カテゴリ:原稿と週報



2020/08/08
みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝が出来る事に感謝です。私たちは子どもを大切にする教会です。共に、子どもの声を聴きながら礼拝をしましょう。そして私たちは8月、平和をテーマに礼拝をしています。先週は「平和の食べ物」平和を求めながら、イエス様を求めながら、食べ物と生きる道を求めてゆこう、それがシャロームにつながるという事を話しました。今日はアフリカのルワンダ共和国で和解の働きをされている佐々木和之さんの報告を元に、聖書から平和を聞いてゆきたいと思います。 佐々木和之さんは東アフリカにあるルワンダ共和国で、和解のプロジェクトをすすめています。ルワンダは東アフリカにある、小さな国です。95%がクリスチャンというキリスト教国です。しかし1994年ルワンダでは大虐殺事件がありました。100日間で80万人、人口の約一割が殺される大虐殺事件が起こりました。きっかけは大統領の暗殺でしが、虐殺の背景には植民地時代に植え付けられた分断と差別と憎悪がありました。 分断と差別は一般市民が、一般市民を殺す、隣人が隣人を殺すという虐殺事件を生みました。26年前の出来事です。虐殺が収束した後、ルワンダの社会や地域が元の状態に戻ることは容易ではありません。市民による虐殺によって、多くの市民が刑務所に入りました。街に残されたのは、虐殺から生き残り傷ついた被害者と、家族が虐殺に加わったという加害者の家族でした。 元々農民だった人々は簡単に引っ越すわけにはいきません。虐殺後もなおも被害者と加害者の家族が隣に住むということも多くありました。 被害者と加害者。もう共に生きる、助け合って生きると言うことは本来できない関係です。しかし今ルワンダでは両者がどのように共に生きるかを模索しています。多くの人々がまだ平和を探し求めています。そしてその中で和解と平和のために働いているのが、佐々木和之さんです。彼は洋光台バプテスト教会の教会員でもあります。 私は佐々木和之さんを支援する会の事務局の仕事を引き受けている関係で、皆様にも会報「ウブムエ」をお配りします。ぜひ支援の輪に入って下さい。今日はこの中から一つのエピソードウムチョ・ニャンザの支援をご紹介します。 ウムチョ・ニャンザとは虐殺事件の生存被害者である女性たちと加害者を夫に持つ女性たちが共に働く女性協働グループです。ブックカバーを購入されたことのある方も多いいでしょう。被害者と加害者の家族が同じスペースで、協力して、物を作り、それを売り、自分達の生活を再建しようとしています。もちろん様々な葛藤があります。しかし分断され、殺し合った過去を超えて、ともに生き、一致し、生活を再建しようと働いているグループです。その活動を支援しています。ウブムエには、コロナの中でどのようにウムチョ・ニャンザ―のメンバーが一致し、助け合ったが報告をされています。1ページ目の右下です。 “夫が虐殺加害者として刑務所にいるエレナさんは、普段なら他の人の農地で働くことで生活の糧を得ています。彼女は、ロックダウンが始まってから仕事がなくなり、子どもたちに食べさせる食料も尽き、途方にくれた時の様子を語りました。女性たちの何人かは、ウィルス感染の恐怖、生活の困窮、いつ状況が良くなるのか全く分からないことから来る不安の中で、絶望しかかったというのでした。しかし、彼女たちはその苦境を生き延びました。勇気を出して助け合うことによって。ロックダウン導入から 10 日が過ぎた頃、グループの世話役たちが電話で連絡を取り合い、銀行に預けてあった運営資金から、日本円で 2,300 円に相当するお金をそれぞれの口座に振り込むことを決めたのでした。女性たちは、携帯電話で伝言ゲームのようにその朗報を一人、また一人と伝えていきました。電話が不通になっていた仲間には、警察に拘束されないように、裏道を通って仲間の女性の家まで行って伝えたのです。その時の苦労話を複数の女性たちがユーモラスな語り口で笑顔を見せながら話してくれました。そして、昨日集った全ての女性たちが、そのお金を手にしたときの喜びと感謝、「一緒に働いてきて良かった」と心の底から感じたことを語っていました。” 被害者と加害者が分断を超えて一致し、共に働き、お金を分かち合い「一緒に働いてきてよかった」と感じたと言うのです。佐々木さんはこのことを次の様に考察しています。3ページです。 “この苦境がただ過ぎ去ることを待ち望むことからは本当の希望は見えてきません。また、以前の日常を取り戻すことが希望であってはならないとも思います。今日一日、私が出会うお一人お一人と、どんな形であれ共に希望を見出していくこと。その希望を紡ぐ営みに具体的に関わり、今、祈り行動していくことが大切なのです。そして、やがてコロナ禍を生き延びた時に、その方々との関係がより強く愛に満ちたものになっていることを心から願います。そこからしか、コロナ後にあるべき社会を創る営みは始まらないのではないでしょうか。” このことはコロナだけではなく、虐殺の被害者と加害者の関係も含めた言葉だと思います。憎しみ合った二人が、引き離された二人が、それが無かったことの様に過ごすことが、平和、希望ではありません。困難の後に、二人の関係がより強く愛に満ちたものになっている関係を求めたいのです。 この会報のタイトルは「ウブムエ」と言います。「ウブムエ」はルワンダ語で「一致」「調和」「和」を表す言葉です。この会報のタイトルが事柄を良く表しているのではないでしょうか。私たちにも様々な分断があります。コロナや、外出自粛や、差別や民族や国境。私たちはその隔てを超えて、その隔てを乗り越えて、関係がより強く愛に満ちた者になってゆく、一致、「ウブムエ」をしたいのです。困難があっても、いえ困難があるからこそ、もっと大きな希望があると期待して、「ウブムエ」して歩みだしたいのです。 そこにはイエス様が必ず一緒にいて下さいます。力を与えて下さいます。イエス様がまず私たちと共に生き、私たちとの一致し、ウブムエして下さいました。私たちと神様の間を、イエス様が乗り越えて来て下さり、私たちの元に来てくださったのです。そのことを今日の個所から聞いてゆきたいのです。私とイエス様が強い関係にある、一致し、ウブムエして下さっている、そのことを見てゆきたいのです。 今日の聖書の個所を見ましょう。イエス様は今日の個所44節で、父が私を遣わしたと言っています。イエス様が神様の言葉を伝える者であること、その意味でイエス様が神様と等しい方であるということです。 そして神様の元に行く方法を教えてくださっています。それは、神様が私たちを引き寄せて下さるかどうかです。神様の元にいること、神様と一致し、ウブムエする事、それは神様が起こすことです。私たちが行くのではありません。何かをすれば行けるのではありません。神様が私たちを招き、一致・ウブムエして下さるのです。私たちは神様の招きに応えるだけで良いのです。 48節、イエス様は私はパンだ。そして私の肉を食べなさいと言います。私たちは主の晩餐を毎月していました。あのパンはイエス様の肉だというのです。小さいブドウジュース、あれはイエス様の血だというのです。もちろん私が持ち上げて祈ると何かが起こって変化するというわけではありません。あれを食べると不老長寿・不死身の体、病気が治ったりするわけではありません。 このパンを食べるとどうなるのでしょうか?56節にはこうあります。「いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる」ことになるのです。これを食べるとイエス様の中にいるような体験、イエス様が中にいるような体験、そんな一致、そう「ウブムエ」が起こるというのです。 58節そのパンは普通の食べ物とは違います。モーセたちが荒野で食べた食糧としてのパンとは違います。それは小さいけれど、イエス様、神様との一致・ウブムエを私たちに教えてくれるパンなのです。それを食べると57節「私を食べる者は、私によって生きる」のです。イエス様の体を、肉を食べて頂くとき、私たちはイエス様によって生きる者になります。すぐに分断してしまう人間が、そのパンを頂く事によって、神様の内に生きるようになり、神様との一致を体験するのです。そしてそれは他者との一致への体験へと広がってゆくのです。 永遠の命、それは不老長寿・不死身の体ではありません。それは殺し合わない命です。ずっと共に生き続けようとする命です。永遠に傷つけ合わない命です。その命は、一致はイエス様が私たちと一致、ウブムエして下さっていることから始まるのです。 あのパンを食べるという事、それはイエス様との一致、ウブムエの体験です。その一致を通じて、私たちには互いに一致をしてゆく者とされるのです。分断を超えて、平和を生きる者とされるのです。 53節にある「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない」とはそのようなことです。イエス様が与えるパン、その一致のパン、ウブムエのパンは、51節、世を活かすためのパンです。一人だけではない、世全体を活かすパンなのです。 このようにイエス様のパンは命のパン、平和のパン、一致のパンなのです。イエス様は私たちと一致をしてくださる、ウブムエして下さるお方です。だから私たちもお互いに一致ができるはずです。どんなに違いがあって、どんなに強い憎しみがあって、どんなに困難があっても、どんな過去があっても、それにまさる希望、一致、ウブムエを神様が必ず用意して下さっているのです。イエス様は私たちの壁と分断を壊し、一つにしてくださる。ウブムエさせて下さるのです。 私たちの世界と日常には分断が多くあります。日本と韓国、中国とアメリカ、富裕層と貧困層、私とあの人、あの人とあの人。でも私たちは必ず一致、「ウブムエ」できるはずです。平和が実現できるはずです。イエス様の肉を頂き、祈り、行動をしてゆきましょう。お祈りします。
2020/08/02
 みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝をできること、うれしく思います。今日は平和祈念礼拝です。今日から8月いっぱい、平和をテーマに宣教をしてゆきたいと思います。今日も子ども達が集ってくれました。子ども達がのびのびといられることは平和の象徴です。平和のない場所に、こどもの笑顔やこどもの笑い声はありません。こどもを大切にする教会は平和を大事する教会でもあると思います。子ども達と共に、声を聞きながら平和を願い、礼拝をしてゆきましょう。 聖書のいう平和、それは単に戦争のない状態をいうのではありません。平和とはヘブライ語でシャロームです。この話は繰り返ししようと思いますが、聖書の平和・シャロームとは丸です。完全な丸が平和の状態です。しかし世界は今、大きく歪んでいます。戦争によって歪んでいます。そして戦争ではなくても、同じ様に構造として世界は大きなゆがみを抱えています。格差や差別が世界中に起こり、美しい〇を描くはずの世界は歪みだらけです。 そのような世界でシャロームとは、図のように、高い場所と低い場所が均等になり、きれいな丸になってゆくことです。飛び出ているものは元に戻され、押し込められているところは引き上げられるのがシャロームです。その押し込められ、低くされている場所には十字架があります。イエス様の力は、低くされたその一番下から元に戻そうと働き、完全な丸にしようとします。その動き・運動がシャロームです。それが十字架の働きです。聖書の平和、それは戦争がないだけではなく、小さくされた人に神様の力が働くことによって、すべての人々が等しく豊かに生きる事、それが聖書の平和・シャロームです。 今日は平和祈念礼拝ですが賛美は出来なくても応答賛美の時にフランシスコの「平和の祈り」という賛美の奏楽をしてはどうかと提案をいただきました。コロナの関係で賛美は許されませんが、後ほど心の中でこの賛美を歌いましょう。いくつか翻訳がありますが、次のような歌詞です。 主よ、わたしをあなたの平和の道具としてください。 憎しみのある所に、愛を置かせてください。 侮辱のある所に、許しを置かせてください。 分裂のある所に、和合を置かせてください。 誤りのある所に、真実を置かせてください。 疑いのある所に、信頼を置かせてください。 絶望のある所に、希望を置かせてください。 闇のある所に、あなたの光を置かせてください。 悲しみのある所に、喜びを置かせてください。 主よ、慰められるよりも慰め、理解されるより理解し、愛されるよりも愛することを求めさせてください。 なぜならば、与えることで人は受け取り、忘れられることで人は見出し、許すことで人は許され、死ぬことで人は永遠の命に復活するからです。 この平和の祈りを見てもわかるように、小さくされた場所に、憎しみ、侮辱、分裂、そのような小さくされた人々のいる場所に神様の力が働き、平和・シャローム・完全な丸になるように願う祈りがここでも繰り返されています。 平和は戦争がないことだけではありません。しかしもちろん私たちは戦争がもっとも平和を崩すことだということを知っています。日本は80年前、世界のシャローム・平和を大きく壊しました。日本は自分たちの繁栄だけを求めて、アジアに進出・侵略を始めました。自分達だけがこの〇からとび出ようとしました。アジアの国々・人々を侵略し、搾取し、利用し、押し込めることで、自分たちだけが繁栄をしようとしたのです。 繁栄を求める事自体は悪い事ではありません。ただ、誰かを犠牲にして、押し込めてそれをしようとすること、自分だけが繁栄をしようとすること、それは平和を生みません。私たちはアジアに大きな憎しみと侮辱と絶望をもたらしました。 私たちは8月ひと月、主にある平和を知ろうとしています。いままた日本は75年前の反省を忘れようとしています。世界も忘れようとしています。自分たちの国だけ繁栄すればいいと考えるとどうなるか、私たちは知っていたはずです。しかし世界は、日本はまた自国優先主義へと向かおうとしています。平和憲法を持つ日本、戦争への反省を繰り返してきた日本。その私たちは、世界の平和、シャロームを実現の歩みを進める事はできるのでしょうか。経済力のある日本が足を引っ張り合う様な過度な国際競争を止め、世界が等しく発展し、置き去りや犠牲を生まない世界の形成を訴える事ができるでしょうか。武力によって世界を変えようとしないこと。そしてそれに断固反対するという声を挙げることができるでしょうか。 そこに必要なものは、何でしょうか。私たちに必要とされるのは、シャロームの丸の下から世界を見る事です。イエス・キリストの十字架から世界を見る事、十字架から平和を考える事です。そして平和のためにできる事をそれぞれがしてゆくことです。それが神様に求められていくことです。 今日の聖書個所を読みましょう。6章には5000人の給食、パンが配られる奇跡が描かれています。イエス様は食事を大事にされたお方です。イエス様は食べものや着るものは次元が低いもので、精神的な豊かさを優先されたお方だということではありません。それは食べ物がたくさんある、世界のごく一部の人の考え方です。十字架からこの物語を見たいのです。 イエス様は飢える人々の食事の必要に応えるお方です。人は宗教だけでは生きていけません。食べ物と飲み物が必要です。イエス様はそんな人間の胃袋を満腹にしてくださるお方です。がっちり胃袋を抑えるお方です。そしてあまり物までしっかり集めなさいとまで語り、食べ物を大事にするお方です。 しかし、人間のパンへの願い、食べ物への願いはバランスを崩しやすいものです。その食べ物は、恵みのパン、奇跡のパン、感謝のパン、分かち合いのパン、一致を確認するパンでした。それこそまさに完全な丸をイメージする、平和のパンであったはずです。しかし人間はそのパンを自分勝手に理解してしまう時があります。 人々の中には「あの人はパンをくれる」と欲望のまなざしを向ける人がいたのです。彼らはパンをくれる人を探します。探し求めます。探しているのはパンです。恵み・奇跡・感謝・分かち合い、しるし、イエス・キリストを探しているのではありませんでした。ただ自分の欲望を満たすことを求め、自らの繁栄を求め、舟を出し、イエスを探していたのです。そのような自分だけの繁栄や自分だけの欲望を満たすことは平和、シャロームを生み出すことではありません。そのように舟を出す姿は、日本がアジアに侵略戦争として舟を出すのと同じ発想です。 イエス様はこのような独善的な欲望を批判します。27節「朽ちる食べ物のためではなく、永遠の命にいたる食べ物のために働きなさい」と言います。 イエス様は食べ物には、朽ちる食べ物と、永遠の命に至る食べ物があると言います。どちらも同じ食べ物です。しかしそれは追い求め方、あるいは動機、用い方によって、滅びにも、永遠の命にもなるというのです。自らの欲望と繁栄を求めて舟を出すとき、その食べ物は必ず滅びへと向かいます。それは朽ちるものとなります。誰かを犠牲にして、押し込めてそれを得ようとするとき、自分だけ繁栄をしようとするとき、それは絶対に平和を生みません。そのように食べ物を求める時、繁栄を求める時、そこに起こるのは戦争と貧困と格差と差別です。 私は平和を求めつつ、パンを求めてゆきたいと願うのです。それこそがパンではなくイエス・キリストを探すということではないでしょうか。イエス様は私たちに5000人が一緒にパンを食べる奇跡を通じて、神の恵みの大きさを教えてくださいます。欲望が満たされる喜びではなく、みんな神様のめぐみによって生かされていることを教えてくれます。これを食べ、命を大切に生きなさいと教えてくれます。これは神様の恵みです。命と食べ物は自分のものにするだけではなく、天からのものとして分かち合いなさいと教えてくれるのです。私たちが求めるもの、それはそのように恵みと感謝を呼び起こす食べ物です。平和の食べ物です。イエス様は私たちに、このように永遠の命、平和を求めなさいと語るのです。 自分の食べ物を追いかけるのではなく、イエス・キリストの姿を、生き方を追いかけなさい、それが永遠の命に至る道であり、それが平和を作り出すのだというのです。 それが、イエス様の歩み、朽ちない食べ物、永遠に無くならない、平和・シャロームの食べ物、永遠の命にいたるものです。それはイエス様の歩みと生き方を知る事から始まります。イエス様がどのように生きられたのかを知ることから、平和は始まるのです。 平和・シャロームはイエス様が低く、小さくされている場所にいたことを知ることからはじまります。平和はイエス様がこの丸のへこんだ部分の一番下にいたことを、十字架にかかられたことを知るところから始まるのです。 その視点から平和の歩みを起こすことが、永遠の命、朽ちない世界につながってゆくのです。すべての人々が活き活きと輝く世界、それが十字架から始まるのです。 できれば今日私たちは主の晩餐をぜひともしたかったのですが、今日はそうすることができません。しかし私たちそれぞれ、イエス様から今日、永遠に朽ちないパン、私たちの心にいただきましょう。 私たちがパンを頂くのは、自分だけのため、自分の満足のためではありません。そのことをよく吟味して食べたいのです。私たちは世界の平和・シャロームを願ってイエス様のパンを食べ、永遠の命を頂きたいのです。また主の晩餐に預かれること、平和の食べ物を囲むことが出来る事を願っています。お祈りいたします。
2020/07/26
みなさんおはようございます。今日も共に礼拝出来る事、その神様の招きに感謝します。共に集うことができることを嬉しく思います。また今日も子ども達が集ってくれています。私たちは子ども達を大切にする教会です。共に礼拝をしてゆきましょう。...
2020/07/19
みなさん、おはようございます。本日も共に礼拝をできること感謝です。すでにお伝えしたとおり、徐々に通常の礼拝に戻そうとしていた最中ですが、今日からまた礼拝を短縮版に戻すこととなりました。コロナに振り回され、疲れてしまう毎日ですが、そんな時こそ変わらない神様のみ言葉から力をいただいてゆきましょう。今日も子ども達が一緒に礼拝に集ってくれています。平塚バプテスト教会はこどもを大切にする教会です。互いの命を感じながら、礼拝をしましょう。子どもを連れて来たお母さん、おじいちゃんも、自分の子どもの声が気になることがあると思いますが、大丈夫です。一緒に礼拝をしましょう。 先週から3回にわたって、平塚バプテスト教会が70周年を迎えたということについて考えたいと思っています。いろいろ資料を掘り返したり、インタビューをしたりしています。みなさんにも原稿の依頼をしますので、どうぞ言葉を寄せください。資料を見ながら私は70年間、神様の力がこの教会におよび、建てられ続けて来たこと、その栄光の歴史を探していました。年表を見て、どのような恵みがあったのかを70年間という視点で振り返っていました。たとえば70年間で10個教会のトピックを挙げるとしたら、創立、宣教師、幼稚園、土地問題、小田原伝道所、梶井牧師招聘(バプテスト)、礼拝堂工事、信仰告白作成、こひつじ館建設、コロナのことになると思います。 しかし振り返ると70年間、いい事、栄光ばかりではなかった、いろいろな苦労があったことを知ります。特に私が注目しているのは、幼稚園と小田原伝道所についてです。記録からはそうは書いていなくても、そこから痛みを感じとります。 先日お二人の方に幼稚園閉鎖の歴史についてヒアリングをしました。幼稚園閉鎖、それは残念な出来事でした。当時の執事会の記録によりますと、1978年12月31日に初代牧師・長尾三二先生が天に召されました。その後2月に川上牧師が着任されます。しかし、4月からの附属紫苑幼稚園の運営を誰がどのように担っていくのかで混乱が起きています。英才教育の教育方針を引き継いで主任、長尾牧師のご親族に委ねていくのか、それとも新しい人に依頼してゆくのか。その対立は新入園児の保護者を巻き込んで深まってゆきます。そして結局、幼稚園の先生全員が退職をしてゆくことになります。その分断は、教会にも及びました。長尾先生のご家族が平塚バプテスト教会を去ることになってしまったのです。何とか幼稚園は続きましたが、結局8年後に休園、さらに2年後閉園となりました。平塚教会にはそのような歴史があります。 当時対立したお互いが、守ろうとしたものは何だったのでしょうか。そこで教会が示されたことは何だったのでしょうか。当時そこにいない私は、断片的な報告から想像するしかありません。しかし、確かに教会を去る人がおり、幼稚園は閉園してしまいました。痛みが残り、その痛みの癒しは終わったわけではありません。 教会は幼稚園を通じて、この地域に福音を伝えて行こうとしました。あるいは地域の子どもたちの成長を願いました。そのスピリッツは素晴らしいと思いますし、こひつじ館、子どもを大切にするという形で今も受けつがれていると思います。しかし思う様にはいかなかったのです。記憶・記録からは、大きな課題を前に教会は無力で、分裂の危機の前に教会は無力だったようにさえ感じます。礼拝出席者数も目に見えて減少したでしょう。 教会が幼稚園に関わる問題で混乱することは、決して珍しい事ではありません。平塚教会はこの事の前に無力で、分裂し、教会が閉じてしまう可能性も十分にあったでしょう。しかし教会は続きました。その後も確かに礼拝が続き、教会は続いたのです。 このような状況でも教会が続いたこと、そこには不思議な力が働いたと言えると思います。教会が死んでしまうかもしれない時、神様の息吹が降り注ぎ、教会は残りました。そこにはもちろん牧師や先輩者の頑張りがありました。「人の言葉に惑わされない」という堅い意志、一致しようという思いがありました。しかし何よりも、神様がこの教会に命を与えるという決断をされたからこそ、この教会は続きました。この教会を残すと神様が決断されたのです。すべての人が、神様の言葉を聞くために、神の子イエス・キリストを信じるために、神様はこの教会を建て続けることを選ばれたのです。 教会の70年の歴史、そこには確かに「無力さ」がしっかりと刻まれています。そして同時に、そこに確かに神が働き続けたことも刻まれています。栄光ばかりではない平塚バプテスト教会、でもそこに神様の力が注ぎました。私はその在り方が好きです。「弱い時こそ強い」それを体現している存在として、この教会は立ち続けているのだと思います。   さて今日の聖書の個所を見てゆきましょう。今日の個所はベトサダの池の話の直後の個所です。イエス様は38年間立ち上がることのできない、立ち上がる力のない人を癒したのです。その力強さに皆が驚きました。しかし、イエス様ははっきりと言います。今日の個所の、19節後半です。「自分からは何事もできない」と「自分には力がない、能力が無い」ということを語ります。自分は無力だというのです。 しかしイエス様は、その無力の中に神様が働き、神様の業が起こっていると話します。20節に、神様はイエスさまを愛して、自分の力をイエス様に与え、それを示すとあるとおりです。神様は力の無い場所を愛するお方です。神様は弱いもの、無力な者を愛し、力が注がれるお方です。それによって大きな業が地上に起こる。私たちにとって驚くような出来事が起こるのです。 21節、それはまるで、死者に命が与えられるような出来事です。もう終わった、ばらばらになってしまったと思っていたものが、もう一度息を吹き返す出来事です。神様からの命を受けて、もう一度一つのものとして働きを始める、起き上がる出来事です。 そのような出来事が、イエス様が選んだ場所に起こります。それは23節、すべての人が父を敬い、子を敬うために起こります。この地上の誰かのためではなく、すべての人のためです。全ての人が神様とイエスを敬うようなるためです。敬うとは、評価するという意味です。その本当の価値を知り、大切なものであるということ、従う価値のあるものであると知ることです。その本当の価値を知らせるために神様の業が起こるのです。 24節、私の言葉を聞いてとあります。神様の言葉を聞く、それは無力の中で神様の言葉を聞くということです。無力の中で神様の言葉を聞くその時、命が輝き出すのです。死んでしまったよう見えた場所に、命が湧きおこるのです。無力さは断罪され、切り捨てられ、強い者が生き残るのではありません。弱い者、無力な者こそ、神様の言葉を聞き、命が湧き起こされるのです。 そこでは25節、死んでしまった様に見える人、その無力さの中に神の声が響き渡るという出来事、その時が来る、その時は来ます。それは今がその時です。弱い私たちがその言葉を聞く時、私たちは生きるようになる、私たちの無力の中に神様の力が今、与えられるのです。それは今起こることです。 28・29節、驚いてはならないとありますが、私たちはそれに驚くでしょう。死んでしまった心に、終わってしまったと思う場所に、無力さの中に、神様の声が響きます。その時は善い行いをした人も悪い行いをした人も等しく、神様の力をいただくのです。そしてもう一度、そこから出てくる、新しくスタートができるのです。 30節もう一度イエス様は繰り返しています。「わたしは自分では何もできない」と。イエス様ですら、自分では何もできない、神の力が働いて、御心が実現されるのだと言います。私たちも、もちろん同じはずです。私たちは無力です。でもそこに神の力が働くのです。私たちが70年間頑張ったのではありません。神様が70年間、無力な私たちに力を与えてくれたのです。それが私たちの歴史です。 31節イエス様は自分を証し、賞賛することはしません。イエス様は自分の歴史を賞賛することはしないのです。36節、人はさまざまな評価をするでしょう。証言をするでしょう。しかし無力なイエス様に力が与えられ、成し遂げられたこと、そのものが一番の証しだとおっしゃいます。 今日の個所、神様の力、それは「わたしは自分では何もできない」という無力なイエス様に働くということをみてきました。私たちも同じでしょう。 私たち自身では何もできないかもしれません。現実に、コロナに振り回されるばかりです。でもそこに神様が働くのです。私たちは70年間を賞賛したい思いがあります。でも強い時ばかりではありません。教会の歴史には傷があり、無力さがあります。でも、それでも私たちの教会が70年間立ち続けた事、今も立ち続けている事、それこそがイエス様が行っている業そのものです。この教会が今日もここに存在することこそが、イエス様の力を証ししているのではないでしょうか。 平塚バプテスト教会は70周年を迎えました。この教会をもっと大きく、もっと力強い、もっと影響力のある教会に成長させてゆきましょうとは言いません。これからも私たちは、70年間そうであったように、無力な群れでありましょう。現実に振り回される、無力な人間の集まりでありましょう。そしてそこにこそ神様の力を求めてゆきましょう。 私たちは世に派遣されます。そしてそうする度に躓いて、右往左往して、分断の危機に悩むかもしれません。でも、それでも歩む教会でいましょう。それでいいのです。その中でこそ、そのような弱い中、無力さを覚える時にこそ、何よりも確かで、真実な神様が豊かに働くのではないでしょうか。この教会の70年間はそのような歩みだったのではないでしょうか。 そして私たち一人ひとりの歩みも、そのような歩みだったのではないでしょうか。これからもそのような歩みであるのではないでしょうか。お祈りいたします。
2020/07/12
皆さんおはようございます。今日も共に礼拝をできる事、うれしく思います。子ども達も集ってくれています。平塚バプテスト教会は子どもを大切にする教会です。共に礼拝をしてゆきましょう。先週までは礼拝について12回シリーズで宣教をしてきました。その実りに感謝です。予定では、6月子ども何回か創立記念、70周年について考える計画でしたが、コロナで集う事ができない中で、やはり礼拝の大事さを一層覚えるというで、礼拝をテーマとして宣教を続けてゆく事としました。少し時期は遅れますが、今日より改めて私たちの教会が70年を迎えたという事について、3回に分けて考えてゆきたいのです。 70周年という事で、教会の資料保存をしっかりしようと、整理をしています。その中で、古い執事会の記録や証し集なども目を通しています。資料を読むと、70年間で何回もこの教会にはピンチの時があったという事を知りました。冷や汗をかきながら記録を読みました。その度にかしい選択が迫られ、今の教会がある事を知りました。もちろんコロナのこともその歴史の一つに加えられると思います。 この教会が様々に形、あり方を変えてきた事も知りました。それと同時に教会がこれまでの70年間、変わらずに続けてきた事は何だったのかも考えさせられました。何が語られ続けてきたのかという事を考えています。 変わらず語られ続けている事、その一つは平和という事が言えると思います。教会は70年間平和を語り続けていました。初代の長尾先生は戦時中に戦争に反対し、逮捕された96人の牧師の一人でした。二代目の川上先生もシベリア抑留の話を良くされたと聞きます。続く牧師たちも平和について語っています。それぞれの牧師が、この教会の業、宣教の時に、平和を語り続けていました。私もそうでありたいのです。 私たちは6月14日で創立70周年を迎えましたが、同時に今週の7月16日は、75年前、平塚大空襲が起きた日であった事も覚えます。私たちの街に焼夷弾の雨が降った、空爆が行われた、その日から75年でもあります。創立と平和を祈念する時です。 私は敗戦記念日や広島・長崎に原爆が落とされた事と同じ様に、この記憶を大事にしたいと思っています。私たちの住んでいた町が戦場となり、目の前に爆弾が落ちた事を忘れないでいたいのです。 礼拝で平和を宣べ伝える、それは牧師個人の願いを超えるものです。神様が私たちに平和のためのみ言葉を与え続けて下さったのです。70年間神様は、平和を実現するために、み言葉によって、私たちを勇気づけ、私たちに語り続けて下さったのです。神様は、私たちが平和を作り出す者となるために、私たちに語り掛け、勇気を与え続けて下さっていたのです。 教会が立ち続ける事、この教会が平和を語り続けた事、それは何より神様の働きです。もちろん先人たちの大きな働きもありますが、それを超える、それに先立つ神の働きがあった70年間だったのです。 教会は平和を語ってきました。しかし一方、私たち人間の決意、平和への決意とは弱いという事も知らされています。75年前の空襲の夜、どれほど強く平和を願った夜だったでしょうか。敗戦後それは憲法9条という形で、戦争をしない誓いが建てられました。しかし今、その憲法9条を、より戦争に近づくように変えようという人物が総理大臣になっています。日本は再び軍備拡張の道を歩みだし、アメリカ軍から言われるままに兵器を買い、アメリカ軍と一体化し、平和から遠ざかろうとしています。軍事力への誘惑は非常に強い力です。また教会の内側も70年間平和だったとは言い難いものでした。分裂や閉鎖の危機さえもありました。 このような中で、私たちが平和を求め続けてゆくには、神様から励ましが必要です。平和は、私たちが戦後に選ぶ以前に、神様が戦わない、殺し合わない選択へと導いておられました。私たちは神様に平和へと導かれ、神様から励ましをもらい、平和を実現してゆく者として立たされるのです。神様は70年間、そのようにして平和を私たちに語り続け、その実現のために勇気と励ましをくださったのです。 だからこそ本当の平和、それは神様を信頼する時に起こるのだと思います。私たちに平和が起こるのは、命の造り主が神様であると、知った時です。その命が何よりも大事であると知る時、私たちは戦争を止めて争いを止めて、平和を選び取る事ができるのです。 もちろん神様を信じて平和のために働く、その中には様々な苦労があります。平和のために苦難を味わいながら歩む。しかし苦しみがあったとしても、平和は必ず実現します。それが神様の約束だからです。 一人一人に神様が働きかけ、強い平和への願い、行動を与えて下さいます。平和、それは戦争の無い平和だけに限りません。暴力の無い平和、差別の無い平和、格差の無い平和、命に優劣のつかない平和。その平和を神様からの励ましをいただき、私たちは70年間求めました、そしてこれからも求めてゆくのです。   さて、本日の聖書に目を向けましょう。今日の個所はイエス様が13章から続く、最後の晩餐の席でずっと教えを語られてきた、最後の部分です。その教えの最後が今日の部分です。イエス様は33節最後の最後にこう言います「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。」 イエス様のここまでの長い話、それは平和のためだったというのです。イエス様は平和、シャロームを伝えたお方です。聖書の平和、それは戦争が無い事だけに限りません。差別の無い平和、格差の無い平和、命に優劣のつかない平和。その平和のために神様の元にいなさいという事が13章からずっと書かれているのです。 25節には「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る」とあります。そのイエス様はもうそれを言葉やたとえによって伝えるのを終えると言います。これからをもっとはっきりした形で知らせるというのです。 はっきりと知らせるとは、十字架によって知らせるという事です。イエス様は十字架の出来事によって、歴史に残る形によって私たちに福音を知らせようとしています。イエス様は言葉だけではなく、十字架によって、私たちに平和を告げ知らせようとしているのです。 ここで弟子たちは30節「今、分かった」「私は信じます」というのです。しかし、この後の弟子たちはどうでしょうか。イエス様が捕らわれようとする時に、どうしたでしょうか。剣を抜いて、立ち向かおうとします。そしてイエス様を見捨てて、散り散りに逃げて行きました。さらにイエス様を三度知らないと言うのです。「わかりました」「信じます」と言ったすぐ後に、簡単に暴力に訴え、簡単に裏切ってしまうのです。 弟子たちのあの「分かりました」という決心はどこに行ったのでしょうか。剣を振り回し、逃げる弟子たちのその姿は、虚しく、平和をすぐに諦めてしまう、弱い者たちの姿です。平和を求めるけれども、苦難に会うと、すぐに挫折する者たちです。私たちの決意とは、私たちの教会もまた、そのような弱さを持ちます。平和への決意、信じると告白する信仰の決意は、それほどまでにもろく、弱いものなのです。 だからこそ私たちには神様の力が必要です。私たちの決意に先立つ恵みと導き、神様からの励ましと勇気が必要です。イエス様は言葉だけではなく、十字架によって、私たちにその力を、平和を実現するための力をお与えになるのです。 十字架とは神様と等しいイエス様が、もっとも平和から遠い、もっとも悲惨な場所に身を置かれ、それを味わったという出来事です。私たちはそれを見ます。そしてもう二度と誰も十字架にかけてはいけない、誰も剣を持たない、誰も見棄てない、困難から逃げない、その力を私たちはいただくのです。その十字架から私たちは力をいただき、平和を願い求め続ける者となるのです。決意に先立つ恵み、勇気、励ましを頂くのです。 平和を願い求める時、32節後半です。イエス様は「父が共にいて下さる」と、確信を持って進んでゆかれます。そしてまるで自分にも言い聞かせるように、苦難があっても、勇気を出しなさい。神が既に世に勝っていて、共にいて、必ず平和を実現して下さると言います。神様がその力を私たちに、平和を実現する力を私たちにお与えになるのです。 平塚バプテスト教会は70周年を迎えました。私たちの教会は、この教会を建て続けるという決心を何度も打ちのめされそうになりながらも、神様によって建てられ続けていました。そして平和を語り続けてきました。それができたのは、ひとりひとりのがんばりに先立つ、十字架のイエス様がいたからです。私たちは十字架のイエス様から、励ましと勇気をいただく事で70年間を歩んだのです。それは平和の尊さと、平和の難しさを知りながらの歩みです。この70年間を主に感謝しましょう。神様の励ましと勇気によって、十字架の励ましと勇気によって、私たちは立たされ平和を語り続けてきたのです。 これからも神様は共にいて下さいます。私たちは平和を求め続け、み言葉に聞き続けましょう。神様からの勇気を求め続けましょう。お祈りします。
2020/07/05
みなさんおはようございます。今日から7月の礼拝、一緒に賛美できるのはいいですね。「礼拝は歌う」です。私たちは、一度は中止していた賛美を再開することを選びました。歌うのはストレス発散になり、気持ちいいものです。でも私たちはこの歌を互いの声を聞きながら、互いの命を感じながら、そしてなにより神様にむけて、賛美をしています。その恵みに感謝です。今日からまた教会が、一歩通常に戻ります。礼拝以外のことも、もう少し時間をかけて戻してゆきたいと思います。私個人としては早く皆さんと食事をしたいという願いを持っています。 こどもたちも集まってくれました。平塚バプテスト教会は子ども達を大切にする教会です。子ども達の存在も感じながら、礼拝をしてゆきましょう。そして今日で12回シリーズの「礼拝は〇〇」というテーマの宣教は最終回です。 今日皆さんと一緒に賛美するのは4か月ぶりですが、主の晩餐をするのは2月の礼拝が最後ですから、実に5か月ぶりとなります。コロナの期間、それぞれの自宅で礼拝を守るとした平塚教会では、主の晩餐を一時中断していました。その期間パンとぶどう酒のカードを送ってみたりもしました。後から他の教会に聞いてみますと、主の晩餐をインターネットでする教会もあったそうです。リモート主の晩餐でしょうか。方法は様々で、それぞれがパンとぶどうジュースを買ってきて画面の前で食べたり、教会で行われる主の晩餐の様子を配信したりしたそうです。 もとより主の晩餐の在り方はというのは驚くほど多様です。同じキリスト教でもカトリックは毎週行い、これを礼拝の中心としています。プロテスタントは月に一度という教会が多いですが、月に一度という明確な理由はありません。毎週では恵みを忘れてしまうので、月に1回としています。それでも多いので年に数回とする教会もあるそうです。またバプテストの教会なかでも多様です。主の晩餐の時は牧師がガウンを着る教会もあります。あるいはオープン、クローズという違いもあります。どのような頻度や方法で行っていくかは、主の晩餐とは何かという理解の違いともいえるのでしょう。 私たちも70年間この主の晩餐を繰り返してきましたが、初めてできない期間に直面しました。皆さんは主の晩餐ができないことへのもどかしさや、喪失感はどれほどあったでしょうか。実は私はあまり感じないのです。どうしても早く皆さんと主の晩餐をしたいとは、残念ながら感じなかったのです。礼拝をしたい、会いたい、賛美したい、食事したいとは思いました。でも、主の晩餐をしたくてたまらない。そういう気持ちには不思議とならなかったのです。私が不信仰で無理解なところもあるでしょう。しかしそれが正直なところです。私は、いえもしかしたら教会も、主の晩餐を不要不急としてきたかもしれない。本当は礼拝に欠かせない要素である主の晩餐を、無意識に繰り返していたかもしれない、私はそのような自分の気持ちに気づかされました。今日もう一度、この主の晩餐のパンとぶどう酒を頂く前に、一体何がここでされているのかを確認しておきたいのです。 私たちは主の晩餐、一体ここで何をしているのでしょうか。先ほどもお伝えした通り、主の晩餐の理解には大きな幅があります。見てわかる部分だけでも、パンは種無しパンか、食パンか。来会者にオープンかクローズか。ぶどう酒はジュースか、ワインか。目の前でパンをちぎるのか、あらかじめ切れているのか。様々な違いがあります。私自身はバプテスマを受けていない方や子ども、すべての人がパンを受けてよい、そして毎週したいと考える、いわゆるオープンな立場です。このように教会の中でも理解は違います。もちろんこれは私個人の理解でするものではなく、教会の業です。平塚バプテスト教会では、これに預かるのは洗礼・バプテスマを受けた方にクローズしています。そして限定するだけではなく、どの教派に属していても参加できるとオープンにしています。 あまりに多様である主の晩餐。でも久しぶりの主の晩餐を、今日、ともに考えたいのです。 まず初代教会がどのように主の晩餐を持ったのかを見てゆきましょう。初代教会では主の晩餐は、今でいうところの愛餐会・食事会でした。礼拝の奉献の時に持ち寄ったもので食事をしていたのです。それが主の晩餐の原型です。最初はとにかく全員でとる賑やかな食事だったのです。 どうして礼拝で食事をしたのでしょうか。それはイエス様との食事を元にしています。聖書にはイエス様がいろいろな人と食事をした場面が出てきます。関わらない方がいいと言われる罪人や外国人と食事をします。関わるにはふさわしくない、神の恵みにはふさわしくないとされた者と、その垣根を超えて、分け隔てのない食事すること、それがイエス様の運動だったのです。一緒にご飯を食べるのが、イエス様の愛の運動だったのです。そのことを初代教会は忘れずに、みんなで賑やかに食事をしていました。 聖書には様々なイエス様の食事を描いています。主の晩餐は大きく分けて4つの食事のモチーフがあります。罪人との食事、最後の晩餐、復活後の食事、奇跡の食事です。礼拝の中に食べるということがあるのは、これらの4つの豊かな意味を含みます。だからこそ多様なのです。イエス様としたさまざまな食事にルーツを持つ礼典、それが主の晩餐なのです。 食事の記憶、それは私たちの記憶にしっかりと焼き付くものです。南小会室で一緒に食べた食事、なんと懐かしいことでしょうか。私は正直に申しますと、主の晩餐の喪失感よりも、礼拝後の食事が無いことの喪失感が私にとっては大きいのです。そう、きっと私たちが一緒にしていたあの教会のお昼ご飯は、イエス様との食事、主の晩餐だったのではないでしょうか。礼拝の中の主の晩餐にもきっとそんな恵みが隠されているのです。 今日の聖書の個所から、その恵みを見てゆきましょう。 当時コリント教会でも礼拝で主の晩餐、食事が行われていました。しかし、そのコリント教会の主の晩餐に対してパウロが「それでは主の晩餐にならない」と手紙を送っています。一体何が起きていたのでしょうか。 キリスト教は当初、貧しい人々に伝わっていきました。だから礼拝の食事とは本当に食べ物の分かち合いだったのです。みんなで食事をとっていたのです。しかし徐々にお金持ちも共同体に加わるようになります。その人たちはなんと先に食事を始めてしまうのです。そして例えば働いてから礼拝に集ってきた、遅れて来た貧しい人がいたとします。彼らは空腹です。しかしその時すでに、食べ終わっている人がいて、満腹し、酔っている人がいたのです。 貧しい信徒はどうしたでしょうか。金持ちの食べ散らかした、そのあまりものを食べていたのです。パウロがわざわざ手紙で怒っているのはそんな主の晩餐の在り方です。そんなんじゃ主の晩餐にならないというのです。これこそ18節にある仲間割れです。パウロは金持ちのそういう食事は家でしろと言います。22節「あなた方に家があるでしょう」のこの家は複数形です。家々をたくさん持っているにもかかわらず、分かち合わずに、先に食べる人たちに、家で食べろと言うのです。 少し先の28節にある「誰でも自分を良く確かめなさい」とはこのことです。確かめるのは、自分だけ良ければいいや、食べてない人がいるかどうかなんて関係ない、えい自分が全部食べちゃえ。そういうことが無いかをよく確かめながら、主の晩餐をしなさいと言うのです。 ですから主の晩餐は1か月の個人的に罪を犯してないか、ふさわしいか確認して食べる、自己吟味をして食べるという意味だけにはとどまりまりません。食べれない人が周りにいないか、まだ食べてない人がいないか、ちゃんと確認して食べようということです。一緒に食べようということです。 ここで求められるのは自己吟味だけではありません。いわば共同体吟味です。私たちがその食事を分かち合う群れになっているか、共同体を点検する、吟味する、そのことがこの食事では求められているのです。互いに仲間割れが起きていないか、配慮しあう、祈りあうことができる共同体か、そのことが吟味される食事なのです。主の晩餐、それはイエス様との食事です。イエス様が私を食事に誘ってくださる恵みです。イエス様との濃厚接触です。イエス様とのいろいろな食事を、それぞれ思い出しながら、記念しながら、食べてゆくのものなのです。 共同体を吟味する。もちろんそれは礼拝共同体の吟味です。礼拝する共同体になれているかどうかの吟味です。そしてその吟味をするとき、それは教会の内側だけに留まらないでしょう。私たちの人間の共同体で、この地域や世界で仲間割れが起きていないかを点検し、吟味することに広がるでしょう。それが毎回の主の晩餐で行われることです。 私たちはこの主の晩餐を礼拝の中で70年間続けてきました。礼拝の中でイエス様とのさまざまな食事を思い出し続けていました。今日もイエス様とのあの食事、それぞれに思いだしながら食べましょう。そしてこれはみんなで一緒にする食事です。私たちの仲間のことも、世界のことも思い出しながら食べましょう。それは礼拝の中で欠かせないものであるはずです。 さて、私たちは礼拝について、3か月ほど共に考え続けてきました。どのような事をお感じになったでしょうか。礼拝は一番大事、礼拝は順序が大事、礼拝は招き、礼拝は共同体作り、礼拝は歌う、礼拝はこども歓迎、礼拝は平和の集い、礼拝はみ言葉が中心、礼拝は献身、礼拝は派遣、礼拝は続く、そして礼拝は一緒の食事です。 礼拝とはなんと豊かなものでしょうか。そして礼拝とは何と多様なものでしょうか。私たちは礼拝の何を忘れ、何を思い出したでしょうか。何を守り、何を変えてゆくのでしょうか。これから共に考えてゆけたらと思います。学ぶだけで終わりではなく、日々の新しい礼拝につなげてゆきましょう。 皆さんの中でもお一人ひとりの中でもこの礼拝を思いめぐらせて続けてください。お祈りします。
2020/06/28
 みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること、うれしく思います。共に精いっぱいの礼拝を捧げてゆきましょう。こどもたちも集ってくれました。新しい子ども室の評判はいろいろです。2週間ほど前にお配りした、執事会の記録に詳しく経緯を載せていますのでどうぞご確認ください。子どもとの礼拝を別にしてしまうのは簡単なのですが、お互いの存在を感じながら礼拝をすることを大事にしたいと願い、この場所で礼拝をしています。みなさんもだいだいいつも同じ席に座る居場所があるように、子ども達にも居場所となればと願っています。 さて、先週は礼拝は派遣というテーマで宣教をしました。礼拝は招きで始まり、派遣で終わる。そして派遣される私たちと共に、イエス様がいて下さり、私たちは弟子として歩むのだということを考えました。今日は礼拝から派遣された私たちが、その後をどのように歩むのかということについて考えたいと思います。私たちは礼拝というテーマに集中して考えてきましたが、それはともすると教会の中ばかりの、内向きのテーマでした。私たちが礼拝から派遣される場所、そのことに目を向けてゆくことも大事なことです。今日は派遣された後、礼拝はそれぞれの生活の中で続いていくのだという事を考えたいのです。  私たちは礼拝に招かれて礼拝に集いました。そして神様の恵みとみ言葉を頂き、共に生きる他者とあいさつし、歌い、お互いの存在を知る、そのような礼拝体験をします。そして礼拝の最後には派遣の時が持たれ、6日間それぞれの場所へと派遣されます。また7日後に再び招かれるまで、それぞれの場所を一生懸命に生きるのです。イエス様の弟子として歩むのです。  しかし私たちの生きる、私たちの派遣される世は厳しい現実の中にあります。私たちはシャロームとは遠い、破れと歪みに満ちた世界に派遣されるのです。今、最も大きなゆがみとして世界に突きつけられているのは、人種差別でしょう。特にアメリカでは黒人への差別の問題が根深く残っています。5月25日にジョージ・フロイドさんが、警察官に取り押さえられ窒息死した、それをとらえた映像は目に焼き付いています。  人種差別、日本ではあまりない。そうとっさに考えてしま私たちは間違えています。それは世界の裏側の出来事ではなく、私たちの身近な出来事です。私たちのすぐそばに、目の前に外国人差別・偏見が多くあるのです。  ここに『クラスメイトは外国人「課題篇」』という本があります。学校でも使われることがあるそうです。絵はみなみななみさん、クリスチャンの方が書いています。この本の中の第5章「外国人のこどもの貧困」の舞台は平塚市の子ども食堂です。外国人の親を持つ子供たちの困窮と、それに対する偏見・差別が描かれています。  こんなストーリーです。あるきょうだいが、登場人物・園子さんの始めた子ども食堂を訪ねてきました。そしてこのきょうだいに虫歯がたくさんあることに気付いたのです。よく聞くと、シングルマザーの母親が生活に困窮し、夜に仕事をしており、子ども達の歯を磨いてあげる事、歯ブラシを買ってあげる事が出来ないというのです。他の人々は、母親のだらしなさを指摘します。あるいは養育できないのに子供を産んだ自己責任、行政の支援を使わない自己責任を問います。嫌なら自分の国に帰れば良いのではないか。あるいは外国人だから仕方がない、ちゃんとやっている外国人もいる、だから自己責任だと繰り返します。まるで安倍政権みたいな意見です。  私たちは同じ町に住んでいる住民なのに、「外国人だからしょうがない」そう考えてしまうのです。平塚に住む人の貧困の問題は、平塚に住む私たちの問題なのに、私たちはつい「外国人だからしょうがない」そう、差別のまなざしで見てしまうのです。  コロナで分断された社会で、いままで差別が無いように見えてきたかもしれません。しかし、なにか問題が起こると、すぐに差別は頭を出してきます。日本は中国人を差別し、世界はアジア人を差別するのです。人種やルーツを超えて、世界が連帯し一つになること、格差が無くなることを切に望む期間だったはずなのに、人々の差別と偏見が表面化する期間となってしまいました。  私たちはどのように共に生きるかを考える群れです。子どもと、あらゆるルーツを持った人と、どうしたら一緒に生きて行けるか、一緒に礼拝をできて行けるかを考える群れです。私たちに何かできることはあるでしょうか。私たちも、こども食堂を始める準備をしていますが、それは世界が共に生きるということの助けになるでしょうか。私たちも子ども食堂を通じてこのような課題に巡りあうようになるのでしょうか。私たちはこのような歪んだ世界に派遣される者たちです。そして教会そのものもこの世に派遣されているものです。私たちは世に派遣された教会から、さらに世へと派遣されるのです。  このような現実世界の中で、イエス様の弟子であり続けることは難しいことです。自分のためだけではなく、他者のため、神様のために生きようとすることは難しいことです。私たちのどんな決意も、打ち砕かれてしまうのです。私たちにはそれに向かってゆくためにはありあまるほどの力が必要です。必要なのは一方的な恵みの力です。使っても使っても使いきれない程の恵みが無ければ、弟子として歩むことはできません。だからこそ今日の礼拝、今日の教会でその恵みをはっきりと受け取って派遣されたいのです。祝福の宣言を受けてこの世へと派遣されてゆくのです。  そして教会自体も世へと派遣されたものと言えるでしょう。世界には、聖なる教会と罪深い世があるのではありません。教会もこの場所へと派遣されているものなのです。この地域に神の国をもたらす、平和と平等をもたらす共同体として、教会が建てられているのです。私たちはそのように、この地域の福音として、立つ役割を持っているのです。 礼拝から派遣されていく私たち。礼拝は一度は終わります。しかし、弟子としての歩みは続きます。礼拝は日曜日に終わるけれども、派遣は続きます。皆さんは6日間、教会から、礼拝の中から、派遣され続けるのです。その意味で礼拝は続いていくのです。礼拝の延長線上に私たちの弟子の歩みがあるのです。    さて今日の聖書個所を見てゆきましょう。15節「わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。」とあります。イエス様が願っておられること、それは私たちが世から隔絶されることでありません。仏教には出家という文化があります。世と隔絶する生き方です。しかし私たちは出家するのではありません。私も出家しているのではありません。私たちは世にあって礼拝をするのです。戸を閉め切って礼拝するのではありません。イエス様が神様に願うのは、汚れたこの世界からの隔絶ではなく、この世界のただなかに生きることです。そしてその中にあって、悪い者から私たちを守ってくれるように祈るのです。いろいろな問題に会わないようにではなく、問題に会っても守られるように、イエス様は祈るのです。  18節、神様はこの地上に、イエス様を人として派遣されました。そして礼拝の最後、今度は私たちがイエス様に派遣される番なのです。19節イエス様が御自分の人生を神様に献げた様に、私たちも神様に人生を献げて行く生き方が求められ、派遣されるのです。7日に一回、礼拝の恵みを頂いて、あふれる恵みをいただいて6日間、それぞれの場所へと派遣されるのです。  イエス様は私たちの役割も祈っています。21節、すべての人をひとつにするという役割です。私たちが派遣されるそれぞれの場所には必ず分断があります。差別や偏見や衝突があります。その分断に和解をもたらし、平和をもたらし、一つにするようにと、私たちは派遣されるのです。それが私たちの役割、使命です。平和を作るのが使命です。 22節でもそのことは言われます。私たちがひとつであるように、彼らも一つになるようにというのは、イエス様と神様が一つであるように、私たちも堅い結びつきで一つになることができるようにという祈りです。分断が決してほどけない強い関係に、ひとつになるために、私たちは世へと派遣をされてゆくのです。  そして21節後半です。「そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります」とあります。私たちが分断を一つにしてゆこうとするとき、平和を作りだそうとする時、必ず私たちを通じて神様を知るようになる人が起こされるということです。イエス様が伝わるのは、分断が一つになった所です。分断をひとつにしようとする姿によって、人々はイエス様を知るようになるのです。  私たちが礼拝から、神様から派遣されていることを知った時、相手に、神様がイエス様を地上に派遣されたことが伝わるようになります。神様を知るようになる。それが伝道・福音宣教になるのです。  このようにして、私たちは派遣されます。祈られて、使命を持たされて、分断へと派遣されます。イエス様の願いは、私たちの派遣された先ある、すべての分断が和解し一つになる事です。すべてが完全に一つになる事です。分断のない連帯をする、差別の無い、助け合う社会・関係になっていくことがイエス様の願いです。そして遣わされた私たちが他者を愛することによって、神様がイエス様を愛したこと、神様が分け隔てなく人々を愛することが伝わるのです。  礼拝は祝祷と派遣で終わります。でも「はい礼拝終了」とはなりません。派遣は続いてゆくものです。私たちの歩みのなかで、その派遣は続いてゆくものなのです。礼拝とこの世の二つがあるのではありません。世にあって、礼拝を続けている、それが私たちなのです。私たちの1週間、神様を礼拝をしながら歩みましょう。奉献の後、祝祷・派遣の時を持ちます。お祈りします。
2020/06/21
みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝をできることを感謝です。そして子どもたちも集まってくれました。私たちはこどもを大切にする教会です。今日子どもたちは三密を避けて、北小会議室で一緒に礼拝をすることにしてみました。以前より親子室が狭いという課題がありました。新しい親子室として、とりあえず使ってみますのでよろしくお願いいたします。 ここ以外にもいろいろな場所を候補として挙げました。こひつじ館や教育館が子どもたちの居場所としては最適でしょう。しかし、私たちが子どもたちを大事にするなら、ぜひ一緒に礼拝をしたいと思っています。それによってお互いにとって多少、居づらさが生まれるはずです。でもそれが教会にとって大事な事です。いま礼拝について学んでいるのは、礼拝で大事なのは神様を感じるだけではなく、お互いのことも感じる時も大事だ、そう学んでいます。神様に向かい合いつつ、お互いの存在が感じることができる選択として、上下左右の表現としてこの場所を親子室としてみました。 もちろん試行錯誤の最中です。でもそれは大人の交わりにおいても同じです。こうすればいいという方法があるわけではないのと同じです。保護者の方、みなさんとも相談しながら、どうしてゆくべきかを試し、考えてゆきたいと思っています。どうぞご意見があれば、私まで届けてください。 さて私たちは礼拝をテーマに宣教をしています。12回のうち、今日は10回目です。今日私たちは、宣教・献金の後にある祝祷について考えたいと思います。私たちの教会では次の様に祝祷がされています。「私達を礼拝に呼び集められた神様。あなたは今、私達をそれぞれの場所へと派遣されます。私達は主なる神を愛し、隣人を愛しましょう。主なる神に仕え、隣人に仕えましょう。主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、派遣される私たちと共に、また小さくされた者と共に、全世界のあらゆる命と共に、豊かにありますように。アーメン」と祝祷がされています。これは第二コリント13:13をベースに、私が考えて使っているものです。他にも聖書の多くの書簡が祝祷で終わっていると言えます。どうぞ探してみてください。 祝祷を私がするといのは当然の事ではありません。教会では古くから按手礼を受けなければ主の晩餐、そして祝祷が出来ないという伝統がありました。今でも、牧師がいない場合は祝祷を省いたり、祝祷を終祷、終わりの祈りと表記を変えることがまだあります。按手礼問題ともかかわっています。祝祷というもの、改めて考えてみると、実はいろいろな疑問が湧いてくる、広がりのある事柄なのです。 祝祷といえば、牧師が手を挙げて祈る。昔風に言うと「願わくは集わしめられた一人びとりとともにとこしなえにあらんことを」と言われていた。あのポーズは一体何の意味があるのでしょうか。私は手を挙げません。手を挙げる理由が分からないのです。もちろん手を挙げる先生がほとんどですが、挙げ方にも色々なスタイルがあるようです。私の分析では片手派、両手派があります。片手派はだいたい同じ。斜め前に手を挙げます。おそらくその起源はローマ帝国時代の宣誓の習慣にあります。両手派もいます。こちらの起源はおそらくルカ24:50にあるのではないかと考えています。イエス様が手を挙げて祝福しているこの手が複数形なのです。イエスが両手を挙げて祝福したことが、この動作の起源かもしれません。 これらの事を調べると私は手を挙げなければならない理由は無いと現時点では思います。むしろ私が心配しているのは、この祝祷が何か誤解を生んでいないかということです。 祝祷は牧師がイエス様に成り代わって、皆さんに恵み・祝福を与えているのではありません。何かありがたいパワーが牧師の手からレーザービームの様に発射されているわけではありません。これを受けるとご利益があるというものではありません。 ではこの祝祷、いったい何がされているのでしょうか。祝祷の中でされていることは大きく分けて二つです。ひとつは祝福の宣言、もうひとつは派遣です。この祝祷は第一に神様の祝福を宣言するものです。祝福の宣言というと難しいですが、つまり神様の愛が私たちに一方的に注がれる。すでに注がれている、そしてこれからも注がれるという宣言です。 恵み・祝福は牧師から皆さんに注がれるものではありません。牧師が皆さんを祝福するわけではありません。私も含めた私たちみんなに、神様から与えられるものです。先ほど祝祷は第二コリント13:13に影響を受けていると言いました。しかしこの個所の言葉そのままで祝祷はできません。思い切って聖書から文言を変えているのです。 このままだと「あなた方」ですが、それを「私たち」に変えています。あなた方に祝福があるようにと私が皆さんに言ったら、まるで私から祝福が出てくるように感じるからです。祝福は牧師からあなたがた皆さんに行くものではなく、神様から私たちにあるものです。この祝福は牧師や誰かから出るものではありません。神様の恵みが私たちに等しく、豊かに注ぐよということが宣言されているのです。対象はすべての人とすべての生き物です。あらゆる生命、大人も子どもも、ペットも。すべての命に神様の恵みが注ぎますという宣言を最後にしているのです。 そしてこの祝祷の一番大きな意味は派遣ということです。これが大事だと思います。神様の恵み、祝福は礼拝の中で繰り返し確認をされますが、派遣はそれまで礼拝の中ではさほど意識されません。 私たちは礼拝が招きではじまると学びました。そして今日学ぶのは、礼拝は派遣で終わるということです。私たちの祝祷では「私たちを呼び集められた神様、いまあなたは私たちを派遣されます」と宣言されています。祝祷とは派遣なのです。礼拝は招きで始まり、派遣で終わるのです。 そしてこの派遣も、もちろん私が、牧師が皆さんを派遣するのではありません。神様が皆さんをそれぞれの場所に派遣をされるのです。 礼拝はこのように招きと派遣の繰り返しです。一度来たら終わりではなく、行ったり来たりする、それが私たちの信仰なのです。それが示しているのは、私たちの礼拝と生活が決して切り離されてた別々の出来事ではなく、その往復であるということです。私たちはその繰り返しによって、自らの生活を見直し、自らの信仰を見直すのです。  さて今日の個所を読みましょう。マタイ福音書の最後、クライマックスの場面です。イエス様は16節集まるように指示されていました。それは神様の招きです。そして人々はひれ伏しました。「ひれ伏した」は礼拝をするという意味です。イエス様に招かれて礼拝をしていたのです。もちろんその集まりは、熱心に信じる者の集まりであると同時に、信じ切ることが出来ない、疑いや不安を持った人々集まりでした。私たちと同じです。招かれ礼拝する、信仰と疑いをあわせ持つ私たちです。 しかしその共同体にはイエス様の方から歩み寄ってくださり、語りかけて下さいます。「すべての民を私の弟子にしなさい」というのです。弟子にしなさい。その対象はすべての人です。ユダヤ人だけでもない、あらゆる人々を、弟子にしなさいというのです。あらゆる場所と人々に向けて、出ていきなさいと言われています。私たちはイエス様に今、様々な場所に派遣されるということです。 イエス様が大事になさったのは、弟子になるということです。先生になりなさいというのではありません。今日教わったことをあなたはみんなに教えて回るのは弟子になった次のことです。まずは、私たちがイエス様の弟子になることが大事です。 私たちが求められているのは、どこに行ってもイエス様の弟子であること、弟子であり続けることです。私たちが他の誰の弟子にもならないことです。家庭や職場には自分の主人と思える人はたくさんいます。でもその中にあっても、私たちが主とするのはイエス様だけです。私たちは他の誰でもない、イエス様の弟子です。たとえどこへ派遣されても、イエス様の弟子であり続けるということがここで言われているのです。ただの派遣ではありません。弟子を派遣しているのです。 弟子とは洗礼を受けた人とイコールではありません。弟子として歩むとはどんなことでしょうか。私たちは祝祷で「私達は主なる神を愛し、隣人を愛しましょう。主なる神に仕え、隣人に仕えましょう」と言っています。これが弟子として歩むことではないでしょうか。弟子になるとは神を愛し、隣人を愛することです。神に仕え、隣人に仕える事です。 派遣された先で、神様が私を大切にしてくださるように、わたしも神様を大切にし、そして隣人を大切にする、それが愛です。神様が人々に仕えるように、神様に仕え、隣人に仕える。それがイエス様の弟子の生き方です。そしての先に、バプテスマがあり、教えることがあるのです。 私たちの礼拝はその終わりに、祝祷をします。それは神様の恵みの宣言です。そしてこの地上へもう一度派遣されることを示すのです。派遣した先で、弟子として生きよ。そのように私たちは、神様から送り出されているのです。そして私たちは1週間を弟子として生きるのです。 今日の礼拝でも祝祷があります。この宣言と、派遣の祝祷をただきましょう。1週間、それぞれに与えられた場所で、イエス様の弟子として生きることが出来るように、励ましを頂いてゆきましょう。 そして聖書によれば、イエス様は派遣されると同時に、いつでもわたしたちと共にいて下さるお方でもあります。イエス様は私たちを派遣されると同時に、一緒に私たちと歩んでくださるお方、インマヌエルのお方なのです。 神様は招き、派遣し、共にいて下さるお方なのです。その恵みを頂きましょう。お祈りをします。
2020/06/14
みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝をできること感謝します。集まることができる喜びを感じています。今日は子ども達も集まってくれています。私たちの教会は子ども達を大切にする教会です。一緒に礼拝できること感謝です。またご自宅でインターネットライブで見ている方も共に礼拝できること感謝です。...
2020/06/07
みなさん、おはようございます。今日はようやく集うことができること、この礼拝が実現したこと、心から嬉しく思います。心から主に感謝します。どのように過ごされてきたでしょうか。このコロナの出来事、影響を受けない人は一人もいませんでした。その間の生活や仕事に、ひとりひとりのドラマがあったはずです。つらかったこと、悲しかったこと、見つけた喜び、大切な気づき、生活の変化があったでしょう。ゆっくりと皆さんから聞きたいです。これから少しずつ皆さんと分ちあってゆけたらと思います。礼拝終了後、庭にお茶の準備をします。短い時間ですが、ぜひ交わりを持ちましょう。 私たちはこどもたちを大切にする教会です。今日も子ども達が集まってくれました親子室が狭い、密だということも懸念事項です。子ども達が安全に、三密を避けられるように、一緒に礼拝しお互いの命、存在を感じながら、礼拝できるようにということも検討をしています。一緒にこの礼拝の時を守って行きましょう。 またインターネットでも引き続き配信をしています。この機会、様々な事情で集えない方々の気持ちが本当にわかるようになった私たちです。集えなくても私たちは仲間です。それぞれの場所で礼拝をされている方も、一つの体として共に礼拝をしましょう。今日は礼拝の中心はみ言葉、聖書朗読だということ。そして宣教はその御言葉の実現を見てゆくことなのだということを共に考えたいと思います。 私は外出自粛の中、子どもと絵を描いて遊んだことがありました。自分の行きたい温泉旅館の絵や、妻が昼寝をしている様子を描いたりしていました。私は今はそうでもないのですがが、もともと絵を書くのは大の苦手でした。美的センスが乏しいのです。中学校の美術の成績で10段階で2、5段階なら1をとったことがある。それだけ大の苦手でした。そんな私ですが、絵についてもっとも印象に残る出会いは、ピカソです。 ピカソの絵を最初はまったく理解できませんでした。彼の絵は遠近法が無視され、抽象的になっているのが特徴だそうです。その絵を見ても下手な絵にしか見えないのでした。しかしゲルニカという絵との出会いは衝撃的でした。こういう絵です(絵を見せる)。 この絵を見て、私は直感的に衝撃を感じたのではありません。見ても価値は全く分かりませんでした。しかし、この絵が何を書いたのか、その解説を聞いて、初めて私はその価値を知ったのです。この絵はゲルニカという街で起こった、ナチス・ドイツの無差別爆撃、いわば市民に向けた爆撃を、市民虐殺をモチーフにした絵です。この絵ゲルニカには、無差別爆撃のイメージが描かれているのです。 その解説を手掛かりに、絵を見て想像力を膨らませます。そのような視点でこの絵を見ていると、折れた剣、バラバラになった体、叫ぶ動物たちを見つけることができます。すべての生き物たちの戦争への怒り、悲しみ、恐怖、平和への願いがこの絵から伝わってきます。 この絵から何を受け取るかは人それぞれ違うでしょう。それぞれにイメージが与えられるはずです。そしてイメージすればするほど、この絵に引き込まれていくのです。この絵から何をイメージするかは自由です。この絵をどのように解釈するかも自由です。何がそこに見えるかはそれぞれが感じることです。そこに正解はありません。 しかし私はまったく理解できなかったこの絵を、ほんの小さな解説をきっかけに自分なりに感じる、自分なりに理解をするという事を体験しました。短く小さな解説から絵のイメージが膨み、感動を受けたのです。貴重な解説でした。 もちろん、ここで大事なのはその絵の解説ではなく、絵そのものです。そして絵はこのことを感じてくださいとは書いてありません。その絵は私たちに想像力を求めます。絵があなたはどう受け止めるか、何を感じるかを問いかけてくるのです。 私はこの絵と、絵の解説の関係、聖書と宣教の関係によく似ていると思います。礼拝の中で一番大事なのは、み言葉です。礼拝の中心は紛れもなく、み言葉なのです。聖書のみ言葉が中心なのです。私は宣教の時間でその御言葉の解説のようなことをしています。 私は宣教の中で比較的「ここはこういう意味だ、こうしよう」という結論のようなことをはっきりと言う方でしょう。しかしそれはあくまで助けです。理解の助け、想像力の助け、皆さんがどう思うのかという問いかけです。 礼拝の中で一番大事なのは、誰かの解説よりもみ言葉そのものなのです。ですから皆さんがみ言葉から受けたイメージ、感じたことや問いを、ぜひ大切にしてください。宣教をきっかけに皆さんの中に、それぞれのみ言葉のイメージが残ることを願っています。 そのように礼拝を考える時、礼拝の中で一番大事なのは、宣教の時間という事よりも、聖書に直接触れる時、つまり聖書朗読が礼拝の中で一番大事だという事を感じます。 聖書はかつて一人が一冊ずつ持つというものではありませんでした。手書きで書き写され、会堂で大切に保管された巻物の形が多かったのです。ですから聖書の言葉は、聖書朗読を「聞く」ことによってしか受ける事が出来ませんでした。読むという機会はほとんどありません。会衆にとって聖書朗読を聞くことはとても貴重な機会で、重要なものでした。それはまさしく礼拝の中心、それは礼拝の中でもっとも重要なプログラムでした。 ですから当時の礼拝で、聖書朗読の奉仕は最も名誉ある奉仕とされました。教師や旅人など様々な人がその奉仕を任されました。私たちも聖書朗読を当番にしてみてはどうでしょうか。礼拝の中でもっとも重要なのはみ言葉、聖書の言葉です。聖書朗読です。聖書とその朗読が、礼拝の中で一番大事なプログラムなのです。 礼拝で一番長く時間を取るのは宣教ですし、聖書には一人で読んでもわからない部分がたくさんあります。そんな時私たちは礼拝の中心はこの宣教の時間だと感じることもあるかもしれません。しかしやはり礼拝の中で一番大事なのはみ言葉、聖書朗読の時です。 宣教とは「み言葉の僕」です。私はそのように理解して宣教します。宣教とは聖書のみ言葉を分かち合うものでなければなりません。その中心が話す自分や誰か人間や、誰かの体験であってはなりません。宣教はみ言葉を中心としてされるのです。 礼拝の中心は宣教ではなく、み言葉、聖書朗読です。礼拝は聖書講演会、聖書勉強会ではありません。どちらかといえば聖書を聞く会、聖書を読む会なのです。み言葉の意味がわかるか、わからないか、それが礼拝の善し悪しの基準ではありません。わからなくても、寝てても、聞いていなくても、神の言葉は神の言葉に変わりはありません。み言葉がある限り、それは礼拝なのです。宣教する私自身も、このみ言葉との出会いを大事にしたいと思っています。 もちろん聖書の言葉を理解すること、納得し、自分のものとすることもとても大事なことです。意味が分からない呪文を聞くのではありません。そして宣教は美術の解説と同じではありません。そこに神様の力が働き、神様の力によって、それが生き生き語られる業なのです。 私たちの礼拝はこのように神のみ言葉が中心です。再び集まることが出来た今日、そのことを皆さんと分ちあっておきたいのです。私たちの中心は神様、私たちの礼拝の中心は神様のみ言葉なのです。   今日の聖書の個所を聞きましょう。イエス様は今日の個所で、聖書朗読をされています。イザヤ書です。イエス様も聖書を朗読されたのです。み言葉を中心とされたお方です。会衆もイエス様が聖書を読んだのを、かたずをのんで見守りました。私たちよりもっと集中して聞いたでしょう。そしてイエス様はこのみ言葉について、宣教ともいえる言葉を残します。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」という言葉です。 み言葉、聖書朗読が礼拝の中心です。では宣教とは一体何でしょうか。何を指し示すものなのでしょうか。そのヒントがここにあります。ここでイエス様はみ言葉の実現を指し示しています。イエス様が聖書朗読の後に持たれた宣教、その役割は今日のみ言葉がすでに私たちの中に実現をしているということ、あるいはもうすぐ実現するという事、そのことを確認するということがイエス様の宣教でした。礼拝はみ言葉が中心です。、そしてそのみ言葉が、いま私たちの間でどのように実現をしているのか確認すること、やがて訪れると確信を起こすこと、それが宣教なのです。 今日私たちはまずこのみ言葉をしっかりと聞きましょう。そして私たちにもこのみ言葉がすでに実現したことを、この宣教によって感じてゆきましょう。私たちに実現したこととは何でしょうか。 そうです私たちは2カ月会うことができなかったが、今日私たち一緒に礼拝する、そのことが今日実現したのです。それはまさしく今日の聖書のみ言葉にある通りの出来事でしょう。それは捕らわれていた人が解放されたような出来事です。自宅にいなければならない、自宅に捕らわれていた私たちが解放された出来事。それが今日私たちの礼拝で実現したことです。まだ集うことが出来ない方にもきっとそれが起こります。 今まで会うことができなかった、YOUTUBEでも見ることができなかった、見えなかった、お互い、あの仲間が今日は目の前にいます。今日私たちには見る事が出来なかったことが見える、そのことが実現したのです。 周囲からはもっとも不要不急と思われるのが礼拝です。しかし私たちは不要不急と言われるその抑圧から解放されて、今日集うことが実現したのです。イエス様は今日すでに実現したとおっしゃいます。それは今日私たちにも同じ様に実現したのです。今日私たちに神の業が、実現しました。神様の言葉が実現をしたのです。この礼拝に集えたこと、それが神様の業です。その御言葉の実現なのです。 今日私たちはこの礼拝の中で、このみ言葉を思いめぐらせましょう。礼拝はみ言葉が中心です。そしてこの宣教の時、それぞれにみ言葉のイメージを頂きましょう。 お祈りいたします。

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