必要です。私たちは住宅が無ければ、生きていけないように、そのような心の家となる場所、心・魂が安心して過ごせる場所が必要です。それが無ければ、生きてゆく事ができません。 神様はその家、心の家にもなって下さるお方です。神の家にいるから、私たちは人生の苦しさを乗り越える事がきるのでしょう。実に神様は家の無い人に家・住宅を準備してくださるお方です。そして神様は私たちの家、私たちの心の家・魂の家となって下さるお方でもあります。私たちが、生きていくためには必ず家・住宅が必要なように、私たちが生きていくために必ず神様、心の家が必要なのです。神様はその両方を準備してくださるお方です。 1節には「神を信じなさい、イエスを信じなさい」とあります。神様が、住む場所を必ず与えてくださる、そう信じましょう。神様は必ずこの地上で住む場所を与えてくださるのです。そしてもうひとつ、神様は私たちの心の家・魂の家になって下さるお方です。そこで私たちは心を休めます。神様が家となられ、心配しないでいいよ、大丈夫だよ、すこしここで休みなさい。そう私たちを守って下さるのです。そのことを信じましょう。 4節には私たちはすでにイエス様の道を知っているとあります。そうです私たちはこのような神様の姿、イエス様の姿を今日すでに知っています。神様は私たちの家になって下さると知っているのです。 教会は家の無い人のために、シェルターを開いてゆきましょう。短い時間ですが、ここで休息をしてもらいましょう。そして私たちも、神様の家に留まりましょう。そこで安心して過ごし、休憩し、歩みましょう。お祈りいたします。
2021/04/11
イエスはペトロの家に行き、そのしゅうとめが熱を出して寝込んでいるのを御覧になった。             マタイ8章14節...
2021/04/04
みなさん、おはようございます。またイースターおめでとうございます。たくさんの方と共に、この礼拝に集い、礼拝できること本当にうれしく思います。私たちはこどもを大切にする教会です。今日も一緒に礼拝をしてゆきましょう。...
2021/03/28
イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。 マタイ27章46節...
2021/03/21
みなさん、おはようございます。今日も離れた場所からですが、共に礼拝をしましょう。来週から集って礼拝をする予定です。共に礼拝できることを楽しみにしつつ、また今日も一緒に礼拝をしましょう。私たちは子どもを大切にする教会です。今日も一緒に礼拝をしましょう。...
2021/03/14
みなさん、おはようございます。今日は本来ですと久しぶりに、会堂で集まっての礼拝の予定でした。しかし週報でもお伝えした通り、緊急事態宣言の延長に伴い、それぞれの場所での礼拝をもうしばらく続けることになりました。とても残念ですが、いい加減振り回されるのに疲れてきましたが、それぞれの場所から精一杯の礼拝をしましょう。私たちはこどもを大切にする教会です。きっと子どもたちも大きくなっています。 この期間、それぞれどのように過ごしておられるでしょうか。なんでもなるべく自宅で、少人数で、小さな声でと言われ、息苦しく過ごしています。何とか適応しつつ、楽しもうとしてきた私たちです。一人で何かをすることが増えたでしょうか。 最近は一人登山というのも増えているそうです。あるサイトを見ていたところ「一人登山のメリット」が書かれていました。こんなメリットがあるそうです。まず一人なら自分のペースで歩ける、話しながらの登山は楽しくても実は疲れる、一人なら好きなときに立ち止まれる、一人なら行きたい山だけに行きたいときに行ける、一人ならすぐに中止できる。そんなメリットが書いてありました。 記事を読んでいて、私はこのYouTubeでの礼拝に重なるような気がしました。YouTubeの礼拝は確かに自分のペースで礼拝できました。なにより自分の体調を心配せずに礼拝できます。体調がすぐれない時は少し休んでから見ることもできます。会堂に集まるのは楽しいですが、人と会話することは実は疲れるということも確かにあります。一人なら、トイレに行くとき、一時停止もできるかもしれません。あるいは他の教会の礼拝をすぐに見に行くことも可能です。話を聞いていて難しそうならすぐ停止するということもできるかもしれません。 そしてサイトにはもう一つの記事があり、「山を一人で昇るのは危険」という注意もありました。例えば一人登山はすべて自分の判断で行わなわなければならないので注意が必要とありました。もちろん二人以上いれば判断が正しいわけではありませんが。一人だと思わぬ判断ミスをする危険もあります。一番怖いのはけがや遭難です。けがをしてしまったら、とても心細さを感じるでしょう。誰が見知らぬ人に助けを求めなくてはならないかもしれません。また道を間違え、遭難してしまえば、行方不明になっても誰も気づかず助けてくれないかもしれません。 また、一人登山は上達するのに限界があるともありました。経験の豊富な人と一緒に教わりながら登山した方が、たしかに上達が早いでしょう。 一人登山は危険という記事を読んでいて、私はこれもYouTube礼拝と重なるような気がしました。一人だと、後でいつでも見れるから、後にしようという判断も働くでしょうか。先にあれこれ用事を済まそうとしてしまいます。いつでもできるということは、今しなければいけないという判断を狂わすことになるでしょう。 行方不明も大きな問題です。YouTubeの礼拝では私が参加していなくても、誰もそのことはわかりません。いつも集まれば「今日あの人いなかったね」「久しぶりにあの人に会えたね」という会話が自然に起こります。でもYouTube礼拝はそれをすることができません。 そして経験のある人と一緒の方がよいということは信仰でもまったく同じです。登山の心地よさ、注意は先輩方が一番詳しいのです。経験のある人と一緒に礼拝すると安心感があります。その背中を見ながら礼拝することは、とても私たちを励ますのです。高齢の教会員の方々は私たちの心の支えです。 もちろん今は、集うことができない時です。私たちはそれぞれの場所から礼拝をします。これには良い点も多くあります。でもできれば私はやはり皆さんと一緒に、集まって礼拝をしたいのです。礼拝は信仰は自分だけでは不安です。一人では行方不明になってしまいます。一人ではなく経験のある人と一緒に礼拝したいのです。 今日、特に私たちは集まることができず残念です。早く共に礼拝をできる日が来ることを祈ります。共に集って礼拝できる恵み、今日の個所から聞いてゆきましょう。そしてまた集えるように祈りましょう。 神様がまた教会に私たちを集めて下さる日を待ちましょう。礼拝は神様の招きです。神様はこの礼拝に、共に集う礼拝に必ずまた私たちを招いてくださいます。礼拝で私たちは共に神様のみ言葉を聞きます。そこからそれぞれの場所に派遣されてゆきます。そして、神様は派遣されたそれぞれの場所にも共にいて下さるお方です。今日もそのことを、聖書から頂いてゆきましょう。   今日の聖書個所を読みましょう。今日の話はイエス様と弟子とが一緒に山に登るという話です。マタイによる福音書で山はとても重要な要素です。マタイ福音書は重要な事を語る時、繰り返しそれが山の上だったと記録しています。特に山上の説教が有名でしょう。そしてイエス様はよく山に一人で登り、祈りました。一人登山です。イエス様にとって一人登山は大切な時でした。静かに自分のペースで祈ることができる大切な時でした。 しかし今日は一人登山ではありません。高い山に登ることに、弟子たちを招くイエス様の姿があります。みんなで一生懸命、力を合わせて山を登るのかと思うと、そうではありません。1節には「イエスはペテロ、それにヤコブとその兄弟を連れて」とあります。イエス様が連れてとあります。その山の山頂には、私たちが自分の力で登るのではありません。そこへはイエス様が連れていってくださるのです。イエス様が山頂へと招き導いてくださるのです。 礼拝も同じです。私たちは自分で礼拝をしている、また集えるようになったら教会へ行く、そう思うかもしれません。でもそうではありません。今日それぞれの場所の礼拝も、集うことができる日の礼拝も、そこへはイエス様が連れて来てくれくださるのです。 そして弟子たちは山頂でイエス様の本当の姿を初めて知ることになります。今まで一緒にいたイエス様が光り輝く姿を見るのです。 ペテロはその時言うのです「主よ、私たちがここにいるのは、素晴らしいことです」。まったくそうです!今日こそ私たちがこの言葉に目を止める日があるでしょうか。イエス様によって、いっしょに礼拝に連れてこられ、その光を受けた弟子たちが発した言葉です。私がではなく「私たちが」とあります。「私たちがここにいるのは、素晴らしいことです」主を集まって共に礼拝することがどれほど、素晴らしい事か、私たちは今日本当に知るのです。 ここに集えたことはなんとすばらしいことか。ペテロは言いました。私たちも、もし集えたらなんと素晴らしいことでしょう。 ペテロは仮小屋(幕屋・テント)を建てようとしました。それは神様にずっとそこにいてもらうための仮小屋でした。ずっとここにいて下さい、ずっとここに住んでくださいとペテロたちは願いました。しかしその幕屋は必要ありませんでした。神様はそこに留まる方ではないからです。神様は一部の人しか行けない場所で、光り輝くのではありません。私たちに触れて、高いところから地上に一緒に降りてきてくださるお方です。 そしてイエス様は何よりも私たちと共にその山を降りて下さるお方です。この物語は下山が大事です。イエス様は山を降りながら復活と十字架について弟子たちに語りかけています。受難節、」特に十字架と復活について、この山から降りながら話をされたということを覚えたいと思います。 山を降ったのは、イエス様は高い場所にずっとおられるお方ではない、私たちと共にいるのだという事を示しています。そして同時に、山を降るとは栄光から十字架への下り坂を意味しています。今日の山頂の栄光は苦しみの十字架へと変わってゆくのです。 イエス様は山頂から十字架に向かうことによって、栄光の姿だけではなく、苦しみ痛みを伴う場所に現れるのだということが示されています。イエス様は山を降りながらそのことを弟子に伝えています。 そして実際に山を降るとそうです。次の場面では、傷つき痛みを負った人々にまた出会いに出かけています。イエス様はこのように、共にいて下さるお方です。私たちを一緒に山頂へと、礼拝へと連れて行ってくださるお方です。しかし、そこに留まらないお方です。私たちと共に山を降り、地上を歩んでくださるお方です。病を負った人に向けて山を降りるお方です。十字架へと降りてゆかれるお方です。 神は人を礼拝に招き、人として地上に降り、苦しみ小さくされた人に向けて歩むお方だということがこの物語の中には詰められています。 私たちは今日もそれぞれの場所から礼拝をしています。早く集えることを願っています。共にイエス様から礼拝へと招かれ、共に山頂に連れてこられ、共にみ言葉を聞き、「私たち一緒にここにいるのは、すばらしいことです」!そう言える日を待ち望んでいます。 私たちは、共にイエス様に礼拝に招かれ、共に山を登ります。その山頂で礼拝し、私たちは主の言葉と出会いました。しかし私たちも神も、そこに留まりません。またそれぞれの場所へと派遣されてゆきます。 今日イエス様に招かれ、集える日を待ち望みましょう。「私たちが一緒にここにいるのは、すばらしいことです。」そう、主に礼拝をささげることができる日を祈りましょう。そしてイエス様は今週も私たちと共に歩んでくださいます。十字架という痛みの中におられる姿を示してくださいます。また礼拝に集えることを祈ります。今週もまた1週間の歩みをイエス様と共に歩みましょう。

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